好かれる喜び


 美奈子が働く職場のひとつのトミマルは、関東にチェーン展開する大型スーパーマーケットである。


 夕方は、そのトミマルで一番忙しい時間帯だ。夕飯の買い出しの主婦はもちろん、高校や美姫の通う光彩中学も近くにあるので、学校帰りの学生もよく来店する。

 それに合わせて十六時にトミマルの目玉商品である惣菜のげんこつメンチを作り直すので、それ目当てのお客が押し寄せレジには長蛇の行列ができる。それをテキパキと捌き、二、三時間くらい経ったところで、ようやく一息つけるといった感じだ。


 今日もそんないつも通りの一日で、客足が落ち着いたと思って時計を見ると美奈子の休憩開始時間の十九時を過ぎていた。美奈子は高校生のバイトの子に休憩に入ることを告げると、バックヤードにある休憩室へと向かった。

 美奈子が休憩室の端のお決まりの場所に腰をおろして持ってきていた弁当を広げると、その直後に部屋に入ってきた惣菜デリカテッセンの担当である石渡一恵かずえが声をかけてきた。


「お疲れさまー」


 美奈子の向かいの席に座ると、くたびれたことを強調するかのように「んー」と大きく伸びをしてみせた。

 彼女は美奈子よりも二回りほど年上で五十をとうに過ぎているはずだが、その張りのよい肌と艶のある髪の毛を見る限り実年齢よりもずっと若くみえる。このトミマルでは一番の古株らしく、美奈子が働き始めた頃にはすでにベテランで仕事のことを色々と教わったものだ。


「お疲れさまです。今日もげんこつメンチ完売みたいですね」


「そうみたいね。本当に毎日毎日何百ものフライをあげてるから、もうイヤになっちゃうわよー。揚げ物を見るのもたくさんって感じ」


 一恵はそう言って、手にしていたレジ袋からあんパンを取り出す。

 どうやら、それが今日の晩ご飯のようだ。美奈子も食の細い方ではあるが、一恵の少食ぶりにはとうてい及ばない。


 しかも一恵は、酒とたばこが大好きで、忘年会の席ではいつだって空ジョッキと吸い殻の山ができている。少食なのに愛煙家で酒豪。これだけ聞けば不健康の固まりみたいに思うだろう。だが、やつれている様子もなく、肌もつやつやでむしろ健康的なのが彼女のすごいところといえる。


「臼井さんは今日もお弁当持参なのね」


「ええ。いつも娘の夕飯を作り置きしているので、そのあまりをちょちょいと詰めただけですけどね」


 外食や出来合いの製品を買うよりも、自分で作ったほうが安くつく。母子家庭という環境で貯蓄を増やすには、こういった些細な出費でも抑えておくことが重要なのだ。


「偉いわねぇ。わたしなんかここで調理し続けてるから、家で台所に立つのも嫌になっちゃったわよ」


「あら、じゃあ旦那さんの食事はどうなさってるんです?」


「やーだ、カップ麺に決まってるじゃない。それでも愛情を込めてお湯を注いであげてるけどね」


 一恵はあんパンを半分ほど残してレジ袋にしまうとガハハと笑った。

 実際のところカップ麺ばかり食べさせているわけではないのだろう。なにせ、一恵は休みのたびに旦那と旅行に出かけているほど夫婦仲がいいのだ。よく「うちの旦那は――」なんて愚痴をこぼしているが、それも仲がいいからこそ言えるものだろう。


 外では悪く言っても実際には仲むつまじい。美奈子にとって、そんな関係性こそ理想の夫婦といえた。美奈子もそういう風になれると信じて田舎を飛び出してきたはずだった。


 それなのに――


「だけどさ、臼井さんもまだまだ若いんだから、いい人みつけたら? 臼井さん美人だし、探せば相手なんていくらでもいるだろうしさ」


 食事を終えた一恵はたばこを取り出すと、うまそうに紫煙をくゆらせた。


「それに、ひとりで子育てしながら働くのって大変でしょうよ」


「そうなんですけどね……。なかなか縁がなくって」


「まあ、それもしょうがないわよね。働いていたら、そんなに出会いなんてないものだしね」


 まったくその通りだった。


 美奈子だって、シングルマザーでいるよりパートナーを見つけたほうが負担もずっと軽くなることくらいはわかっている。しかし、働きづめでそんな人を探す時間がなかなかないのだ。

 それに加えて美姫と相性が悪かったら、それだけで結婚なんてできやしなくなる。ただでさえ相手を探す時間がないというのに、一般的な独身女性よりも条件までも厳しいのだから、美奈子自身結婚はあきらめている部分もあった。


「自分に合った男を探すのも大変よね。仮にいい人がいたとしても、こっちに気があるとも限らないしね」


 不意に一恵が内緒話をするかのように声のボリュームを下げる。


「……でも案外いい人って身近にいるものかもよ」


「どういう意味ですか?」


 美奈子も一恵に合わせて小声になって身を乗り出していた。


「新しい店長いるでしょ?」


秋本あきもとさんですか?」


「そう、秋本店長。あの人、臼井さんに気があるわよ」


「え? わたしにですか?」


 秋本は、半年前にこの店舗の店長として本社から赴任して来たばかりの人物だ。

 歳は三十代後半。体格がよく、彫りの深い顔立ちでハーフのような見た目だが、本人曰く海外旅行すらしたことのない純血の日本人らしい。


 そんな秋本が自分に気があると聞かされ、美奈子は驚きを隠せなかった。

 確かに美奈子はよく秋本から話しかけられる。だけど、それは秋本が以前の店長よりもずっと若く、フレンドリーな性格だからだと思っていた。


「本当ですか、それ。なにかの間違いじゃないんですか?」


「間違いないわよ。店長、臼井さんと話すときだけ妙にそわそわしてるもの。見てればすぐにわかるわよ」


 一恵が言うには秋本の気持ちは一目瞭然らしいが、当事者である美奈子自身はまったく気づいていなかった。恋愛なんてずっとしていなかったため、そういうアンテナが人より鈍くなっていたのかもしれない。

 美奈子が自分の鈍感さを恥ずかしく思う中、唐突に休憩室の扉が勢いよく開いた。


「お疲れさまでーす!」


 ――入ってきたのは秋本だった。


「噂をすれば、ね」


 美奈子にだけ聞こえる声でそう言うと、一恵はパチリとウインクをした。

 当の秋本は自分が噂話をされていたなんて知るわけもなく、いつもの調子で美奈子の元へと歩み寄る。その手には大量のお菓子があった。


 つい先ほど、自分に好意を抱いてくれていると知った相手。どうしたってそのことを気にしてしまう。それでも、なんとか平静を装って美奈子は尋ねた。


「お疲れさまです。そのお菓子どうしたんですか?」


「ああ、これね。新製品のお菓子の試供品なんだ。それで、その、臼井さんのところって中学生の娘さんいたでしょ? だいたいそのくらいの年代がターゲットの商品だからさ、娘さんに感想を聞いてほしいと思ってさ」


 思い返してみると、秋本は時折こうしてサンプル品や廃棄品を譲ってくれていた。それは母子家庭であることを不憫に感じて、秋本が手助けしてくれているものだと思っていた。

 でも実際は、こういった行為も恋心からくるものだったのかもしれない。


「ありがとうございます。娘もお菓子大好きなんで喜ぶと思います」


「いいって、いいって。シングルマザーなんて大変なんだから、なにかあったらぼくに言いなよ」


 秋本はくしゃっと顔をほころばせた。濃い顔立ちだが、こうして無邪気に笑う仕草は子供みたいで可愛らしい。


 ふと胸の奥が熱くなっているのに気づいた。


 いままで秋本を異性として意識をしたことなんてなかったはずだ。だが、自分に気があると知らされて、自然と体は喜びを感じていたのだった。

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