初めての勝利


 美姫に対しての直接的な暴力である突き飛ばしは不定期でおこなわれる。いじめやいやがらせはすべて樹理亜が決めているだろうから、結局は樹理亜の機嫌次第ということだ。

 つまりは今日は機嫌が悪かったということだろう。休み時間に入るなり千恵里から「いまから押しに行くから」と告げられた。


 咲良か千恵里かどちらかはわからない。裏庭につくなり美姫は背中を突き飛ばされ、その場に倒れ込んでいた。

 不意打ちだったので口の中に土が入り込んだ。それがざらりと歯にこすり付き不快感が走った。


「わあ、ブスイちゃん派手にコケたけど大丈夫ぅ?」


 背後で樹理亜が心配そうに尋ねる。しかし、見なくてもわかる。その顔には馬鹿にした笑みが張り付いていることは。

 美姫はわざわざそんな顔を見てやるものかと、振り向くことなくそのまま立ち上がる。と、またしても背中を強く押される。

 今度のは咲良が押したとすぐにわかった。咲良が本気で突き飛ばすと、千恵里のときよりも衝撃がすごいのだ。

 軸ごとふっ飛ばされ、思わず体がぐるりと前転してしまう。押された背中はもちろん、地面に打ちつけた膝や手のひらが痛い。

 それでも美姫は痛みを表情に出すこともなく立ち上がってみせた。


 背後からチッと舌打ちが聞こえる。


 やはり樹理亜の機嫌がよくないようだ。とはいえ、樹理亜の機嫌を悪くしているのが自分自身だということを美姫は理解していた。というのも、最近の美姫は、樹理亜達のいやがらせに対し以前ほど大きな反応をみせなくなっていたのだ。


 これにはふたつの理由があった。


 ひとつは美姫の前に彼女が現れてくれたこと。

 彼女の助言は「樹理亜達を殺せばいい」の一辺倒ではあるが、それでも美姫の絶対的な味方であるのは変わりない。そんな味方がいてくれるということは、いままでひとりでいじめに耐え抜いてきた美姫にとってはとても心強いものだったのだ。


 そしてもうひとつの理由というのは――


 今度は千恵里に横から突き飛ばされる。美姫はたまらず地面に膝をつくと、自分の制服の胸の辺りをぎゅっとつかんだ。

 樹理亜達は知る由もないだろうが、美姫はブレザーの内ポケットに以前買ったあのカッターナイフを忍ばせていた。


 樹理亜達を殺せないけど殺したい。カッターナイフを肌身離さず持ち歩き始めたのは、最初は矛盾した頭と心のバランスを保つための苦肉の策でしかなかった。しかし、これが美姫も予想していなかったほど精神的にプラスに働いていた。

 どんなに酷い悪口を言われても、裏庭で突き飛ばされ続けても「こっちは凶器を隠し持っているんだ」「こいつらを襲うことなんて簡単なんだ」と思えるようになっていた。

 とはいえ、実際にカッターナイフを取り出すことはしないわけなのだから立場が変わることはない。それでも、いつでもこの関係性を壊すことができる状況下にあるというだけで心にゆとりを持たせることができたのだ。


 三度目も美姫は何事もなかったように立ち上がってみせた。

 すると、またしても舌打ちが聞こえた。


 樹理亜の方を見てみると、不満げな表情でこちらを睨んでいる。美姫が無表情で見返してやると、樹理亜はぷいと背を向けて歩き出した。


「ちょっと樹理亜どこ行くの?」


「なーんか飽きちゃった。つまんないから、わたし先に教室戻るね」


 千恵里の問いかけに手をひらひら振って答えると樹理亜はその場を後にする。指示に従うことしかできない腰巾着のふたりは、樹理亜なしではいじめることもできないようで、帰って行く司令塔の後を金魚の糞のように追いかけていった。


 ――勝った。


 美姫は一年以上の期間いじめを受けていたが、今日初めて樹理亜達を退けることができたように感じていた。


 すべては彼女とカッターナイフのおかげだ。

 これなら残り二年も耐えられるかもしれない。それどころか、樹理亜達もあきらめていじめそのものがなくなるかもしれない。

 そんな期待を密かに抱いていた。

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