失恋


「それじゃあ、乾杯」


 初めて食事をしたお店で、初めて食事をしたときと同じように、秋本がスパーリングワインの入ったグラスを掲げる。

 しかし、美奈子は昨日の美姫の万引きのことで自責の念でいっぱいだった。そのため、秋本にならうことはなく、頭を下げて自分なりの誠意をみせる。


「秋本さん、昨日は本当に申し訳ありませんでした」


「やめてってば美奈子さん。娘さんだって反省してるみたいだったしさ、あんまり気に病まないでよ」


「そんな訳にはいきません。みなさんに迷惑かけちゃったわけですし……。だからわたし、責任をとってトミマル辞めようと思ってるんです」


 美奈子の決断を聞いた秋本は、飲んでいたスパーリングワインを吹き出すほどに驚いていた。


「いやいやいや、それは困るよ。急に辞められたらシフトもぐちゃぐちゃになっちゃうじゃん」


「もちろん、シフトが決まっている今月いっぱいまではちゃんと出るつもりです。とはいえ、みなさんが不快だと思うんでしたら、すぐにでも退職するつもりですが」


「不快だなんて思っている人なんかいないって。そもそもさ、昨日のことは仕方ないと思うんだよね、ぼくは」


「……仕方ない?」


 何気ない秋本の言葉に美奈子は引っかかりを感じていた。


「だってさ、こういったらなんだけど、娘さんを女手ひとりで育ててきて、家計だって楽ではなかったわけでしょ?」


「それは、まあ……」


「だから娘さんがあんなことをやっちゃったっていうつもりはないけど、やっぱり男親って必要なんだと思うな。きっとそういった当然の環境に身を置いていれば、娘さんも間違った道に進んだりしないかったんじゃないかな」


 両親がいることが当然で片親だと異常?

 シングルマザーだから。男親がいないから。だから美姫は万引きをした?


「でもいまからでも間に合うと思う。きちんとした生活を送れば正しい道に戻れるよ、きっと。だからさ、その――」


 美姫は間違った道に進んでいる?

 自分は美姫を間違って育てた?


 美奈子はいままでの半生を全否定された気がした。いや、自分が否定されたことはまだいい。だが、美姫の話もろくに聞かないで、間違った道に進んでいるなんて言われるのは心外だった。


 しかし、美奈子も自分が人のことをとやかく言えない立場なのはわかっていた。


 美奈子はふと自身の右手を見やる。


 自分だって美姫の話をなにも聞かずに叩いてしまったのだ。最低じゃないか。美姫が得たいの知れない存在になったような気がしていたが、そもそも話を聞いてあげていなかっただけじゃないか。子供ときちんと向かい合ってあげられないなんて、そんなの母親失格だ――


 ――パチン!


 店内に乾いた音が響く。

 美奈子は美姫の頬を叩いた右手で、自分の頬を思い切り叩いていた。


「み、美奈子さん……?」


 突然の自傷行為を目の当たりにし、当然ながら秋本は驚き、口をあんぐりと開けている。

 美奈子の方はというと、どこか吹っ切れた気分になっていた。これで許されると思っているわけではないが、問答無用で美姫を叩いた自分の罪が少しだけ軽くなったような気がしたのだ。

 美奈子は立ち上がると、呆然としている秋本に声をかける。


「店長」


「あ……え……?」


 不意に呼び方が肩書きに戻ったことで秋本は動揺を隠せないようだった。まるで親とはぐれた迷子のように不安そうに目を泳がせている。


「たしかに美姫は万引きをしました。それが許されることではないのは重々承知しています」


 そう言うと美奈子は強く首を横に振った。


「でも、店長は美姫のその一面しか知らないじゃないですか! 普段の美姫は、優しくて、我慢強くて、いい子なんです。それなのに美姫のすべてが間違っているみたいな言い方をしないでほしいです」


「あ、いや、ぼくはそんなつもりじゃ……」


「……店長がわたしに好意を持ってくれていることはうれしいです。でも、美姫のことを間違っている前提で話す人とは、わたし付き合えません。……失礼します」


 美奈子はぺこりと頭を下げるとその場を後にした。もしかしたら引き止めてくれるかもしれないと思ったが、秋本はそれをただ黙って見送るだけだった。


 こうして美奈子の恋は終わりを告げた。

 でも、これでよかったんだと思う。美姫を産んだ直後から、自分の人生を娘の幸せに捧げると決意していたのだ。美姫が苦しんでいるときに恋にうつつを抜かしている場合ではないじゃないか。

 失恋に傷つかなかったわけではなかったが、そんな初心を思い出させてくれた秋本に美奈子は感謝していた。

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