箱入りイデア

 最初に覚えたのは息苦しさ。

 生理的反応で息を吸えば消毒のアルコールの匂いが微かに鼻をついた。LEDに照らされた床も壁も純白。いかにも私たちは清潔です、と言った雰囲気は疎外感をあたしに沈黙のまま叩きつけて来る。小さく溜息を吐いてあたしはあたしを誘導する人間を観察する。こんな空間に適した無味無臭の人間。白衣を纏った平均値たち。研究員と括られるこの人たちがどんな権力を持っているのか、あたしは知らないし興味もない。

 ただ、招かれたから来ただけで。

 あたしは望んで来た訳でなく、望まれてこんな研究所に来ている。

「もう間もなくです」

 不意に掛けられた声にはっとする。研究員の向こうにはいかにも堅牢なドアがあった。研究員の足が止まる。

「此処からはあなただけでお願いします。そう言われているので」

「はあ」

 あたし一人がドアの前に立つと音もなく滑らかにドアは開いた。けれど、そこにはまた真白い空間。振り返る。研究員は変わらない仏頂面であたしを促す。恐る恐る足を踏み入れると、頭上からミストが降り掛かる。消毒液の匂い。見かけの通りに、この空間は清潔しか許さないらしい。目の前には病的なまでに白いドア。奥のことなんて少しも窺えない、分厚くて硬い、どうしようもない隔たり。あたしはその前に立つ。小さな電子音。きっと、あたしのことを検査しているんだ。この先に進むのに問題のない人間か。施設そのものがネットワークに接続されているんだろうからそんなことは朝飯前なんだろう。興味がなくたって、いやでもあたしたちはそう言うことを学ばされる。そうじゃなきゃ、将来社会に出た時に何にも出来ない不適合者になってしまう。

 でも、こうまでした先にいる人は、一体どんな人間なのだろう。

 あたしを名指しで呼んだ人。

 現代社会で生きる人間なら誰もが知っている有名人。

 潔癖な施設の、幾つものドアに隔たれた先にいる人。

 まるで。

「意外と、そう言う訳でもないんだよ」

 投げ掛けられた声。短い駆動音と共にドアが開いた瞬間だった。

「不自由に見えるかも知れないけれど、私が望めば外出も許可が下りるだろうね」

 開かれたドアの先で、瑠璃色の瞳が緩やかに細められた。ぽかんと立ち竦むあたしに遠慮もない風に近付く彼女は、あたしとそう歳は変わらないように見える。ふわふわとした亜麻色の髪が陽炎みたいに彼女の輪郭を飾る。真っ白な施設の中にいて、彼女だけは驚くくらいに色彩豊かだった。

 ソフィア=ヨーク。

 この世で一番上手に脳を使う人。

 全ての知識の行き着く果て。

 魔女。

「私は、私が望むことしか知れないんだけれども、ね」

 苦笑。そこで初めて、あたしは彼女と対面してから一言も喋っていないことに気付いた。

「あれ、なんで」

「ネットワークに繋がっていれば、思考も情報と一緒。研究員も言ってたでしょう? 私の前で企み事は無意味……ああ、興味がないからって上の空だったんだ。ちょっとだけあいつらにも同情しちゃうな」

 悪戯っぽく笑って彼女はあたしの手を何の遠慮もなく引く。

「ようこそ私の研究室へ。入り口で話すのも何だし早く来なよ」

 何年も前からの友達みたいに彼女は、ソフィア博士はあたしを彼女の言うところの研究室へと案内する。施設内の他の場所同様に白く清潔な空間。

「味気ないでしょ」

「はあ、まあ、確かに」

「緊張しないで」

 色んな情報に晒されて生返事しか返せないあたしに苦笑いして、彼女は無造作に壁に手を触れた。

「こんな堅っ苦しい場所も良くないよね」

 風。

 緑の匂いのする風があたしの頬を撫でた。

「えっ」

 出した声の響き方がさっきとは全然違う。

 瞬き一つの間にあたしたちは緑豊かな庭園に放り出されていた。

 暖かな太陽の光に溢れた、手入れの行き届いた庭園。地面から生えた本棚ばかりがさっきまでの研究室の名残を伝えている。でもそれ以外は、肌に感じる空気も、風の匂いも、何もかもが塗り替えられていた。

 拡張現実。

 種は簡単。日常的に消費される娯楽の手段。でも、その規模が桁違い。

「五感まで……」

「うん。電気信号で五感なんて書き換えられるからね。——ああ安心して、この部屋でしか此処までのことって許されてないから」

「それは」

 思わず声が転がり出た。

「技術的な意味ですか」

「勿論、法的な意味だよ」

 にこりと、事もなげに彼女は笑う。何を当たり前のことをと。

「この施設は一種の治外法権だからね、色々と勝手が効く訳。でも法律はこうした技術には厳しくってね。流石の私でも、此処以外でこんなことしたらすぐ逮捕されちゃうと思うよ。ああいう類いのものは、兎角研究者には厳しいんだ。……ま、特例認めてもらってるからそんなに文句は言えないけどね」

 それで、と彼女はあたしを庭園のテーブルへと案内する。下草が足首を擽る感触を知覚させられながらあたしは席に着く。

 脳は絶えず信号を発信し、そして受信している。

 そのメカニズムが暴かれて、情報処理器官として『育てられる』と究明されてもう数十年が経っている。今やあたしたちの脳は一つ、電脳核を埋め込むだけで広大なネットワークに自在にアクセスし情報を収集、処理出来るようになっていて、あたしたちは一定の年齢になればそうした脳の機能を適切に運用出来るように教育を施される。

 拡張現実というのはこういう社会になってからメジャーになった娯楽なのだと聞いたことはある。脳の受信機能を利用し、そして視覚と聴覚を司る信号を解析して可能となるジャンクな遊び。ネットワークに接続すれば多種多様な『フィールド』が転がっていて、今日着る服を着るように好きな拡張現実に身を投じることが出来る。

 もっとも、拡張現実に完全に没入出来るのは専用の装置を着けている場合。そうでなければ、あくまで視覚と聴覚の一部に限られる。

 理由は簡単。機能の限界。

 脳は優秀な情報処理能力を持ってはいるが万能ではない。一度に受信出来る信号、処理出来る情報は有限だ。危険性なく拡張現実で書き換えられるのはどうしたって限界があるし、何より現実という強烈な情報を上書き出来る程の凶暴な情報の作成は困難を極めるという。

 そう、習って来たのに。

 彼女は、あたしの目の前で楽しそうに紅茶を淹れているソフィア=ヨークという研究者はあたしの五感全てを一瞬にして掌握しおおせて見せた。

 圧倒的な現実を叩き壊す拡張現実。

 法律が必死になって規制を設けるのも頷ける。

 情報脳科学と呼称されるこの分野は危険なのだ。

 ともすれば、人一人殺せてしまうんじゃないかというくらいに。

「そう思ったから、君は此処に来たんだよね?」

 はっと目を見開く。彼女は二つのティーカップを手に穏やかにこちらを見ていた。

 思考を読まれている。それは、さっき実演されたことだった。何となくバツが悪くなって視線が下に落ちる。視界の中に湯気の立つカップが滑り込んだ。ふわりと芳香が鼻を擽る。

「これは現実」

 ふふ、と笑って彼女は椅子に座る。

「一応言っとくけど、私だって四六時中誰かの思考を読んでいる訳じゃないからね。これもただテキストを眺めているってものじゃないから疲れちゃうんだよ。でも長考されたら気になっちゃって、ね」

「結構無遠慮なんですね」

「かな? でも此処は私の研究室だから、私のルールが優先される。思考は適度に声に出すことだね。私も、出来れば君自身に組まれた言葉ときちんと対話したいからさ」

 それで、と彼女は目を細めた。

「私に呼ばれて、君は何を求めたのかな?」

 あたしは彼女に望まれたから此処に来た。

 望んで来た訳じゃない。

 でも。

 招かれたのなら、どうせなら、欲しいものはある。

「博士の研究は、人を殺せますか?」

「それは社会的な意味、かな」

「技術的にです。もっと直截に言いましょうか。博士は此処から、何処かにいる誰かを殺せますか?」

 あたしの、きっと失礼極まりない問い掛けを彼女は穏やかな微笑で聞いて、それから表情を少しも変えることなく口を開いた。

「出来るよ」

「したことは?」

「流石にないな。理論上可能であることを知っているだけ。……成る程ね。君は、君の友人を殺した犯人が私だと思ったんだね?」

「いいえ、そこまででは。でも、少し、知っているのかなって」

 あたしの親友を殺した奴のことを。

「博士って公共ニュースとか見るんですか?」

「見ないね。ノイズが多すぎる。でも私は、君の周りで何が起こったかは知ってるよ」

「だから」

「いや、それが君を呼んだ理由ではない。本当に偶然……思わぬ事態だったよ」

 彼女の指がくるりと宙を踊る。板状の仮想ディスプレイが展開されてあたしたちの間で情報を展開する。

 それは、あたしの親友が自宅で突然死したという、小さな小さな記事だった。

 何の問題もない学生。

 休み前、平日の悲劇。

 自室。深夜のこと。

 突発性の心不全。 

 仮想現実へ没入していた際の不幸な事故。

 嘘だ。眉が寄るのが分かった。

 そんな訳ない。

 そうしたささやかな記事の下には、細やかな文字列。この事故のことを語っていることは容易に知れたけれど、ふと、一つの単語に目が留まる。

 事件。

「ネットワークが絡んだ事象は大抵私に報告が上がるんだよ。再現性を確認しにね。単純に言えば、貴女が犯人ではないのですか? ということを何枚ものオブラートに包んでわざわざ私に聞きに来るんだ。それで私が首を横に振れば彼らは安堵して私に助言を求めて来る……不毛な話だけど、まあ、仕方のないことなのかも知れないね」

「犯人を、聞きに来たんですか? このことで?」

「そう」

 目を伏せて、博士は紅茶を飲む。

「君が勘づいているように、これは事故じゃない。立派な殺人事件なんだよ。私たちの研究を悪用した、ね」

 背筋を、氷が滑り落ちたみたいだった。

「でも、警察は」

「事故処理。そうだね。だって、そうせざるを得なかった。——君の友人が死んだ日の死者はね、平均値を大きく上回っていたんだよ。何の変哲もない病死や事故死が、偶然にも多くてね」

 分かるかい?

 問われた答えが分からない程あたしは馬鹿じゃない。

「無差別事件」

「そう。あの日、同時多発的に、殺人事件は発生した。誰もがいつものように脳をインターネットに接続し、思い思いに利用していた最中に」

 博士の指が銃を象り彼女の米神へ据えられる。瑠璃の瞳が眇められた。

「脳を破壊されたんだよ」

「そんなの……大事件じゃない!」

 思わず叫んだ。

「そんな、そんな恐ろしいことをどうしてひた隠しに」

「世界の誰もが、君のようになるから」

 博士は何処までも穏やかだった。慈愛に満ちてさえ見える微笑みを浮かべて、あたしの絶叫に丁寧に回答を提示する。

「この事件のトリガーは【脳をインターネットに接続すること】。この条件さえ当て嵌まれば誰もが殺人事件の被害者になり得る。今社会で生活するのに必要な絶対条件こそが、己の生命を脅かす……そうなれば、社会は大規模な障害を発生させるだろうね。そんな事態を、招く訳にはいかないんだよ」

「だから、あたしの親友の死も偽装されたんですか」

 社会の健全なる運営の為に。

 そんなことの為に。

「無論、警察もただの木偶じゃない。私も、調査協力を仰がれている。おかげで、やり口はもう判明している。今は警察が水面下で犯人を追っているんじゃないかな」

「どうやって、殺されたんですか」

 感情の起伏の小さい博士の声色は、対峙するあたしの精神も穏やかに宥めているようだった。如何な激情をぶつけても揺るがない声に、あたしは嘆くよりも生産性のある対話の続行を選択する。

「さっき、模様替えをしただろう?」

 彼女はやはり穏やかに回答する。

「それの応用。通常処理出来ない莫大過ぎる情報をインターネットを介して被害者の脳へと流し込むんだ。現実を上塗りする暴力的なイメージ。惑乱した脳は過負荷に耐え切れず、生命維持を含めた全ての機能を停止する。脳が動かなければ、人体なぞただの肉の袋に過ぎない。酸素、血液双方の循環は瞬く間に停止して人体は死に至る」

 あたしは喉を撫でていた。穏やかに吹く風に言いようのない違和感を感じて思わず身震いする。仮想現実。現実を書き換える魔法のような技術。

 人を殺し得る、技術だったなんて。

「ただ、それだけじゃ人は死なない。そんな暴力的な情報、きちんと処理しようとする前に、優秀な人間の頭脳はストップを掛ける。上限を理解しているからね。だからこそ、今回の事件は悪質。そのストッパーを丁寧に機能不全にした上で情報を取り込ませるなんて、明確な殺意がなきゃ出来ないよ」

「犯人の目処は」

「残念だけど、それは私の領分じゃない。警察の仕事だね。まあ……同業他社かなとは思っているけどね」

「何処かの研究者ってことですか」

 それはそうだろう。あたしみたいな一般人じゃとても真似できない。それこそ、目の前の博士と同じ知見を持つ人でなきゃ。

「だろうね。うちのライバルか、それか元は此処にいた人間か。まあ出来る人間は限られている。捕まるのは時間の問題じゃないかな。そうなればきっと、全てが明るみになる」

 図ったように、ブザーが部屋に鳴り響く。さっと夢から覚めるように、庭園の風景が溶けていく。現実の真白い研究室を、正しく脳が知覚する。

「ありゃ、もうこんな時間か。相変わらず短いね」

「もう終わりなんですか」

「残念ながらね。まあ気が向いたらまた呼ぶから、その時を楽しみにしておいてよ」

 にこりと、やはり穏やかに笑って博士はティーセットを片付ける。

「分かっているとは思うけどさ、此処でのことは誰にも言っちゃいけないよ。君なら大丈夫だと思うけどね」

「は、はい。——いや、待ってください博士」

 ふと、あたしはどうしても聞きたかったことを思い出す。退去を命じるアナウンスに負けない大きな声で問い掛けをぶつける。

「博士は、どうしてあたしを呼んだんですか。事件が理由でないのなら」

 あたしは招かれたから来て、どうせだからと欲しかった情報を求めた。

 でも、結局博士があたしに求めたことは何もない。

 なら、あたしが此処に来た意味は、博士にとっての意味は一体。

 そう問い掛けると、博士は少し俯いて、それから薄らと頬を赤らめて口を開いた。

「君の叔父さんがね、私の師匠だったからだよ」

 はにかんで、彼女は続ける。

「私の師の血を引く人間の紡ぐ言葉を聞いてみたかったんだ」

 穏やか、というよりは無邪気で子供っぽく弾んだ声色で。

「ありがとう。どうか君の叔父さん——サリヴァン教授にも宜しくと伝えてね。あの人になら、全部話してしまってもいいから」

 そう言って、彼女は私を部屋から出した。

 振り返ったあたしは、最後に、あたしを見送る博士を視界に収めた。

 まるで初恋に胸ときめかせる女の子みたいな顔をした博士を。



   ・・・・・



 博士のいる研究施設が全焼したのは、それから一週間後のことだった。

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