天使か悪魔の笑い声


 それから美姫達はゲームセンターやボウリングで遊んで過ごした。

 楽しすぎて本当にあっという間に感じた。これほどまでに時間が止まってくれればいいのにと思ったことは初めてのことである。


 日が傾き、青かった空に赤みが差した頃、遊び疲れた美姫達はモールの中央へと向かっていた。ドーナツ型のモールの中心は広場になっており、イベントなんかがあるときはステージが設置されたりしているのだが、そういったものがないときはベンチなどで休憩できるようになっているのだ。

 昼間の人混みはこの頃にはすっかり治まっていて、広場には人がちらほらといる程度だった。美姫達は空いているベンチに並んで腰掛けた。


「いやー、疲れた疲れた。こんな広い遊び場が学校の近くにあるなんて本当にいいよな」


 大河はうーんと大きく伸びをしてから続けて感謝の言葉を口にする。


「本当に今日はありがとな。臼井さんのおかげで楽しめたよ」


「こちらこそ。大河くんのおかげで久々にすごい楽しい休日だったよ、ありがとう」


「ははは、そいつはよかった」


「うん……」


「……」


 ふたりして黙ってしまう。

 だけど、美姫にはその沈黙は苦痛ではなかった。会話なんかなくても大河が隣にいてくれるというだけで美姫は幸せだったからだ。

 しばらくそうしていると、大河が意を決した様子で突然立ち上がると美姫の正面へと回り込む。今日一日ずっと一緒に過ごしてきたが、こんな近距離で向かい合ったのは初めてだったので、美姫の緊張感はいやが上にも高まっていた。


「ちょっと大事な話があるんだけど聞いてもらっていいか?」


 真摯な眼差しを一身に受け、美姫は言葉を発することが出来なくなってしまう。それでも肯定の意を示すべく、こくこくと首を上下に大きく振った。

 それを見た大河も軽くうなずき返す。そして、美姫へ右手を差し出すとこう言った。


「おれ、前の学校で友達とかいなかったから、こんなに楽しかったのって初めてなんだ。……だから臼井さんがもしよければだけど、おれと付き合ってくれないか?」


 耳を疑うようなセリフ。でも、本当は心のどこかで待ち望んでいたセリフ。

 長湯してのぼせているときと同じように頭がふわふわとして意識が定まらない。それでも大河の想いに応えるべく、ごくりと唾を飲み込んでのどを潤した。


「はい、喜んで!」


 美姫はそう返事をして立ち上がると、差し出された大河の右手をぎゅっと握った。


 ああ、なんて幸せなのだろう。つい一週間前まで樹理亜達にいじめられて不幸のどん底にいたのが嘘のようだ。


 最高に幸福な瞬間というのはやはり夢心地になるもので、美姫は大河の告白をオーケーした直後に天使の笑い声を聞いた。それは鈴の音のように耳障りのよい美しい声だ。

 とはいえ、天使がこの世に存在しないことなんて美姫にだってわかっていた。しかし、その笑い声は幻聴や錯覚なんかじゃなく、たしかに美姫の耳に届いている。

 いったいどういうことなのだろうと訝っていると、美姫が座っていたベンチの正面にある柱の陰からその笑い声の主が姿を現した。


 ――天使。


 その姿を見てもなお美姫は瞬間的にそう思った。それほどまでにその人物が美しかったからだ。

 しかし、すぐにその人物が天使とは対極に位置する存在であることに気づく。


 腰まで伸びたさらさらな黒髪。


 ぱっちり二重の大きな目。


 ぷるんと艶やかな唇。


 ――樹理亜である。


 樹理亜だけではない。後ろから千恵里と咲良のふたりも次いで美姫の前へと出てきたのだ。樹理亜と千恵里のふたりは腹を抱えて大笑いしており、普段は無表情を貫いている咲良もにやにやと口元をゆがめている。


「いやー、ほんっとうにブスイちゃんはピュアだよねー。これからはジュンスイちゃんって呼んであげたいくらい」


「あはは、それウケるんだけど。ていうか『はい、喜んで!』とか、居酒屋か! ホントにブスイはキモいわー」


 告白の現場を樹理亜達に目撃され、美姫は顔から火がでるほどに恥ずかしかった。


 ――でも、大丈夫。いまはもうひとりじゃないのだ。心強い味方がいてくれるのだから。


 美姫はそう思って出来たばかりの彼氏の方をすがるように見やった。

 だが、そんな期待はもろくも崩れることになる。大河は美姫の救いを求める視線に対し、まるで樹理亜がするような狡猾な笑みを浮かべ、つないでいた手をぱっと振りほどいたのだ。


「あー、この一週間マジでキツかったわ。でもこれでようやく解放されるってわけだ」


 大河はそう言いながらくるりと背を向けると、右手を服の裾でごしごしと拭いて樹理亜達の元へと歩き出す。美姫はなにが起こっているのかわからず、ただぽかんとその光景を眺めていることしかできなかった。


「ブスイちゃんごめんねー。これじつは全部嘘だったの。大河くんにお願いして、ブスイちゃんを惚れさせようっていう趣旨のドッキリを仕掛けたんだ」


「……え?」


「でもね、これは悪意のあるドッキリじゃないんだよ。わたしね、ブスイちゃんってピュアな子だから、大人になってから悪い男に騙されるんじゃないかって心配してたんだ。だから今回のドッキリはその耐性をつけるためのものに考えたの。ブスイちゃんのことを想ってね」


 樹理亜の言っていることがまるで理解できない。それほどまでに美姫の頭は混乱していた。


「でも、大河くん、わたしを助けてくれた――」


「だーかーら! 最初っから全部仕組まれてたことだって言ってんの。あんたを助けたのも、こうしてデートしてたことも、告白されたことも全部。ほんっとにブスイは理解力ないよね」


 千恵里は呆れた様子で首を横に振る。


「ま、でもそれもしょうがないか。大河くんがアカデミー賞ものの迫真の演技をしてくれたからね」


「お? やっぱりおれの演技ヤバかった? こりゃ俳優にでもなるしかねーな。でも、樹理亜の脚本あってこそものだろ」


「わたしもブスイちゃんをひっかけるために必死だったからねー。とはいえ、やっぱり今回の一番の功労者は大河くんだよ。なんたって一週間もずっと演技し続けてくれたんだから」


「いや、マジでキツかったからな。だって、こいつとの会話くっそつまんねーんだもん。なに言っても相づち返すくらいしかしないから話が続かない続かない。こいつと接していているよりも『モンスターシャーク』とかいうクソ映画を観てたときのほうが遙かに楽しいとかあり得なくね?」


 大河が樹理亜達と楽しそうに話しているのを見て、美姫はようやくすべてを理解した。


 大河は樹理亜達とグルで最初から恋心をもてあそぶつもりで近づいてきたのだ。

 こんな酷い仕打ち、間違いなく樹理亜が企てたことだろう。やはり、この悪魔から逃れるすべなんてないのかもしれない。


 壊れたと思っていた世界が隠れていただけで実際はまだそこに存在すると知り、美姫はへなへなとその場にへたりこんでしまう。あまりにも信じられない――信じたくない出来事に直面し、血が凍ってしまったかのように体全体に寒気を感じていた。それなのにお腹の奥の方だけは燃えているかと錯覚するほどに熱い。

 そんな中、大河がなにか思い出した様子で美姫の方へと向き直る。先ほどまで見せてくれていた真摯な眼差しはそこにはなく、代わりに明らかな侮蔑の色が瞳に写っていた。


「そういえば、お前に話したおれが転校してきた理由。あれ、本当は逆だから」


「ぎゃ……く……?」


「おれがいじめられていたんじゃなくって、おれがいじめてたってこと。ニュースにもなってたから知ってるかもしんねーけど、東北の中二男子生徒焼身自殺ってあったろ。あいつをいじめてたのおれなんだぜ」


 大河はどこか誇らしげに語り続ける。


「結局、学校の体裁を守るため原因は特定されなかったことになってるけど、ぶっちゃけクラスの奴ら全員がおれのいじめが理由であいつが死んだって知ってるわけ。なんのお咎めもないとはいえ、そんな中じゃ生活しにくいじゃん。だからさ、なんのしがらみもないところに転校してきたっつーこと」


 全部嘘。いじめられていたということも。助けてくれたことも。すべて。


 そんな嘘を全部信じて、大河を好きになった自分が愚かで、情けなくて、どうしようもなかった。


「あー、そうそう、もうひとつだけブスイちゃんに伝えておかなきゃいけないことがあるんだ」


 樹理亜は、立ち上がる気力もなくなった美姫を見下しながら恍惚とした面もちで目尻を下げる。


「ブスイちゃんは大河くんのこと本気で好きになっちゃったと思うけど、そこはきっぱりあきらめてほしいんだ。というのもね、わたしと大河くん、じつは付き合ってるの」


 お腹の熱がさらに上昇した気がする。まるで臓器がぐつぐつと煮えたぎっているようだ。


 そんな美姫を後目に、樹理亜は自分の発言を証明するかのように大河と腕を組んでみせた。大河の方も、樹理亜の頭を優しくなでていちゃつき始める。

 ――そして、ふたりはキスをした。

 それは恋愛ドラマなんかでよく見るそれとはまったく違った。まるで別の生き物のように舌をぬるりと動かし、お互いにからませる。ねっとりと濃厚なキスだった。


 その光景を目の当たりにして、お腹の奥にこもっていた熱が、逃れられない衝動とともに一気に上部へとせり上がってくる。そして、その熱は吐瀉物となり美姫の口から吐き出された。

 どんなに胃の方向に押し戻そうとしても、昼間に食べたハンバーガーとポテトが見るも無惨な形で水音をたてて地面にこぼれる。

 それと同時に目からは涙もあふれ出ていた。樹理亜達の前では二度と泣くものかと思っていたはずなのに、一度こぼれ落ちた涙は止まることを知らない。


「うわ、きったね。飛び跳ねたのが靴にかかったじゃねーかよ、死ね!」


「フられて泣きながらゲロ吐くとかキモ過ぎんだけど!」


 千恵里と大河から酷い言葉で嘲られ、美姫は自然と自分の胸元をまさぐっていた。

 しかし、そこに望んでいたものはない。当然だ。カッターナイフはもう必要ないと自ら手放してしまったのだから。

 なんの支えもなく悪口にさらされ、美姫の心は崩壊してしまいそうだった。

 それでも、千恵里と大河の悪態はますますヒートアップしていく。


「つーか、ブスのくせにおれと付き合えるとか期待してる時点でキモいよな」


 心が。


「本当に図々しいよね。ブスイがまともな人間と付き合えるわけないじゃん、マジで」


 崩壊していく。


「そりゃ言えてるわ。ゲロ吐く女が好みの男なんて、この世にいねーもん。そのゲロにたかる蠅とかがお似合いなんじゃね、こいつには」


「それウケるんだけど! でもブスイにはぴったりかもね。蠅と結婚して蛆でも産んだら連絡してよ。出産祝いに殺虫スプレー贈るからさ」


 崩壊する。がらがらと音をたてて。壊れる。なんの抵抗もできないまま。でも、そのほうがいいのかもしれない。心が壊れてしまえば、きっと世界も壊れるのだから。身をゆだねよう。壊れることに。さあ、壊して。心を――


「やめなよー。そんなこと言ったらブスイちゃんかわいそうじゃん。ブスイちゃんは失恋のショックが大きいんだから、もうちょっと優しくしてあげて」


 心が壊滅する直前で千恵里達をたしなめたのは樹理亜であった。千恵里達が黙ったのを確認すると、聖母のように慈愛に満ちた笑みを美姫へと向ける。


「ブスイちゃん、大丈夫? これ使う?」


 そう言って樹理亜はハンカチを差し出した。


 美姫の二の腕がぶわあっと粟立つ。


 樹理亜という人間が理解できない。


 なぜこんな酷いことをするのか。


 酷いことをするくせに、なぜそんな笑顔を作れるのか。


 なぜ心を壊させてくれないのか。


 なぜ――


 理解できないものというのは人間にとって一番の恐怖である。

 つんと臭う胃液がまとわりついた口周りを袖口で拭うと、美姫は一心不乱に逃げ出していた。だが、どんなに全速力で逃げ続けても、背後から樹理亜が迫ってくる気がしてならなかった。

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