話し合い
時計を見ると十五時半をまわっていた。
もうすぐ美姫が帰ってくる。真剣に話し合う覚悟はできていたが、そのときが近づくにつれ美奈子の緊張は高まっていた。
もしかしたら美姫は怒りや不満を爆発させるかもしれない。美姫からひどい言葉を投げかけられる可能性だってあるだろう。大事に育てた一人娘に罵声を浴びせられると考えただけで胸が苦しくなる。
それでも、美奈子はそれらを全部受け止めるつもりでいた。それが母親としての責務だと思っていたからだ。
美姫はいままで我慢して言いたいことも言えなかったのだろう。その蓄積が万引きという形になって現れたというのならば、責任は自分にあると美奈子は考えていたのだ。
臼井家は手狭なアパートなのでダイニングキッチンの目の前に玄関がある。美奈子は食卓についてその扉が開くのを待っていた。
「ただいま」
おやと美奈子は不思議に思った。美姫が帰ってきたのだが、こんな挨拶をしてくれるのは久しぶりのことだったからだ。普段なら無言で帰宅をし、無言で自分の部屋へと閉じこもるから、帰ってきたことに気づかないこともあるくらいであった。
機嫌がいいのだろう。これなら話し合いも穏便に終わるかもしれない。美奈子はそんな期待を胸に美姫を出迎える。
「お帰り、美姫。今朝も言ったけど、この前の件でちょっと美姫と話したいから、そこに座ってもらっていい?」
美奈子は少しばかり緊張をしながらも、美姫を自分の向かいの席に座るように促した。
なにかしらの反発があるかと思いきや、美姫は「わかった」と言って指示にしたがう。これにも驚いたのだが、さらに美奈子を驚かせたのは次の美姫の言葉だった。
「お母さん、あんな馬鹿なことをして本当にごめんなさい!」
「え?」
さてどうやって話を切り出そうかと悩んでいたところで、美姫からいきなり謝罪の言葉が飛び出したのだ。美奈子は呆気にとられてしまっていた。
「わたし、どうかしてたんだと思う。魔が差したっていうか、悪魔の囁きに乗ってしまったっていうか……。とにかく、もう二度とあんなことはしないって誓う。絶対に。だから許してほしい」
美姫は深く頭をさげる。その姿はこの場をしのぐためのポーズなんかにはみえなかった。
「とりあえず顔をあげなさい」
美姫がおそるおそるといった様子で姿勢を戻したところで、美奈子は続けて尋ねた。
「魔が差したって言ったけど、それは本当?」
「……う、うん」
「もしお小遣いが足りないっていうんなら、遠慮なんかしないでお母さんにちゃんとそう言ってほしいの。そりゃ、何千、何万円もって言われちゃうとこっちも困っちゃうけど、お菓子の一個二個の賃上げを聞き入れないほどお母さんはケチなんかじゃないのよ?」
「そんなこと……!」
美奈子の言葉に美姫は驚いた様子で首を横にぶんぶんと振る。
「お小遣いはいまのままで十分だから」
「それじゃあ、なにか悩んでいることとかあったりしない? だから、あんなことをしたんじゃないの?」
この質問に美姫の表情は一瞬だけ曇った。しかし、すぐに取り繕うような笑みをつくってまたしても首を振る。
「全然。悩みなんてこれっぽちもないよ」
長年親子として関わってきた経験から、美姫のこの言葉は嘘だと直感した。美奈子はテーブルに置かれていた美姫の手をそっと握りしめて改めて問うた。
「美姫、なにか悩んでいるなら正直に言ってね? お母さんは頼りないかもしれないけど、美姫のためならなんだってするんだから」
「お母さん……」
美姫にとっては予想外の言葉だったのかもしれない。しばらく声を詰まらせていた。
「……ありがとう。正直に言うと本当は悩んでいることがあったの。でもね、それも全部解決したから、だから……だから、もうわたし大丈夫」
そして今度は満面の笑みをこぼす。先ほどの上辺を装うようなものではなく、本心からの笑顔にみえた。
なんのことで悩んでいたのかは気になるところであった。しかし、美姫の口振りでは少なくとも現在は解決したのだろう。それなのに根ほり葉ほりとほじくり返すのは無粋なことのように思えた。
「そっか……わかった。それなら美姫のこと信じるよ。もう二度とあんなことしないって約束してね」
「うん!」
娘の力強いうなずきを見て美奈子は心の底から安心した。一時はどうなることかと思ったが、美姫は無事に立ち直ったのだ。
そう確信した、その直後に家の電話のコール音が鳴った。
「あら、電話」
美奈子がすぐにテーブルの上に置いてある子機をすぐに取ると、なぜか美姫が「あっ」と声を漏らした。
娘の反応を不思議に思うも、さすがにいまは電話が優先である。美奈子は「はい、もしもし」と電話を受けたときの決まり文句を口にしていた。
「もしもし。えーっと、臼井さん?」
受話器から聞こえたのは若い男の声。美奈子は知り合いを頭の中でサーチしてみたが、この声に該当する人物は思い浮かばなかった。
「はい、臼井でございます。失礼ですがどちら様でしょうか?」
「あ、もしかして臼井さんのお母さんっすか? おれ、臼井さんの同級生の猪野瀬っていいます」
「ああ、美姫のお友達ね。いま代わりますから、ちょっと待ってね」
美奈子は保留ボタンを押してから美姫へと受話器を差し出す。
「猪野瀬くんって子から電話よ」
電話の相手はわかっていたのだろう。美姫は「うん」と一言だけ口にすると、奪うように受話器を受け取り、そそくさと自分の部屋へと入っていってしまった。
その姿を見て美奈子はすべて合点がいった気がした。
あの態度は間違いなく恋しているそれだ。そして、先ほど美姫が口にしていた悩みというのもこのことに違いない。自分の恋がうまくいかず、むしゃくしゃして万引きをしてしまったということなのだろう。
でもすべて解決したと美姫は言っていた。それに、あんなに機嫌の良さそうな様子から察するに、美姫の恋は無事に成就したということなのだろう。
皮肉にも自分の恋が終わったと同時に美姫の恋がスタートしたというわけだ。でも、自分の恋の云々以上に娘が恋愛を経験してくれたことがうれしかった。
やっぱり自分にとって美姫の幸せが一番大切なものなのだ。
美奈子はそう強く思った。
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