第52話 閑話休題・君だからよかった
こんな春の日の、冷ややかな夜明けの空が、好きだった。
まだ誰もが眠っていて、おだやかな夢を見ているから。耳障りな声も、音もしないから。
ただ一つ、私だけの世界というものが、そこにあった。
それも、ずいぶん昔の話だが。
今日は、やけに早く目覚めてしまった。軽くカーテン越しに外を見ても、まだ暗い。
それもそのはずで、時計を見ればまだ三時台。
……従軍時代ですら、この時間に起きることはそこまでない。概ね六時ぴったりに叩き起こされるのが常である。
いくらなんでも、軽く苦笑する他なかった。
隣では、姉さんがすやすや安眠を貪っている。
軽く耳をそばだてるが、他に特に起きているような感情の機微はない。誰もが、安らかな夢を見ている。
より正確に言えば、隣でぐっすり眠っている姉さんの声以外はしない。とはいえ、ゲームの音も、咳き込むような声もしないのだから、かなり上々な方ではないだろうか。
「……参ったな」
だが。
こうも揃って安眠を決め込まれると、驚くほどに暇だった。
少し口寂しくなったので、軽く車を動かす事にした。
室内で煙草を吸うのは、色々とあって憚られる。病人の目の前でこれ見よがしに煙を吹きかけるほど、人間性が終わっているわけでもない。だから、できる限り出先で嗜むようにしていた。
実家に知れれば白い目をされるだろうが、バイクの免許を取った時点で今更感が漂うのでそこはどうでもいい。
ちょうど、納車を超のつく急ピッチで終わらせたのだ。雨の音も、風の音もない。エンジンを慣らすにはいい日だ。
さて、どこに行こうか。
普段であれば、近場で済ませる。が、もう少し長いことエンジンを回したい。ここから一時間くらいが理想だ。
とは言え、道はガバガバに空いている。
――あそこはどうだ。
本当にちょうど、あまりにも見慣れた景色がふっと脳裏をよぎる。
あえなく立入禁止区域となってしまった、かつての我が家。華狼の誇る、質実剛健の館。通称を狼屋敷。
普通であれば確実に叩き出されるだろうが、無人空間に法があるわけでもなし。
ついでに、早朝であれば軍の見張りもないことも把握している。
「決まったな」
ぽつりと呟いて、軽く着替える。
どうせ、行って帰って煙草を吸ったところで、さしたる時間になるわけじゃない。朝が早い玲奈がようやく起きてくるくらいである。
「ならば、遠慮をする必要はないかな」
キーを取って、さっさとガレージに向かう。その予定だった。
だがしかし。
何をとち狂ったのか、私の体はまっすぐに咲良の寝室に向かっていた。
体に染み付いたスニーキング技術が、この時ばかりは恨めしい。熟睡した相手ならば、ぎりぎり不意をつけなくはない位には練り上げた。
というか、練り上げざるを得なかったわけだが、それはまた別の話だ。
珍しく所長の抱き枕にされていない咲良をさっさと拾い上げて、案の定空いている道をすっ飛ばして。
あらかじめ分かっていた通りに、見張りがいない規制区域もぶっ飛ばして。
「何をしているんだろうな、私は……」
そうして、煙草に火をつけ、軽く心を落ち着け――かくして、今に至るわけだ。
一応は十二年ぶり初の帰省になるのだが、全くそんな気はしない。離れ家は、当時の記憶そのままに残っている。
恐らく、出て行った後に大して手をつけていないのだろうということが、如実にわかるくらいには。
「……暴徒も手をつけない、か。まぁ、そうだろうが……」
実のところ、この家自体は既に荒らされまくっている。
ヤクザとして無事だったのは幹部役員くらいのもので、それですらかなりの入れ替えを強要されていた。当然、地域のコネはほぼ全滅。そこから三年で、以前以上の勢力になってしまったのだが……それはまた、別の話だろう。
一応は体勢側の身として、そのくらいのことは把握している。
煙草に火を付け、煙を吐き出す。
「……」
放っておくのもなんなので、咲良は膝の上に転がしていた。
まさか拐かされたとは、夢にも思っていないのだろう。すやすやと、安らかな寝息を立てている。
無意識で異能を行使しているらしく、全く体に力が入らない上に気配も読めないが……しかしそれでも、心地よさが上回った。ほかほかと温かい体温も、それを助長させているのだろう。
盛大に法はぶっちぎったわけだが、まぁそこはそれ。後で合意だった事にしておけば大丈夫。最悪、起き抜けに洗脳すればいいわけだし。
そこまで考えたところで、咲良には異能が使えないことをすっかり失念していたのだが。それはまぁ、後の祭りだった。
――こうしてぼんやり思案を巡らせていると、決まって昔を思い出す。
毎日のように喘ぎ声が聞こえて、決して外に顔を見せなかった母さん。そして、そんな母さんを抱く父さん。時たま別の声が聞こえたから、まぁ間違いなく他の男も連れ込んでいたのだろう。ヤッている最中の思考なぞ、大体似通ったものなので正確には分からない。
最中を見た記憶は、ろくすっぽないし……そもそも、いくら倒錯した物を好んでいようと、流石に自分の両親のそれは好んで見ようとも思わない。純粋な汚物である。
実家から連れてきた乳母はいたらしいが、そんな伏魔殿で心を病んでしまった。物心つく前には、流行病で死んだことにされていた。
仕方ないからと、実質上の世話は、未だ大学生だった義兄に投げられた。
細くふらつく身体を、どうにか壁に預けて無理に笑ったその姿が、あまりにも心苦しくて。あまりにも余裕がなくて、そのうちに壊れてしまいそうな心を見てしまって。
どうにか、この人の前では立派でいよう、と誓ったのだ。
だから、顔も知らない母親を、それでも恨んでいた。
義兄とは血の繋がりがないとはいえ、そこまで追い詰めた一因ではある。いくら自分の親とはいえ、これは当然の帰結だ。
生みの親より育ての親。母親には産んだ恩しかない上に、それもかなり出世したから返せただろう。
このままだと、育ての親への恩は返せずじまいになりかねないが……体勢側に付くことを望んだ以上、そうなることもいくらか覚悟はしていた。むしろ、そこから考えれば随分幸せに生きているものだ。
しかし。
最後までどうしようもないメスだったとは言え、いまだに情を捨てきれないのも確かだった。
「……はぁ」
紫煙を燻らせる。
目の前で首を吊った事に対する、憐れみだろうか。それとも、変わり果てる前の母を、いくらか知ってしまったからだろうか。
憎んではいたし、恨んでもいた。だが、それはそれとして、恨みきれない。
「……」
味にも飽きたので、持ち込んだ灰皿へ煙草を落とした。ふらふらと立ち上る煙を、じっと見る事にして。
こうしていると、まるで線香か何かのようだ。
――そういえば、今日はあの人の命日だった。
ろくろく手も合わせていないし、墓参りなど以ての外。従軍時代からここまで、過酷極まりない仕事に身を投じる方がいくらか楽しかったのだから……まぁ、汚い過去を省みる必要もないだろうと思っていた。
だが、しかし。
こうして腰を落ち着けてしまうと、それも揺らぐ。
ゆったりとした時の流れは、必然的に過去を想起せざるを得なくなる。
募らせた恨みの、その一欠片くらいは間違いだったんじゃあないか、と理性が問いかける。
どうせ同じ血が流れている。どうせ同じように狂う。ならば、何故そんなにも正義面ができるのか、と。
小さくなって燃え尽きた火種を、灰皿へぐしゃりと押し付けた。
こうなると、駄目だ。
大衆を導くのであれば、模範がある。かくあれという模範に従って、結論を弾き出せばいい。
対人関係は、そもそも待ち望んでいる言葉を吐けば、あとはどうとでもなる。だから、その通りに振る舞ってやればいい。
だが、こと自分の事となると、途端に駄目になる。
概ね、理性に従えば不幸になる。だが、感情に従うのはらしくない。経験則からして、そうなっている。
さて、どちらに振るか。
軽く逡巡したが、答えは出なかった。
だが、よくよく考えれば、私は一人ではないのだ。
未だ過去も名声も知らない少年が、ここに都合よくいるのだから――多少利用しても、いいんじゃないだろうか。
まぁ、私の本来の口下手さ加減で、どこまで誘導できるかは分からないが。
だから、委ねる事にした。
結局どうなったかは、もう言うまでもないだろう?
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