土下座


 買い物カゴの中の大量の商品をスキャンし終えると金額は二万を越えていた。毎日、何百人もの客を相手しているが二万越えの会計は稀である。

 美姫に新しい父親について訊いてみても大きな反発もなかったし、今日はなにか他にもいいことがあるかもなと、そのお客の精算を終わらせ、次の客へ「いらっしゃいませ」と言おうとしたところで背後から声がかかった。


「――臼井さん、ちょっとわたしがレジ変わるわ」


 一恵である。

 一恵はキャリアが長いのでレジ打ちもこなせることは美奈子も知っていたが、基本はデリカテッセン専門だ。そんな彼女がレジ交代を告げるということはそれ相応の理由があるということだろう。


「なにかあったんですか?」


「それが、その……」


 珍しく一恵が言いよどんでいる。よっぽどの出来事なのだろうが、次のお客が待っているのだ。悠長に構えている暇はない。美奈子は「どうしたんですか?」ともう一度尋ねた。

 すると一恵は美奈子の耳元に口を近づけ、周囲には聞こえないよう小声で囁いた。


「臼井さんの娘さんがここで万引きして捕まったらしいの」


 臼井さんとは自分のこと。


 その娘さんとは美姫のこと。


 ここというのはトミマルのこと。


 そんな風にひとつひとつの意味を整理して、ようやく言葉の意味が理解できた。それくらい、美奈子にとって衝撃的な話だったといえるだろう。

 予想外の出来事に体が過剰な反応を示したのか、ぶわっと額から汗がにじんでいた。


「休憩室にいるから、すぐに行ってあげて」


 一恵に言われると同時に美奈子は駆けだしていた。


 なにかの間違いであってほしい。美姫がそんなことするわけがないじゃないか。あの子は真面目で人様に迷惑をかけるように子じゃないんだ。

 美奈子はそう自分に言い聞かせながらバックヤードまで走ると、その勢いのまま従業員用休憩室へと飛び込んだ。


 ――そこにはいたのは間違いなく我が娘の美姫だった。秋本の正面に座り、申し訳なさそうに体を縮こまらせている。


 パンと頭の中でなにかが弾けた音がした。

 瞬間的に沸き立った感情の赴くままに美奈子は美姫の元に駆け寄ると、胸ぐらをつかんで立ち上がらせ、その頬を思いっきりはたいていた。


 ガシャンとパイプ椅子ごと床に倒れ込む美姫。いきなり叩かれて、痛いというよりも驚いた表情をみせる。そして、自分を叩いたのが美奈子だと気づいた美姫は、泣きはらした真っ赤な目で申し訳なさそうにこちらを見上げた。

 その姿をみても美奈子の黒い感情は身を潜めることはなく、無抵抗の娘へ追い打ちをかけようと近づいていた。

 そんな美奈子を止めようと、秋本が慌ててふたりの間に入る。


「美奈子さん、落ち着いて!」


 しかし、この状況で落ち着いていられるわけがない。

 いままでシングルマザーとして美姫のことを一番に考えてきたのだ。そりゃあ、すばらしい母親とはいえなかったかもしれない。それでも、自分の恋や遊びを犠牲にして仕事に打ち込んできた。それもこれもすべて美姫のため。

 それなのに、それなのにこの子は――


 押さえきれない感情を形にすべく、美奈子は秋本に向かって土下座をしていた。


「店長、本当にすいませんでした!」


「美奈子さん、そんなことしないでよ。とりあえずさ、ぼくも美奈子さんの家が大変なことはわかってるし、被害もお菓子ひとつだったから警察や学校なんかには知らせるつもりはないからさ」


「あ……ありがとうございます!」


 美奈子は額を床につけて平伏する。先ほどから止まることのない汗がにゅるりとすべり気持ちが悪かった。


「だから、やめてってば。とにかく、娘さんも憔悴しちゃってるみたいだから、今日はもうあがっていいからさ美奈子さんが一緒に家に帰ってあげてよ」


「そ――」


 そんなわけにはいかないと言おうと思ったが、さすがにこの状況で美姫をひとりにしておくわけにもいかないだろう。なにより美奈子自身が、この後なにごともなかったようにレジに立つことなんてできるわけがなかった。


「――そうしていただけると助かります」


 美奈子はありがたくその提案を受け入れると、万引きをした商品を買い取ってから、美姫を連れて家へ帰ることとなった。

 帰り道、下を向きながら歩く美姫になんと声をかけるべきなのかわからなかった。なにをしゃべっても溝が深まるとしか思えなかったのだ。

 それでもなにか話さなければいけないと思ってはいるものの、結局家に帰るまで美姫と言葉を交わすことはできなかった。

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