第三章:警察と腐敗と親友、そして慈悲深い剣客

第53話 今度はまさかの、絶体絶命だった

 目が覚めると、またしても見知らぬ天井だった。

 一ヶ月ぶり二度目……この前まりえさんに連れ去られていたのも含めれば、一週間ぶり三度目の快挙となる。

 我ながら連れ去られすぎじゃないかな?

 都会は本当に怖い人しかいないみたい。そういうわけだから、もう驚く気も湧き上がらなかった。

 だからせめて、周りに誰か、知っている人がいる事を祈っておいた。


 それも、辺りを見回すまでの話。


「ひっ……」

 そりゃあ、そうだ。

 目を開けるだけじゃ死角になっていたところに、沢山の人が、ひくひく震えて折り重なっている。

 それも、沢山の血を流して。いや、それだけじゃない。真っ黒な汁も、だらだらだらだら、出てきている。

 よくよく見れば、足元にまで蛆が湧いていた。真っ白だったり真っ赤だったり真っ黒だったりに染まったものが、うぞうぞもぞもぞ、這い上がっている。

「来ないでっ」

 ばたばた足を振り回す。それでも、全然離れてくれない。

 ぐずぐずに腐ったような臭いと、まだ真新しい鉄臭さが、同時に襲いかかってきた。

 逃げようとしたけど、体が動かない。縄が食い込んでいた。

「う」

 ……最初の事件の時、とつぐさんが頑なに現場から突き放したわけが、ようやく分かった。

 気持ち悪い。苦しい。

 胃がぐるぐるして、酸っぱいものが込み上がってきて。それに耐えられなくて、べちゃべちゃ吐いた。

 それでも離れてくれない。

 むしろ、新しい餌だと言わんばかりに、群がってくる。ぶんぶん飛んでいた蠅も、増えてきた。

「……たすけて……」

 ぽつりと呟いた言葉が、かすかに震えるのが、わかった。

 口の中は、酸っぱくて苦くて、めちゃくちゃで。

 勝手にぽろぽろ涙が溢れて。

 もう、早く逃げたかった。こんなものからは、目を逸らして、ちゃんと生きている人と話したかった。

 こんなところに放置されていると、僕までまるで、死んでいるんじゃないかって思ってしまうから。


「また殺されたな。もう俺たちだけでも戻っちまおうぜ、いつ死ぬかわかったもんじゃねえし」

「バカ、聞かれたらどうする気だよ……もう警察は裏切っちまったんだ、無理だろ」

 だから。

 そう、誰かがぼやくような声が、余計に大きく聞こえた。

 救いにきたわけじゃないのは、わかる。

 だけど、せめてここから出して。もう起きてしまったのだから。こんなの耐え切れないから。

 力をいっぱいに込めて、足を暴れさせた。

 がたがた物音がするあたり、大して頑丈な建物じゃなさそうだった。

「……なぁ、なんか音するよな。泥棒にしちゃ変だし」

「ひっ……まさか、幽霊とか」

「んなもんとっくに出てんだろ。今日だけで二十は死んでんだぞ?」

 がちゃがちゃ、と鍵を開ける音が響いた。それと同時に、光がぱっきりと差し込む。

 逆光で、顔ははっきり見えない。少しだけ大柄な二人の男と、その後ろに髪の長い女の人がいる。

 何かを抱えていたらしく、何かが、ぽいと投げ捨てられた。なんとなく予想はついていたけど、人間だった。

 胸元から、だらだら血が流れている。多分もう、助からないだろう。


「なぁ、逃げちまおうよもう。俺、死にたくねぇよ」

「あぁ。どうせ夕方までいないんだろ、あいつら」

 それと同時に、前の二人が気づいた。

 元から何かへの呆れを抱いていたらしく、すっかり翻意を決めたらしい。そんな口ぶりで、すたすた歩いてくる。

「ボク。おじさんたちと一緒に逃げよう」

 そして。

 その人は、何かに怯えたような顔で、硬く僕の手を握りしめてそう言った。

 ぎりぎりと縄を引き切ったらしく、少し腕が楽になる。

 改めて見ると、どうもパイプ椅子か何かに縛り付けられていたみたいだった。安定性の欠片もないようながたつき方をしている。古くて、錆びてて、クッションなんてない。

 どうも半分壁にもたれかかるような格好だったみたいで、そりゃあがたがたすごい音が出るはずだった。

「ふっ、と」

 ひょい、と軽々持ち上げられる。

 手のひらから伝わってくる体温が、なんだかあたたかい。いつもなら、そこまで気にもしないような温度なのに。

「うわ、また湧いてるぞ」

「どうしろってんだ……そのうちバレるって、こんなの」

 ぷちぷちと虫が潰れる。

 大きくて、力強い足だ。床一面に湧いた蛆を、容赦なく潰せるくらい。

「なぁ……俺らまで罪に問われんのかね、これ?」

「そんなの知るか。俺なら検挙するね」

「うわマジ? もう自白するっきゃねえな」

 なんだか、すぐにやられてしまう小物みたいな発言をしていたけれど。

 でもそれが、ちょっとだけ心強く思えた。


「よし……誰もいないか」

 きょろきょろ周りを見て、そうしてようやく、抱き起こされた状態から解放された。

 どうも二人は、何かから逃げたがっているみたいだった。

 もしかしたら、裏切りというものなのかもしれない。でもそれで助かったので、感謝しかできなかった。

「……上手くやれよ」

「分かってるよ……ボク?」

 そうして、一人が小さくかがみ込む。

「なんですか?」

「……ここをまっすぐ行けば、おうちに着く。だから、寄り道なんてしないで帰るんだ」

 どうしておうちを知っているのかは、分からなかったが……もしかして、有名になっているのだろうか?

 それともたまたま、近所の憲兵のおじさんが助けてくれたのかも知れないけど。

「このことは、誰にも言っちゃいけないぞ。特に、園原先生とかな……」

「は、はぁ……」

 ……やっぱり、僕の知らないところで何かドラマがあったみたいだった。

 ちなみに、園原先生、というのは所長だ。近所の人は特にそう呼ぶ。

 最近はこと、僕が園原探偵事務所の一員だと知れてきたらしく――要は、園原先生のところの子、という呼ばれ方が何故か浸透してきたのである。

 このおじさん達も、どうやらそんな近所の人たちの一員みたいだった。


 でも、所長はとても優しい。

 他の人が厳しすぎたり、理不尽すぎたりというのはあるけど……それにしたって、ミスしちゃっても怒ったりしないし、ちょっとしたことでもたくさん褒めてくれる。

 普通に、とってもいい人なのだ。

 一番偉い人なのに、一番親しみやすい。

 そういう人こそ、怒ったら怖いと言われそうだけど……でも、そもそも怒らない。

 寝起きはだめだめでぐずぐずになっちゃうし、たまにぼんやりしていることもあるけど。でもそれはそれで、なんだかかわいらしい。

「……なんで、ですか?」

「死にたくないんだよ俺はっ……ち、近くの交番で働いてるし、お礼参りなんてされたら……」

 だからなんだか、こう言われてもピンとこなかった。

 もしかしたら、人違いなんじゃないだろうかとすら思える。

 でも、この近くに『園原』という苗字の人は少ない。先生、と呼ばれるような職業の人は、もっと少ない。

 その上、あの外見で……となると、そうそう人違いは起こさないだろう。女性ならさておき、所長はれっきとした男である。

「言ってる場合かお前、さっさと――」

 そうこうしているうちにも、裏切りが露呈してしまうらしく……相方らしいもう一人が、急かした。


 いや、より正確に言えば、急かそうとしていた。

 ただ、何かに突き刺されたように、急に動きを止めた。目を見開いて、何か恐怖におののいているようだった。

 こういうのを、蛇に睨まれた蛙、というのだろうか。完全に、身体がすくんでしまっている。足ががたがた震え、とても走れそうな状態ではない。

「……あ」

 ただそれだけ言葉を漏らして、ぐるりと男が振り向く。

 それにつられて、僕も見上げた。

 ちょうどかがんでいたおかげで、ようやく、さっきまでいたはずの、もう一人の正体が分かった。


「ふふ。それには及ばないよ」

 いつも通り、ただ幸薄そうに微笑んで、悠然と立っている所長の姿がそこにはあった。

 なんてことはなくて、はじめから助けは来ていたのだ。

 ……なんだかこの時だけ、見てはいけないものを見たような気がしたのは、きっと気のせいだと思いたい。

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