イデア
夏鴉
イデアの少女
あらゆる所作は、情報に対するノイズだ。
かつて人は、スマートフォンやパソコンと呼ばれるデバイスを介さねば情報にアクセス出来なかったという。デバイスを起動し、フォームに任意のワードを打ち込み、検索。一つの情報に至るまでに実に煩雑な手順を踏んでいたのだという。
しかしそれは昔の話。
己の身一つで、今人は情報にアクセス出来る。
だのに未だ、人はかつてのノイズを排除しきれない。
「聞いておられますか、教授」
「あ、――ああ、聞いてるよ」
やれやれと言わんばかりの女の声に生返事を返しながら渡された資料に目を通す。同時に脳を【走らせる】。
ソフィア・ヨーク。
資料内の文字情報を脳内で仮想音声情報へ変換。脳内に音声を落とせば無限に広がるインターネットから目当ての情報が引っかかる。
何て、無駄。
思わずため息が零れた。
人間は今や脳を直接インターネットに接続している。だと言うのに、かつての方法をなぞるのをやめられない。脳内に仮想のOSやフォームを構築し、デバイスを操作するが如くインターネットへアクセスする。ここ数年は視界上に自動でOSを展開するコンタクトレンズなんていうのも出回っているという。全くの無駄だ。科学への冒涜ですらある。理論上、本来はそんな煩雑な手続きなど不要な筈なのだ。脳はそれだけのスペックを誇る。だが、肝心の人間自身がその性能を使いこなすだけのスキルをまだ持てていない。どれだけ最適化しようとしても、シームレスな情報へのアクセスなど夢のまた夢だ。
「天下の大企業様のご令嬢ねぇ……」
「あ、また教授勝手に調べてますね」
「クセだよ、クセ」
事実だ。情報取得の最適化の為に常に脳を走らせてきた。どんな些細なことでも練習がてらに調べ上げるのが習性になってしまっている。
「成る程、コネ使って随分早くから情報器官を育ててた訳か……随分と思い切ったことを……」
脳には情報取得に特化した器官がある。何もしなければ顧みられることのない小さな部位。それが情報取得に対して有用であると発見されたことで、大きな革命が起きたのだ。情報革命。一定の年齢になれば薬物投与によって情報器官を育て、そして小さな電脳核と呼ばれる装置を体内に埋め込むことでデバイスレスでの情報アクセスを可能にする。それが法律で決められ、常識となっているのだ。
大方コネと大金、それから幾許かの大義名分――情報革命に追い風を、などロマンシチズム溢れた言い分は何時の世でも有用だ――を駆使して今回のケースでは法律での基準を下回る幼さで処置が敢行されたのだろう。情報器官、電脳核に関する処置は安全性が確保されているとは言え、随分と思い切ったものである。
「いや、だがそうか、幼ければ既存概念に囚われない」
「みたいですね、だからこそ、こうして成果を持ち込まれたのでしょうし」
「だろうな。まあ。興味はそそられる」
「その言葉だけで、先方としては満足かもしれませんね」
「まあこれ以上は実際に見てみて、だな。今彼女は?」
「会議室で待機してらっしゃいます」
・・・・・
あらゆる五感は脳の処理によって制御されている。
であるならば、脳を走らせ視界に現実にはないものを描き出すのも不可能ではない。
懐からスクエアフレームの眼鏡を取り出し掛ける。とたんに視界に層が作られる。脳機能の観測が出来る視界レイヤーだ。専門的かつ慎重な運用の為流石に補助具は必要だが、かつては大きな機材が不可欠だったものだ、随分と便利な世の中になったものである。
会議室のドアをノック。
「――はい」
声色に驚く。想定はしていたが、それ以上に幼い声だ。僅かな動揺を飲み込んで、会議室に足を踏み入れる。そこで。
今度こそ、言葉を失った。
広い室内。大きな机と並んだ椅子。その内の一つに彼女は――ソフィア・ヨークはちょこんと座っていた。細い足は床に届いておらず、ぷらぷらと退屈そうに揺れている。職員に出されたのであろうジュースの入ったコップを両手で抱えたまま、じい、とこちらに視線を向けていた。
凍り付いたように停止した思考が再起動するのに、暫時。
「――あー、話は聞いているかな? サリヴァンだ、教授の」
ようよう、喉の奥から声を絞り出す。口元には笑み。なるべく、相手を威圧しないように。口調も適宜修正していく。相手は、稚い子供だ。
「はい、グレン・サリヴァン教授。情報脳科学の権威。お父様の憧れの人。情報革命の風雲児。若くして教授に上り詰めた天才」
だというのに、そんな気遣いなどどこ吹く風で彼女は言葉を連ねる。
「私はどうですか? 教授」
そうして、にっこりと、あどけなく笑うのだ。
その笑顔に重なるように、脳機能の観測結果が無数の数値として羅列される。
脳稼働率だけが平均値の、それ以外は測定不能を意味する限界値という形で。
「……想定以上だ」
「良かった。お父様も喜んでくれる」
「そんなものじゃない。君の脳は、情報器官運用における最適解だ」
にこにこと笑顔を絶やさない少女。しかし、彼女の脳は今も尚常人には理解しがたい効率で運用されている。
人間の脳には眠っている箇所がある。
常にフル稼働させていれば負荷がかかり、ともすれば命すら脅かしうるからだ。
研究者によってはその眠れる箇所をも働かせて情報処理能力を引き上げようとしているが、そんなものを実用化するなど世界の倫理が許さない。故に、現在の主流は、いかにこれまで働いていた脳機能部の働きを効率化させ、生まれた余力を情報処理能力へと回すか。数多の研究者たちがその解を求めていたのだ。
眼前の彼女は、その解だった。
「『無駄が、一切ない』」
「――は?」
混乱のままに奔放に走っていた思考が止まる。
彼女が口にしたのは。今のは。
「『俺の思考じゃないのか?』」
「っ!?」
「びっくりしました?」
ふふ、と笑う少女はあくまでも楽しそうだった。
「情報って枠が広いんです。言ってしまえば、何だって情報になる。感情も、思考も、脳が働いて生み出しているものですから、情報の一つです。だから、やり方が分かれば掬い上げられる」
「――待ってくれ、それは、つまり、君の情報取得は、何にも囚われていないのか」
「初めから、誰だって何にも囚われてはいません。勝手に、檻を生み出さなければ」
根本から、違うのだ。
あどけない笑みを浮かべる少女。しかしその笑みは無垢なものではない。
彼女は知っているのだ。
脳の動かし方が、そもそも違うのだ。
彼女の中に調べる、という概念がそもそも存在していない。彼女はノータイムで情報を取得している。世間一般で言う情報から、彼女自身が定義した情報まで、その全てを常に吸い上げ観測している。
彼女は、全てを知っているのだ。
「それは違います。私は、ここにある情報を得ているだけ。全知全能なんかじゃない」
何も言わぬこちらに返答して、少女は笑う。
「私は世間知らず。だから、お父様は私を教授に会わせたんです」
「だから……?」
「お父様は学んできなさい、と」
「は?」
唐突に投げられた言葉に間抜けな声が漏れる。待て、と取り繕うのも忘れて無意味な言葉を連ねる。
「あれ? ……ああ、書いてなかったんですね、お父様ったら」
困ったような微笑。
「私は生き方を学びに来たんです、サリヴァン教授」
小さな少女はそう言って、あどけなく笑った。
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