手放した凶器と狂気


 大河に助けられた日を境に、最悪だった世界が嘘のように平穏なものへと変わっていた。


 学校では大河はいつも美姫の側にいてくれた。


 昼休みも毎日一緒に昼ご飯を食べてくれた。


 帰宅してからの電話も日課になっていた。


 そんな大河というボディーガードがいるため、なにも手が出せないようで樹理亜達からのいやがらせはピタリとやんだ。美姫と大河から距離を置き、時々こちらを見ながらこそこそと陰口を叩くのが関の山といった感じである。

 ただ、そんなものはいままで受けた仕打ちに比べたらなんてことはなかった。自分を守ってくれる存在がひとりでもいてくれるというのは、美姫にとってそれほどまでにメンタルを強めてくれるものだったのだ。


 そんな生活が一週間ほど続いたある日のことである。

 美姫はいつものように家の電話で大河と通話をしていた。


 美姫は口下手なため、会話はもっぱら大河が主導となっていた。プロ野球の話、格闘技の話、ゲームの話、その他もろもろ。男子が好きそうな話題が大河の口から語られる。

 正直、美姫はどれもまったく詳しくない。それでも、大河が楽しそうに話しているのを聞いているだけで気分が弾んだ。美姫にとって彼の言葉の合間に相づちを入れている瞬間が本当に幸せな時間といえた。

 とはいえ、時間というものはやはり残酷なもので、この幸せも必ず終わりのときがくる。


「あ、もうこんな時間か。臼井さんと話していると時間が経つのを忘れるわ」


 通話を始めてからすでに三十分ほど経っていた。美姫としても、大河との電話は時間を短くさせる魔法でもかかっているのかと思えるほどにあっという間に感じていた。

 もう少しこの幸せな時間を味わっていたかったが、大河の方から電話をかけてもらっているため長電話をするわけにもいかない。名残惜しくはあったが、美姫は別れの言葉を口にする。


「じゃあ、また明日だね」


「あ、その前に、ひとつだけいいか?」


 電話を切ろうとする美姫に大河が待ったをかけた。


「ちょっと臼井さんに相談したいことがあるんだけど」


「うん、なに?」


「おれってさ、転校してきたばっかじゃん?」


「うん」


「だからさ、この辺で遊ぶところとか全然知らないわけ」


「うん」


「そこで、臼井さんに相談なんだけど、今度の日曜にここら辺で遊べるところを案内してほしいんだよね」


「え……」


 日曜日に男女ふたりっきりで遊びに行く。これは紛うことなくデートといえるだろう。突然そんな誘いを受け、美姫の思考はオーバーヒートしてしまっていた。なにせ男子と話すことさえいままでほとんどなかったのに、デートなんて飛躍しすぎていて考えが追いついてこなかったのだ。

 言葉を失ってしまった美姫に大河が不安そうな声で再び尋ねる。


「無理っぽい? なんか予定とかあったりする?」


「いやいやいや! 全然大丈夫だよ。え、ええっと、学校の近くだとショッピングモールの中に映画館とかボウリング場とかあるけど、そういう場所でいいのかな?」


「ああ、臼井さんが楽しいと思える場所ならどこでもオーケーだから。それじゃあ申し訳ないけど日曜頼むな」


「う、うん。バイバイ……」


 通話を終えた後もこれが現実なのか信じられなかった。夢であるわけないのに、確かめられずにはいられなくなった美姫は、自分の胸をぎゅうっと押さえてみる。


 ――トクン、トクン。


 心臓の鼓動が手に伝わる。それはこの世界がリアルであるなによりの証拠といえた。

 そんな風に美姫が改めて幸せを噛みしめている中、ふと指先になにかが触れた。


 ――内ポケットに入っていたカッターナイフである。


 大河に助けられてから一度も彼女の元へと行っていない。最悪だった世界が壊れ、相談することもなくなってしまったのだから、それも当然のことである。

 そしてこのカッターナイフだってもう必要がないものになったのだ。


 美姫は内ポケットからカッターナイフを取り出すと、ぽいとゴミ箱へと放り投げる。自分の心を縛っていた鎖が外れたような、そんな開放感を覚えていた。

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