初恋


 お言葉に甘えてトイレで顔を洗ってから教室に戻ると、大河の方はすっかり掃除が終わったようで、床はきれいに片づいていた。


「ごめんね、全部掃除させちゃって……」


「別にいいっての。おれが勝手にやってるんだからさ。とりあえず、これは返しとくな」


 大河は美姫に空になった弁当箱を渡す。


「つーか、こんなことになったから昼飯ぜんぜん食えてないんじゃねーの?」


「まあ……うん……」


「じゃあさ、おれのパン一緒に食う?」


 そう言って大河は自分の鞄からいくつかの菓子パンを取り出した。

 思いも寄らぬ提案である。その厚意はうれしいが、さすがにそんなことまでしてもらうのは申し訳ない。美姫は首をぶんぶんと横に振って大河の申し出を拒否していた。


「い、いや、それは悪いよ。自分でなにか買ってくるから心配しないで……」


「でも、いまさら購買部行ってもなんも残ってないんじゃね? 食堂だってもう席うまっちゃってるだろうし」


「じゃあ、一日くらい我慢す――」


 その瞬間、美姫のお腹がぐぅーと鳴る。あまりにも正直な自分の体に美姫は思わず赤面していた。


「ははは、決まり決まり」


 大河は美姫の椅子を手にすると自分の席にまで持って行く。


「ほら、臼井さんも早く座って」


 言われるままに席につくも、このままパンをいただくのはさすがに恐縮してしまう。美姫はお金を払うと申し出たのだが、大河はそれをやんわりと拒否した。


「気にしなくっていいって、そんなこと。おれとしては、転校してきたばっかで一緒に飯食う相手がいなかったからラッキーだったしさ」


「でも……」


 大河はそう言ってくれるが、先ほどから周囲の目が気になる。いじめられっことイケメン転校生が一緒に食事をし始めたのだからそれも仕方ないことといえるだろう。美姫としては自分を助けたことにより大河にまで迷惑をかけてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 しかし、大河はそんなことを気にならないようで美姫にオススメのパンを紹介している。


「ほら、これ食いなよ。ジャムカスタードスティック。めちゃくちゃ美味いから」


「どうも……」


 美姫はそれを受け取りながらも、先ほどからずっと疑問に思っていたことを訊いてみようと言葉を続けた。


「あの、猪野瀬くん」


「ああ、いいよ大河で。苗字で呼ばれると、なんか背中がむず痒くなるから」


 男子を名前で呼ぶのなんて初めてのことだったので、少し緊張する。美姫は自分を落ち着かせるために、ひとつ大きく息を吸い込んだ。


「じゃ、じゃあ、大河くん」


「なに?」


「大河くんはなんでわたしなんかを助けてくれたの?」


「なんでって……それは……樹理亜にも言ったろ。見ていて気分悪かったからだって」


 大河はそう答えたものの様子おかしい。黒目がきょろきょろと視点が定まらず、どこか落ち着きがないのだ。

 いったいどうしたんだろうと美姫が訝っていると、泳いでいた目が不意に真っ直ぐこちらを見つめた。


「ていうかさ、おれ、臼井さんと友達になりたいって思ってたんだ」


「え?」


 誰かから友達になりたいなんて言われたのは初めてのことだ。あまりにも慣れない言葉を投げかけられ、美姫はうまく返事も出来ずにどぎまぎしていた。


 大河のほうも自分で言って恥ずかしくなったのだろう。照れを隠すように頬をぽりぽりとかきながらもポケットからスマホを取り出した。


「とりあえずさ、こうして知り合えたのもなにかの縁だしさLINEでも交換しようぜ」


「その、ごめん……、わたしスマホ持ってないの……」


 せっかく大河が交友を深めてくれようとしてくれているのに、ここにきて貧乏なことが足を引っ張るとは。こんなんだからろくに友達もできないのだ。きっと大河だって呆れてしまっていることだろう。

 美姫が自分の家庭環境を呪うも、大河はスマホを持っていないことを馬鹿にすることはなかった。一瞬驚いた表情をみせたものの「そっか……」としばらく考えた後、こう続けた。


「それじゃあ家電いえでん教えてくんない? 帰ったら電話するからさ」


「う、うん!」


 大河は見た目も格好良く王子様みたい。なのに、それを鼻にかけることもなく、こうして気を遣ってもくれる。なにより最悪だった世界を壊してくれた恩人だ。

 そんな大河を目の前にすると美姫の胸は自然と熱くなっていた。


 美姫は初めて知ったのだ。人を恋するという感情を。

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