もし……


 美奈子は朝から晩――正確には深夜まで働きづめの生活を送っていた。


 朝は美姫の登校前に出かけ、清掃の仕事を昼過ぎまで行う。それが終わると一旦家に帰り、美姫の晩ご飯をこしらえる。そして、夕方前からスーパーでレジ打ちの仕事。その後はその足で近所の小さいスナックに向かい、酔っぱらいにからまれながらも、夜中の二時までキャストとして働く。そんな毎日の繰り返しだ。


 体はしんどい。それに、三つも仕事を掛け持ちしているものだから、丸一日休みになるということはまずない。それこそ正月くらいだろう。

 でも、美奈子は耐えることができた。いくら体調が悪くても、我慢して毎日の仕事をこなすことができた。


 美姫がいるからだ。


 美奈子の最終学歴は高卒である。田舎を逃げるように出て行ってから、東京で色々と経験し、シングルマザーとなり、働かなくてはならないとなったとき、高卒の身では割りのいい仕事につけなかった。だから、この世界で学歴がどれほど重要なものかは痛いほどわかっている。

 美姫にはそんな思いをさせたくはなかった。だから、大学に行く費用くらい準備してあげるのが親として当然の責務だと思っていたのだ。


 振り返ってみれば美姫にはこれまで嫌な思いばかりさせてきた。物心ついた頃には父親がおらず、家も貧乏。欲しい物もろくに買ってやることができなかった。

 美奈子は自分が母親として立派ではないことは重々承知している。しかし、それでも親としての最低限だけはこなしたかった。美奈子にとって、それが三食の食事の用意と学校へ通わせることのふたつだったのだ。

 そのふたつを守ることが、いまの美奈子のすべてだった。だから、仕事がつらいとか泣き言なんか言っている暇などないのだ。美姫の将来のために、ちょっとでもお金を稼がないと……。


 ただ、もう少し自分を優先してもいいのかなと思う時もある。


 まだ三十過ぎ。女としてまだまだ花を咲かすことのできる年齢だ。

 正直、これまでいいなと思う男性は何人かいた。

 でも、自分の恋慕を優先させることが正しいことなのか。思春期の美姫には新しい父親なんていないほうがいいんじゃないのか。そんなもやもやした思考が邪魔をし、次の一歩を踏み出すことができなかった。


 だけど、もし――


 もし、自分の境遇を理解し、美姫も納得してくれる人が現れたら、そういう関係になってもいいのかもしれない。

 美奈子はそう考えながらも、そんな『もし』なんか来やしないだろうと思っていた。

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