少女の頃のときめき
「それじゃあ、乾杯」
秋本がスパーリングワインの入ったグラスを掲げた。
美奈子もそれに倣うように「乾杯」の一言を添えながら秋本のグラスに自分のグラスを合わせる。チンと鈴のような高い音が鳴った。
今日は秋本との食事の日である。約束通り仕事終わりにトミマルの近くのイタリアンレストランへと連れて行ってもらっていた。秋本は黒胡椒がたっぷりかかったカルボナーラを、美奈子はボロネーゼを頼んだ。
久しぶりのデートということもあり美奈子は緊張していた。ワインを一口飲んでみたが味もよくわからないくらいだ。
秋本の方はどうなのだろうと思い、ちらりと彼の方を窺い見る。
「ええっと、美味しいでしょ? ここのスパゲッティー」
秋本は美奈子以上に緊張しているようで、まだフォークすら手にしていない状況でパスタの味の感想を尋ねてきた。自分よりも動揺している人を目の当たりにすると、必然的に落ち着いてくるもので美奈子は思わず吹き出していた。
「え? どうしたの?」
秋本はなにがおかしかったのかわからずに目を白黒とさせている。
「だって店長ってば、わたしまだパスタには口をつけてないのに味の感想を訊くんですもん」
「あっ、そっか。ごめんごめん」
くしゃっと笑いながら謝罪する秋本は子供のように可愛らしかった。
一気に場が和やかになる。この人の笑顔は周りの人間をも笑顔にする力があると美奈子は思った。
その後はお互いの緊張も解け、仕事のことから趣味のことまでたわいない会話で盛り上がった。そして自然と話題は家庭環境のことへと移っていた。
「それにしても臼井さんは偉いよ。ひとりで子育てを頑張ってるんだから」
「そんな偉いだなんて……。自分で選んだ道ですから」
「いや、偉いよ。ぼくは子育ての経験なんかないから偉そうなことは言えないけど、世間には虐待や育児放棄するような親だっているわけじゃん。それなのにシングルマザーっていう環境で臼井さんは立派に娘さんを育てているんだもの」
秋本から賞賛され美奈子は背中がむずがゆくなった。
親として子供を育てるのは当たり前。それが世界の常識となっているため、いままで美姫を育てて褒められたことなんてなかったからだ。
「ぼくなんか頼りないかもしれないけど、なにかあったら言ってね。力になるからさ」
「はい。ありがとうございます、店長」
美奈子は素直にうなずいてみせる。こちらとしては感謝の意を示したつもりであったが、秋本は少し不満げな顔をしていた。
「どうかしました?」
「あ、いや……、臼井さんがぼくを頼ってくれるのはうれしいと思うんだけどさ、できればふたりっきりのときは店長っていうのはやめてほしいかな」
「え?」
突然の提案にどきりとしてしまう。この申し出は、関係をより深めたいという秋本の心情そのものといえたからだ。
「じゃ、じゃあ、秋本さんでいいですか?」
「うん」
美奈子の言葉に秋本は満足そうな笑みを浮かべる。
「ぼくだけ職場と変わらない呼び方じゃフェアじゃないから、ぼくもふたりっきりの時は美奈子さんって呼ばせてもらうよ」
ただ名前で呼ばれただけなのに、胸の高鳴りが押さえきれない。いままで恋から遠ざかっていた分、こんなちょっとしたことでまるで少女に戻ったかのようにときめいてしまう。美奈子はそんな純粋な反応してしまう自分自身が、恥ずかしいような、うれしいような複雑な気分だった。
美奈子はそんな恋する感覚に浸る中、ふと思い出していた。
自分が実際に少女だった頃に恋していた
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