もうひとつの方法


 美姫は自宅に帰るとすぐに自室に向かい、押し入れの中に籠もっていた。どんなに現実世界で最悪な出来事が起こっても、ここは相変わらず真っ暗で、それが美姫にとって揺らぐことのない安らぎを与えていた。


 自分にはこの場所しか安息の地はないのだ。世界中の誰しも味方してくれないのだから。


 ふと、美姫は美奈子にはたかれた左頬をなでていた。

 母に怒られたことすらほとんどなかったのに、ましてや殴られたのは初めてのことだ。美姫にとって万引きをしたことや捕まったこと以上に、その衝撃の方が大きかった。

 でも、美姫にはその理由もなんとなくわかっていた。


 秋本とかいうトミマルの店長。あの人が原因なんじゃないだろうか。

 母のことを「美奈子さん」と下の名前で呼び、万引き被害に遭ったというのにお咎めなしにしてくれたことで察してしまった。秋本こそが母の恋人なんじゃないか、と。

 自分の恋路を邪魔されたら、娘だろうが怒りが沸くのもしょうがない。それでなくとも、いままでその娘を育てるのに必死で恋愛などろくにしてこれなかったのだから。

 万引きという犯罪行為にくわえ、美奈子に迷惑をかけてしまったということで、美姫の胸は罪悪感でいっぱいだった。


「ねえ」


 救いを求めるように美姫は暗闇に呼びかける。


「なんだい?」


 彼女はすぐに返答してくれた。

 話を聞いてくれる人がいる。その事実が美姫の心をほんの少しだけ軽くさせてくれた。


「わたし、もうどうしたらいいかわからない。あなた以外に誰にも頼ることなんてできないし、かといって自分じゃどうすることもできないし……」


「だから、ずっと言ってるじゃないか。世界を壊すには樹理亜を殺すしかないって」


 彼女のいつも通りの助言をした後に優しい声で囁きかける。


「わかるよ。美姫は樹理亜を殺すことで自分が悪に成り下がるのが嫌なんだろ? でもさ、悪者になることがそんなに問題か? どうせ壊れちまう世界の連中に侮蔑されようが気にすることはないじゃないか」


 たしかに彼女の言うことはもっともであるのだ。目下の障害である樹理亜さえいなければ、いじめはなくなり世界は壊れるだろう。そこから新しい世界や人脈を作れば、自分が悪人であることを知る存在はいなくなる。

 しかし、奇しくも今回の万引きの一件で美姫は気づいてしまったのだ。自分が悪になることが、どうしてこれほどまでに嫌なのかを。


「わたし、樹理亜を殺してやりたいって心の底から思ってるよ」


「じゃあ――」


「でもね、やっぱりわたしは自分が悪になるのは嫌なんだ」


「なんでさ? さっきも言ったけど、そんなもの気にする必要ないんだって」


「わたしは悪になるそのこと以上に人に否定されるのが恐ろしいの。――いや、違う。ほかの人なんかどうだっていい。わたしはこれ以上お母さんに否定されたくない……」


 美奈子はただひとりの肉親。美姫が幼い頃から働きに出ていて、一般的な親子よりも繋がりは希薄だった。

 そのため、その細い繋がりが美姫にはなによりも大切なものになっていた。そして、美姫はその繋がりを強めることよりも、守ることに精を尽くした。

 褒められたいわけじゃない。認められたいわけでもない。ただ、母に拒絶をされたくなかったのだ。

 だからこそ、美姫は美奈子を頼ることはおろか気軽な会話すらもできなくなっていた。美奈子と向かい合うと、下手なことを言って嫌われたくないという感情が芽生えてしまうからだ。


「……」


 心情を吐露した美姫に彼女はなにも応えてくれなかった。

 もしかしたら怒らせてしまったのかもしれない。そう思った美姫は素直に謝罪の言葉を口にしていた。


「ごめんね。ずっと相談に乗ってもらっていたのに結局あなたのアドバイスを聞くことができなくて」


「……」


 彼女は返事をしてくれない。

 やはり怒っているのだ。唯一の味方であった彼女からも見放されるかもしれない。美姫がそんなおそれを抱いていると、不意に聞こえるか聞こえないかくらいの小さい声で彼女がぽつりとつぶやいた。


「もうひとつ……」


「え?」


「……もし、もうひとつ世界を壊す方法があるとしたら美姫は聞きたいかい? あまりオススメはしないけど」


 いつもストレートな発言が目立つ彼女にしては珍しく、躊躇いがちに尋ねる。そんなもったいつけた言い方をされては、続きを聞きたくないなんて言う方が無理があった。


「その方法ってなに?」


「……殺すんだよ」


 それはいつもの彼女のアドバイスと同じものだった。しかし、その口調に普段の軽妙さはない。あまりにも重たく真剣なトーンだったので、美姫も妙に緊張してしまっていた。


「だ、だから、わたしには樹理亜を殺すことなんて――」


「違う」


 彼女は美姫の言葉を遮り、ぴしゃりと否定する。


「樹理亜を殺すんじゃない」


「それじゃあ、いったい誰を?」


「美姫が――美姫自身を殺すのさ」


 美姫はひゅうっと音を立てて息を呑んでいた。それくらいに彼女の言葉は胸の奥の方に刺さるものだったのだ。


 口の中がからからに渇く。喉の奥がくっついてしまったかのように息苦しく、なにかしゃべろうとしてもうまく声にならない。

 美姫が言葉を発することができるようになるまでゆうに数分の時間を要した。


「……それって、つまり自殺するってことだよね?」


「ああ。樹理亜をこの世から葬り去ることができないなら、美姫自身がこの世界を捨てるしか方法はないとわたしは思うよ。それに死んでしまえば誰からも否定されることもなくなる。あんたの望みも叶うってわけだ」


 彼女は本気だ。本気のアドバイスだからこそ美姫の全身に鳥肌が立っていた。


 自殺。


 いじめにあってからずっと頭の片隅にはあった考え。しかし、それは本当に最後の選択だと思っていた。なにせ自殺をするということは樹理亜という悪に負けたことになるから。


 ――でも、もういいのかもしれない。だって自分も万引きという道徳に反する行為に走り、悪に成り下がってしまったのだ。それに彼女の言うとおり、自分がこの世界から消えてしまえば、もう母から否定されることを心配する必要だってないじゃないか。


 美姫は内ポケットからカッターナイフを取り出すとカチカチカチと刃を伸ばした。そして自分の左手首へとあてがう。暗闇でよくは見えないが、刃のひんやりとした感触が死と隣り合わせであることを実感させた。


 あとはこのカッターナイフを思い切り引くだけ。


 そうすればこの世界は壊れる。


 樹理亜達を殺すよりずっと簡単じゃないか。


 そう思ってはいるのだが、なかなか踏ん切りがつかない。


 ふとあのニュースを思い出していた。

 ――東北の中学で起きた男子生徒の焼身自殺。


 報道を見て、自分はいじめに屈したりはしないと決めていた。しかしこうして自分の死と真正面から向き合って気づいてしまう。実際はそんな格好いい話じゃなかったということに。

 いじめに屈したくないんじゃない――単に自殺をする度胸がないだけなのだ。


 死ぬことが恐ろしい。死んだらこの恐ろしいという感情すらもなくなり、自分の存在がすべて消滅するなんて考えたくもなかった。

 美姫の頭の中はいつの間にか死の恐怖でいっぱいになってしまう。手にしていたカッターナイフの刃は自然と引っ込んでいた。


「やっぱり……できない……」


「……そう」


 自殺を断念したことに彼女はため息をつく。それが安堵によるものなのか、それとも落胆によるものなのか、美姫には判断がつかなかった。


「ごめん……せっかくアドバイスをくれるのに、なにひとつ決行できなくて」


 樹理亜を殺すか、自分を殺すのが残された道だというのに、どちらも選ぶことができないのだ。いまさら保身に走ってしまう自分が美姫は情けなかった。


 この世界を壊したい。


 でも自分を否定されたくない。


 さらには死にたくもない。


 なんてわがままなのだろう。


 なんて臆病なのだろう。


「大丈夫」


 美姫が自己嫌悪に陥ってると、彼女がなでるような優しい声で話しかけてきた。


「美姫なら近い内に答えを出せるさ。正しい答えを、ね」


 彼女はそう言ってくれるが、美姫には自分がそんな決断を下せるとはとても思えなかった。

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