頭と心の矛盾
真っ暗な闇。目を開けているのか閉じているのかさえもわからない。
まるで自分の人生みたいだと美姫は思った。
樹理亜達にいじめられ、どこにも救いがない。まさにお先真っ暗という言葉がぴったりのように感じる。だが、そんな絶望的な状況の美姫にもたったひとつだけ希望があった。
「ねえ」
美姫は闇に潜む希望の光へと声をかける。
「なんだい?」
彼女の声が暖かく出迎えてくれた。美姫はそれだけで少し心が軽くなったような気がした。
「樹理亜達の行為が日に日に酷くなっていくんだ。中学生活、残り二年を耐えればいいと思ってたけど、さらにエスカレートしていったらと考えたら……わたし……」
「耐えきれないか?」
「うん。キツいよ。明日も明後日もあいつらと会わなければならないって考えただけで嫌になる」
「そうか。それはよかった」
美姫は彼女の言葉に耳を疑う。彼女は、彼女だけはなにがあっても味方でいてくれると思っていただけに、この反応は美姫には信じ難いものだった。
「おいおい、美姫はなんか勘違いしてないか」
美姫の心情を察したのだろう。彼女の声色は、母が幼い我が子に語りかけるときのように優しいものになっていた。
「わたしはいつだってあんたの味方さ」
「だったら……」
「だからこそよかったと思ったのさ」
未だに不満に感じている美姫をなだめるような口調で彼女は続ける。
「だってそうだろ? このまま美姫が我慢していてもなにも変わらないじゃないか。でも美姫は我慢できないって言ってくれた。つまり問題の解決に向けて前進してるってことさ」
「でも、我慢できないっていっても、べつに打開策があるわけでもないし……」
「打開策がない? いいや、美姫だってこの状況を打破する方法に気づいているはずだ。手の中にあるカッターナイフがその証拠さ」
美姫の肩がびくりと震えた。
たしかに美姫の手には今日ホームセンターで購入したばかりの大きめのカッターナイフが握られている。しかし、そのことを彼女には話してはいない。語らうだけの存在だと思っていただけに、しゃべっていないことまで知っていることに驚きを隠せなかった。
「あなた、このカッターが見えるの?」
「見えるわけないだろ、こんな暗闇で。でも解るのさ。美姫のことなら、なんでもね。どういう気持ちでそれを買ったのかだってわかる」
「それは――」
「殺したいと思ったんだろ?」
その通りだった。樹理亜達を殺してやりたいと思ったからこそカッターナイフを買ったのだ。
「それでいいんだよ。殺意こそいまの美姫に必要な感情なんだ。ほら想像してごらん。そのカッターナイフであいつらを切り刻む情景を」
美姫は自然とカチカチとカッターナイフの刃を伸ばしていた。そして彼女に促されるまま、そのカッターナイフで自分が樹理亜達を襲う姿を思い描いてみる。
樹理亜が「ブスイちゃん」と呼んだ瞬間に、その喉をかっ切ってやろう。そして血を吹き出す樹理亜の顔にさらに刃を突き立ててやるのだ。美人の顔が見るも無惨なものになれば、さぞ痛快なことだろう。
そして立て続けに千恵里と咲良のふたりにも切りかかってやる。きっとあいつらは助けてほしいと泣きながら命乞いをするだろうが、それを無視して殺してやるんだ。
一度想像すると三人を惨殺するのはあっという間だった。ものの数十秒で脳内では血塗れの教室に三人の遺体が横たわっていた。
妄想を終えるまでの時間すらも解っているのか、彼女は美姫が脳内で三人を殺し終えるとすぐに話しかけてきた。
「胸のすく思いだろ? 実際にやればもっと爽快な気分になるはずさ」
そうなのかもしれない。いや、きっとそうだろう。自分にとって害悪な存在をこの手で葬るのだから、気持ちが晴れ晴れとするに決まっている。
だが――
「やっぱり無理だよ」
美姫はカッターナイフの刃を戻しながら言う。
「こうして想像するのと実際に行動するのは全然違うもん」
想像では数十秒で全滅させることができたが、実際に殺すとなるとそんなに簡単ではないだろう。抵抗もされるだろうし、逃げられる可能性だってある。
ただ、美姫にとってそれ以上に問題なのが善悪の関係性だった。
憎い相手を頭の中でどんなに惨殺しようが法的にも道徳的にもなんの問題もない。考えるだけ、思うだけなら、なにをしようが罪にはならないし、社会の秩序を乱すことにもならないのだから。
だが胸に秘めた感情を表に出したら最後、善悪が逆転してしまうのだ。どうあったって殺人は悪。樹理亜が善で自分が悪の立場になるなんて、美姫にとっては屈辱でしかなかった。
「ふうん、そうか。まあ、わたしができるのはあくまでも助言だからな。答えを出すのはあんたの役目だ」
意外にも彼女はすんなり美姫の考えを認める。しかし、すぐに「ただ――」と言葉を付け加えた。
「――世界を壊す以外にわたしが助言できることなんてないからな。美姫がここに来る限り、わたしは樹理亜達を殺すべきだと言い続けるし、あんたも心の底ではそれが最善の方法だと思っていることを覚えておいた方がいい」
樹理亜達を殺すなんて無理。現実的観点やデメリットを考慮するとそう結論づけるしかないはずである。
一方で自分の想いとなるとどうなるのか。やはり樹理亜達のことは許せないし、死んでほしい――ひいては殺したいと思っている。彼女を頼りにしている以上それは間違いないことなのであろう。
頭と心が矛盾した方向を指し示す中、美姫は自分がどういった答えを出すべきなのかわからなくなっていた。
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