万引き


 トミマルに足を運ぶのは中学生になってから初めてのことだった。美奈子が働いている職場に行くことは、思春期の美姫にとっては簡単なことではなかったのだ。

 しかも、これからしようとしていることは万引きという犯罪行為である。どうしたって向かう足が重たくなってしまう。


「ねえ、ふつうにお金を払って買うんじゃダメなの?」


「そんなのダメに決まってるじゃん」


 美姫の問いかけを千恵里が即座に否定した。


「あんた、まさかここまで来てビビってんの?」


「ビビってるっていうか……その、万引きってやっぱりよくないことだし……」


「は? ブスイはウチらが悪者だって言うの? つーか、そうだとしても、あんただってお菓子食ったんだから同罪だかんな」


「チェリー、そうかっかしないで」


 いきり立つ千恵里をまあまあとなだめると樹理亜はこちらを向いた。


「ブスイちゃんはやっぱり万引きなんてやりたくないんだよね?」


 穏やかに微笑んでこそいたが、その瞳は笑っていない。蛇に睨まれた蛙のごとく、美姫の体は硬直し、言葉を発することもままならなくなっていた。


「でもねこれは絆を深めるためなの。一緒に同じ罪を背負えば、わたし達は本当の意味で仲間になれると思うんだ。だけどね、もしブスイちゃんがどうしてもやりたくないっていうんなら無理強いはしないよ。どうする?」


 あくまでも美姫に決断させるつもりなのだろう。そうすれば万が一捕まった場合でも樹理亜は知らぬ存ぜぬで通せるのだから。

 それならばこちらは万引きを断るのが一番の選択だといえるだろう。だが樹理亜の貫くような眼差しを受けたら、逆らうことなんてできっこない。美姫にはかすれた声で「やるよ……」と答えるしか選択肢はなかった。

 その反応に樹理亜は満足そうにうなずく。すべて思い通りといった様子だ。

 もうこうなったらあきらめるほかない。美姫は黙って樹理亜達の後をついて歩いた。


「それじゃあ、わたし達は離れたところで見守ってるから、ここから先はブスイちゃんひとりで行ってきてね」


 トミマルの前まで着くと樹理亜達はそう言って店の中へと追いやる。美姫は促されるままにひとりで店内へと入って行った。


 美奈子から夕方はトミマルが一番混む時間だと聞いていた通り、店には夕食の買い物に来ている主婦であふれていた。美姫は長蛇の列を作っているレジをちらりと見やる。

 一番端のレジに美奈子が立っていた。商品をスキャンする作業でいそがしいのだろう。美姫が来店していることにはまったく気づいていないようだ。


 美姫は母の仕事姿を見なかったことにして、そそくさと店の奥へと進む。目当てのお菓子売場にやってきたものの、やはり混んでいる時間ということもあり人が多い。こんな中、商品を懐に入れるなんてあまりにも無謀に思えた。

 それでもここまで来て後には引けない美姫は、チョコビスケットの箱をひとつ手に取っていた。後はこれを誰にも見つからずにカバンに入れるだけである。


 大丈夫。みんな自分の買い物に夢中だ。他人の行動なんていちいち気にしているわけがない。こんなお菓子ひとつなら、誰も気づかないだろうし、店の被害だってあってないようなものじゃないか。


 そう思っているはずなのにドッドッと心臓が胸を内側から激しくノックする。体は寒くもないのにぶるぶると震えている。

 美姫は、いったん大きく息を吐いて呼吸を整えると、商品を持っていない方の手でカッターナイフを制服の上からぎゅっと握りしめていた。


 だが気持ちが静まることはなかった。


 ここで樹理亜に反旗を翻して逃げ帰る勇気だってちっとも沸いてこない。


 美姫は思わず顔をゆがめていた。

 自分が樹理亜達になにかされるだけなら無表情を通す自信はあった。しかし、こうしてなにかをやらされるとなると話は別だ。誰かに迷惑をかける行為をなにも感じずにこなせるほど美姫は冷徹な人間ではなかった。


 やっぱり樹理亜という悪魔は人が嫌がることを熟知している。美姫は心の底から思った。

 でも、やらなければ。ここでやめたら樹理亜からもっと酷い仕打ちを受けるのは目に見えているのだから。


 現在、美姫の周囲には三人の客がいる。中年の女性がふたり、還暦を過ぎているであろう白髪の女性がひとりだ。中年の女性のひとりと還暦過ぎの女性は美姫の背中の煎餅のコーナーを見ているので当面は障害とはならない。

 問題はもうひとりの中年女性である。美姫の隣で同じビスケットの売場を見ているのだ。この人が視線をそらした瞬間がチャンスといえるだろう。なにかきっかけさえあれば……。

 と、美姫の願いが届いたのか、不意に店内放送が流れた。


「お待たせしました。当店名物のげんこつメンチの追加分が揚げあがりました! 総菜コーナーにて販売中でございますので皆様お試しくださいませ」


 げんこつメンチが目当てだったのだろう。それを聞いた隣にいた中年女性は慌てた様子でお菓子売場を後にしたのだ。


 美姫はこの好機を逃すまいと手にしていたチョコビスケットを素早くカバンの中に滑り込ませる。そして、中年女性の後を追うかのようにさっとその場を離れた。

 罪悪感と不安で胸が押しつぶされそうだ。

 それらを振り切るかのごとく美姫は足早に歩いていた。


 これは犯罪。

 つまり悪。自分がそうなりたくないと思っていた悪そのものだ。


 ――でも、バレなければ?


 どんなに脳内で人を惨殺する妄想に耽っていても表に出さなければ悪じゃない。それと同じで、誰にも気づかれなければどんな犯罪行為だって悪にはならないんじゃないだろうか。


 頭の中で言い訳を並べながら心拍数と同じテンポで足を交互に動かしていると、すぐに店の出入り口にまでたどり着く。美姫は振り返ることもなく、少し重たいドアを押し開けると店を出た――

 ――その直後である。


「きみ、カバンの中にお金を払っていない商品あるよね?」


 背後からぽんと肩を叩かれた。

 振り向くとそこにはエプロン姿の男が立っていた。胸に名札がかかっており、そこには『店長 秋本』と書かれている。


 これ以上あがらないと思っていた胸の鼓動がまた一段階速くなった。そのため体全身に血が巡っているはずなのに、すうっと血の気が引く感覚になるのだから人体とは不思議なものである。


「ちょっと裏まで来てもらえるかな?」


 絶望に打ちひしがれていた美姫は、秋本の言葉に黙ってうなずくことしかできなかった。

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