初めての会話


 放課後になると美姫は一目散で帰路に就く。


 光彩中学は部活動はそこまで盛んではなかった。なので帰宅部の人間もかなり多い。美姫もそのひとりだった。

 そして残念ながら樹理亜達も部活に入っていない。そういう訳で教室でもたもたしていると放課後まで樹理亜達のターゲットにされてしまうのだ。


 美姫の自宅は、学校から徒歩20分ほどの場所にある全八部屋しかないこじんまりとした二階建てアパートの201号室。母の美奈子とふたりで暮らしている。

 アパート暮らしで、親は母方だけ。この状況下で察せられるかとは思うが、美姫の家は裕福ではない。


 美姫自身、幼い頃は自分の家が金持ちだとか、貧乏だとか、そんなこと考えたこともなかった。だから、幼稚園までは美姫にも純粋に友達と呼べる子が何人もいた。

 だが、これが小学生になると違ってくる。友達が当たり前のように所有しているおもちゃ、ゲーム、マンガなんかを美姫は持っていないのだ。自分の家は周りよりも貧乏なんだと痛感させられた瞬間である。


 ある日、美姫は美奈子にゲーム機をねだったことがあった。どうしてもほしかったというよりは、母が自分のためにどこまでしてくれるのかを試したかったというほうが正確かもしれない。

 急なおねだりに母は困った表情をみせた。

 その顔を見た美姫は、すぐにこれ以上無理を言ってはいけないと悟る。そして、母に「うっそだよーん」と誤魔化してみせたのだった。


 だが、美姫にとって予期せぬことが起こる。翌日、ねだったゲーム機を母が買ってきてくれたのだ。

 母は満面の笑みで「美姫はいつも我慢してくれてるからご褒美よ」と言って、ゲーム機を手渡してくれた。美姫も母に倣うように満面の笑みを返してみせた。でも本心は、ありがたさ以上に申し訳なさでいっぱいだった。

 そんな中、美姫は決心するのだった。金輪際、母に無理をさせるようなわがままを言うのはやめにしよう、と。


 だから美姫はこの自宅が大嫌いだった。このぼろっちいアパートに帰るたびに自分が貧乏だと強制的に再認識させられるからである。

 でも、いまは外を出歩くよりも、こんな家にいるほうがいくらかマシにも思えた。迂闊に外出して樹理亜にでも会いでもしたら――想像しただけでぞっとした。


 家にいたほうがいい理由はもうひとつある。

 美姫は帰宅すると、いつものように六畳ほどの自室に直行し、押し入れのふすまを開ける。そして、入っている布団を引っ張り出すと、中板の上によじ登り、代わりに美姫自身が押し入れの中に入った。

 これで、ふすまを閉めれば――完璧な暗闇の空間のできあがりである。いじめが始まった頃から、美姫は時折こうして闇の世界に身を投じた。そして、自分の胸中に渦巻く不満や愚痴を吐き出していた。そうすることで少しは気が紛れたのだ。


「ねえ」


 美姫はいつものように彼女に声をかけた。もちろん、彼女から返事はない。


「今日も樹理亜達から嫌がらせを受けたよ。なんであいつらはわたしに構うんだろうね? わたしのことが嫌いなら無視してくれればいいのに。本当に不思議」


 彼女は答えない。


 いつも通り。ここまでは本当にいつも通りだった。


「嫌になっちゃうよ。誰もわたしを救ってはくれない。わたしはこの世界の全員から見放されているんだよ。こんな世界、なんのためにあるんだろう」


「――じゃあ壊しちゃいなよ」


 不意に暗闇の中からぽつりと言葉が返ってきたのだ。思わぬ返答に美姫はごくりと生唾を飲み込んでいた。

 前に聞こえたのと同じ声。絶対に聞き間違いなんかじゃなかった。


「誰? 誰かいるの?」


 美姫はおそるおそる闇に向かって問いかける。


 すると、今度ははっきりとした口調で返事があった。


「誰って、今更なにを言っているんだ。わたしが誰かなんてあんたが一番よくわかっているだろ? ずっと話しかけてくれていたんだからさ」


 美姫はその言葉ですべてを理解した。

 彼女だ。彼女が自分の前に現れてくれたのだ。愚痴を聞くだけの存在であった彼女が、ついに話しかけてくれたのだ。


「ああ、なんて日なの。あなたなのね? ずっと、ずっと、わたしの不満を黙って聞いてくれていた、あなたなのね?」


「そうさ。初めまして美姫。わたしはあんたを救うために言葉を得た。これからは、わたしになんでも話せばいい」


「ありがとう。……本当にありがとう」


 これが美姫と彼女が初めて交わした会話であった。 

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