「死ね」と「殺す」の違い
朝起きてすぐに母の機嫌がいいことに美姫は気づいた。台所で弁当の準備をしている美奈子が鼻歌を口ずさんでいたからだ。
「あ、美姫、おはよう」
こちらに気づいた美奈子が挨拶をするが、美姫はそれに反応することなく自分の席につく。
食卓にはトーストと目玉焼きが並んでいた。普段通りの朝食である。ひとつ違うのは、その隣にお菓子が大量に入ったトミマルのレジ袋が置かれていたことだ。
「ああそれね。トミマルの店長さんからいただいたのよ」
美姫が尋ねるより早く美奈子が説明をする。
「新商品のサンプルだから美姫の感想を聞きたいんだってさ」
「ふーん」
半年くらい前からだろうか。母がこうして働いているスーパーのサンプル品や廃棄品を時々持って帰るようになったのは。
店長が変わり規則が緩くなったらしいが、美姫からしたらそんなの乞食と一緒だった。家計が苦しいことは重々承知してはいるのだが、食べ物を恵んでもらって喜ぶ母を恥ずかしく思ってしまう。
とはいえ美奈子が必死で働いていることは美姫もわかっている。そのため、そんな感情をおくびにも出すわけにはいかなかった。
「わかった。じゃあ後で食べとくよ」
「うん、お願いね。そうそう、今日はお弁当に美姫の好物のカップグラタン入ってるからね。それからメインは昨日の夕飯の残りの肉じゃがで作ったコロッケよ」
娘からのまともな返事があったことがうれしかったのだろう。美奈子はさらに上機嫌になり、訊いてもいない弁当の中身を語り始めた。
――こんな風に母に言えたのも彼女のおかげだ。
美姫は家が貧乏なことを心の底から恨んでいた。そのせいで自分はいじめられているんだと思っていたから。
でも、彼女の言葉でいじめの理由は自分にはないのだと確信を持てた。そして、ほんのわずかだが心に余裕を持つことができた。だからこそ美奈子に対してもいつもよりも柔和に接することができたのだ。
美姫にとって彼女の言葉にはそのくらいの影響力があった。
――殺すんだよ。
そんな彼女のあの言葉がいまでも耳の奥にこびりついている。
美姫も、殺すとまではいかなくても、樹理亜達がいなくなればいいと思ったことはある。そのいなくなるというのは、転校などで学校で顔を合わせなくなるという意味合いではない。死んでしまえばいいという意味だ。
だけど、それは誰しもが持つ感情なのではないだろうか。生きていれば誰だって他人を憎んでしまうことくらいあるだろう。そして望むのだ。「あんな奴、死んでしまえばいいのに」と。
しかし「死ね」と願うのと「殺す」と思うのでは考え方はまるで違う。「死ね」はあくまでも自分は主体にならずに相手がこの世から消えてほしいということ。「殺す」は自分の手で対象を消し去るということだ。
結局シャーマンとかでもない限り「死ね」と願ったところで相手が死ぬことはない。つまり「死ね」という叶わぬ願いが色濃くなり、行き着いた先が「殺す」という考えだということになるのだろう。
だけど、美姫はその思いまでにはまだ至っていなかった。
自分の手で樹理亜達を殺すなんて――
いくら信頼できる彼女の言葉でもやはり無理がある。そもそも、そんなことしたらこちらだってただではすまない。デメリットが大きすぎるじゃないか。
自分に言い聞かせるように、そう結論づけると朝食の目玉焼きを箸でつつく。美姫の悩みを表すかのように半熟の黄身がドロリと広がっていった。.
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