殺意の芽生え


 昼休みの始まりチャイムは、美姫にとって徒競走のスタートの合図と一緒だった。


 前の授業の教科書やノートなんかを急いで片づけて、カバンから弁当を取り出すとすぐさま教室を出る。そして、誰も人が来ないであろうところでひとり昼食をとるのだ。その場所というのもトイレの個室であったり、非常階段の踊り場であったりと日によって変えていた。

 そこまでするのは当然樹理亜達から逃れるためである。だが、毎日のようにスタートダッシュが成功するわけでもなく――


「ブースーイーちゃん!」


 急いで教室を出ようとした美姫であったが、樹理亜に肩をつかまれていた。


「一緒にお昼食べよ?」


「あ……でも……」


「なによ、ウチらと一緒じゃイヤなわけ?」


 樹理亜の隣にいた千恵里がトゲのある声で威嚇する。


「あんまり調子こいてると押すよ?」


 この『押す』というのは、校舎裏で行われる突き飛ばし行為のことだ。美姫に対する唯一の肉体的いじめであるのだが、樹理亜達はそれをよく脅し文句として使う。


「やだ、チェリー怖いんだけど。顔、悪魔みたいになってるよ」


 きゃははと樹理亜が甲高い声で笑った。その姿だけ見ると、まるでドラマのヒロインみたいでとても絵になる。でも本当は一番の悪魔がこの樹理亜なのだから恐ろしい。


「ね、ブスイちゃん。チェリーをあんまり怒らせたら後が怖いから一緒にご飯食べよ? わたしとチェリーと咲良とブスイちゃんの四人でさ。……もちろん無理にとはいわないけど」


 優しげな言葉をかける樹理亜ではあったが、その目は感情を持ち合わせていないかのごとく冷たく、見つめられただけで背筋が凍った。

 こうなると、もうこちらに拒否権なんてあるわけがない。美姫は昼食が抜きになることを覚悟しながらもうなずいていた。


「よーし、それじゃあ早くお昼ご飯食べよ。わたし、超絶お腹ペコリーヌなんだけど。チェリーは?」


「いや、そのペコリーヌってなによ?」


「お腹減ったってこと。こう言えば可愛いくない?」


「全然。ていうか流行はやらそうと思っても無理だからね」


「うわ、ヒドい。流行語大賞取ってもチェリーにだけはペコリーヌ使わせてあげないからね」


「いやいや、こちらから願い下げなんですけど」


 樹理亜と千恵里のふたりが和気あいあいと語り合う中、美姫達は自分の机を並べてそれぞれのお弁当を広げる。端から見れば仲睦まじい光景に映るだろう。だが実際はそれとは正反対。そのことはクラスの誰もが知っている公然の秘密といえた。

 こうなったら少しでも被害を小さくするしかない。美姫はお弁当箱を開けると、中身を確認もせずに素早くかき込み始めた。


「やだーブスイちゃん、そんな風にがっついて食べるなんて犬みたい。ブスイちゃんは相当お腹ペコリーヌだったんだ――ね!」


 樹理亜は語尾を強めると同時に自身の机を目一杯の力を込めて押した。


 美姫は樹理亜の向かいに座っていたため、自分の机を内側へと強く押されたことになる。結果、机がみぞおちに打ち付けられ、強烈な痛みがお腹に走り、思わず手にしていたお弁当を落としてしまっていた。


「ブスイちゃん、ごめんね。大丈夫?」


 ごほごほとせき込む美姫に対して樹理亜は申し訳なさそうな顔で謝罪する。しかし、その口角はやはり上を向いていた。


「あーあ、お弁当ぐちゃぐちゃになっちゃったね。本当にごめん。わざとじゃないんだ、信じてくれる?」


「……わかってる。大丈夫だから、気にしないで」


 見事にひっくり返った弁当箱は中身がすべて床にぶちまけられていた。ふと今朝の美奈子の笑顔が脳裏によぎり、美姫は居たたまれない気持ちになってしまう。

 しかし、樹理亜と昼食すると決まった時点でこうなることは目に見えていたのだ。美姫は気持ちを切り替えると、腹部の痛みを堪えながらも弁当を片づけようと席を立った。

 と、その行為に樹理亜が待ったをかける。


「……ブスイちゃん、そのお弁当捨てちゃうの?」


「え?」


「ブスイちゃんお腹ペコリーヌなんでしょ?」


 樹理亜の言わんとしていることは明白だった。こんな床に落ちた物を食べさせようとしているのだ。

 意図に気づいたのは美姫だけではなかったようで、千恵里もにやにやと笑いながら樹理亜に賛同の声をあげる。


「そうだよ。ブスイは食べ物は粗末にしちゃいけませんってママに習わなかったの? ていうか、さっきまで犬みたいにがっついてたんだから、むしろこの方が食べやすいでしょうよ」


 美姫の二の腕がぶわぁとあわ立っていた。

 いじめが始まってから一年ほど経ったが、ここまでの仕打ちは初めてである。いつだって樹理亜達の言われるがままになっていた美姫であったが、さすがに落ちている物をいつくばって犬のように食べろという命令なんて聞き入れられるわけもなく、ただ呆然として立ち尽くしていた。


 そんな美姫の態度に業を煮やした様子の千恵里が声を荒らげる。


「なに突っ立ってんの? 早く食えよ!」


「でも……そんなの……」


 こんな馬鹿げたことできるわけがない。たしかにそう思っているはずなのに、開いた口から漏れるのは掠れて濁った言葉のみ。普段から自分の意見を発することがほとんどなくなっていた美姫の喉では、この激流にあらがうようなセリフを生成させることなど不可能だった。


「あー、わかった!」


 樹理亜が妙案を思いついたかのようにポンと手を打つ。もちろん、その顔にはゆがんだ笑みが張り付いていた。


「ブスイちゃん、食べ方を忘れちゃったんでしょ? だったらさ、咲良が食べさせてあげればいいんじゃん。ね?」


 樹理亜はそう言って咲良の方を見やる。


 いまのいままで黙って成り行きを見ていた咲良であったが、樹理亜に話を振られて無言を貫けるわけもなく「わかった」と一言だけ答えると、席を立ち美姫の元まで歩み寄った。そして、美姫の首根っこをつかむと、足をすくい上げるように蹴り上げた。


「あっ」


 美姫はバランスを崩してその場に倒れ込んでしまう。すぐに立ち上がろうとするも、首を咲良につかまれてるためそれも叶わない。


「は、放して……お願い……」


 そう懇願するものの、咲良は放すどころかさらに手の力を強める。そして、床に散乱している弁当に美姫の顔を押しつけた。


 ぐちゃり。


 頬に嫌な感触が広がる。どうやらカップグラタンが付着したようだ。


 ぐちゃり。ぐちゃり。


 口を真一文字に結んで最後の抵抗をしてみせる。しかし、すでに樹理亜達の目的は美姫に落ちた弁当を食べさせることではなく、美姫の顔を弁当で汚すことに変わっていたようだ。


 ぐちゃり。ぐちゃり。ぐちゃり。


 何度も顔を床に押しつけられる中、頭上で樹理亜と千恵里の笑い声が聞こえる。心底楽しそうな笑い声だ。

 涙が出そうになるが、ぎゅっと目をつむり必死で耐えた。美姫はもう二度と樹理亜達の前で涙を見せないと決めていたからだ。


 でも、こんなことを毎日繰り返されたら我慢し続ける自信なんかない。いったいどうしたら――


 ――殺すんだよ。


 ふと彼女の言葉がよみがえる。


 そして、美姫は気づいた。

 いま自分が樹理亜達に明確な殺意を持っていることに。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る