第51話 閑話休題・ちょっと昔の、いやな思い出

「ちょうど、今日だったんだ。私の母が自殺したのは」

 ぽつりと呟かれた言葉は、その意味以上に、重たい。

 何ら感傷らしいものさえ覚えなかった。覚える隙さえ、なかった。

 ただ、淡々と事実を並べているような、そんな口ぶりだったから。


「……え、っと」

「大したことじゃあない。元々癌を患っていて、永い命じゃなかったんだ」

 それだけ言って、一度言葉を切り上げた。今はじっと、外を見ている。

 きっとそれなりに、重い意味があったのだろう。というか、意味もなくこんなところに連れ込むほど理性がおかしいとは思いたくない。

「……それで、ですか?」

「だったらもう少し泣くさ。十年以上も経ったが、あれで一応は血が繋がった母親だぞ」

 それはそうだ。

 だが、それだったら、もう少し感傷に浸ってもおかしくないだろう。

 他人の事実を読み上げているだけのような、少しだけ無機質なものなのが、ずうっと引っかかっているのだ。

「……まぁ、なんだ。多少は情を覚えているんだよ。今は」

「今は?」

「あぁ。さて、どこから話すかな」

 とんとん、と畳を指で叩く。

 はぁ、と長く長く、息を吐いて。

 それはなんだか、話すのを躊躇しているように、見えた。


「結論から話すがね。あの人は、女じゃないのが嫌になったんだ」

 そうして、また、重い口を開いた。

「そもそも、姉さんとつぐの母さんとは政略結婚で……まぁ、先方はたいそう嫌がったんだ。それを呑ませるだけの条件として、愛人を持っていけということになったらしい」

 おおよそ、なんとなくそんな気はしていたが……やはり、であった。

 まりえさんは、割と嘘つきだ。

 平気で嘘をつくし、それを取り繕ってしまう。それも優しい嘘だから、余計にたちが悪い。

「その愛人と父さんとの間に生まれたのが、私ということになる。ただそれでは体面が非常に悪いから、少し先に生まれた姉さんとは双子になったんだが……まぁ、この辺りは周知の事実だな」

 もう少し似ていれば、或いはもう一年でも生まれるのが遅ければ、そんなむちゃくちゃなことを言わなくても良かったのかもしれない。

 だが、両方とも別方面に特徴的だった。髪の色も、目の色も、顔立ちも、性格も、何もかも違う。どう言いつくろったって、別人だ。

 そして、運の悪いことに、ほぼ同時期に生まれていた。

 ……ただ、そうでなかったらもっとギスギスしていたかもしれないから、ある意味では幸運だったのかもしれない。


「私は物心ついた頃から、母親の顔をろくに見たことがないんだ」

「え……」

「同じ離れ家で……ここで、過ごしていた筈なんだがね」

 ……ここまで言われれば、なんとなく分かる。

 こうであってほしい、という願望にはなるが。

 まりえさんの母親は、恐らくずっと病魔に蝕まれていて……その間、きっと誰かが世話をしていたのだろう。だから、情らしいものが今の今まで芽生えていない。

 できれば、僕としてもそうであってほしい。

「……なんで、だったんですか」

 だけど、たぶんそうじゃない、というのも察していた。

 だとしたら、普段の明らかにおかしい理屈と結びつかないし……それはそれで、野生の狂人を生み出したことになってしまう。そして、それならそれで、もっと最初っからおかしい言動をするはずなのだ。

「男女で愛を営むのに、生まれてしまった子どもはいらないだろう?」

「……それは」

「事実だったよ。あの人は、心底からそう思っていた」

 そうだった。

 言いつくろうまでもなく、嘘を重ねるまでもなく、この人は心が読める。記憶さえ書き換えられるのだから、つまり記憶も読めてしまうのだ。

 不器用故のすれ違いなんて、起きようがない。はじめから、本心だけを見据えられる。

 それがどんなに、おぞましいことか……少しだけ、理解した。

「そういうわけだから、なんとなく避けていてね。あの人の顔を始めて直視したのは、たぶん死に顔になるんだ」

 そうして。

 薄々分かっていたけど、できれば知りたくなかったことを聞かされた。ちくりちくり、と胸を刺すような罪悪感にさいなまれる。

「あぁ、それと遺影か。学生時代の写真を、私が知る本人と断ずるべきかは迷うがね」

 実物よりずっと若いから、だけじゃない。たぶん、ずいぶん人が変わってしまったのだろう。

 そうじゃなきゃ、何も言うはずがない。

 記憶も、感情も、思考も、手に取るように分かってしまう――というのは、あまりにも残酷だ。

 誰もが誰も、思い込みで誰かと付き合っている。だから嫌えて、好きになれる。

 そういうことを、話しているだけで、嫌でも突きつけられる。


「……父さんに引き離されたのが堪えたのか。それとも、男を引き込めない自分が、嫌だったのか。そこまではついぞ、分からずじまいだったがね」

 だから、と言うべきなのか。

 その事を聞いたときに、少し安心した。

「……分からないこと、あったんですね」

「会いもしない相手の事は分からないさ。私の異能は、私が認識できる範囲でしか作用しないからな」

 確かに、異能には大体の制限があるようだ。

 言い方からして、少なくとも視界に収まるくらいの場所なら確実、ということになるけど……実際のところは、分からない。

 僕では、あまりにもまりえさんと離れすぎている。だからたぶん、理解することはできないんだろう。

「だから、深くは分からないんだがね。絶望に呑まれていた、というのは確かだったよ」

「……」

 そんなの、誰だって嫌なことくらいはある。

 絶望することだって、きっとあるだろう。

 だから逃げるな、と言いたかった。最後まで諦めないで、と言いたかった。

 けど、もう随分遅い。

 とっくの昔に、まりえさんは独りになってしまっていた。


 起こってしまったことを、なかったことにはできないのだから。

 僕にはただ、眉をひそめるくらいしか、できなかった。


「もう、かれこれ十年も前か。今度、手を合わせるくらいはしないとな」

「……そう、ですね」

 もう、そんなことなどとっくに乗り越えたのだろう。

 むしろ、そうでもなかったらわざわざ話そうともしないわけで。やっぱり、強い人だと思う。

 というか、強すぎる。

 邪魔者扱いをしてきた相手の墓に、手を合わせられるというのは。しかもその相手が、実の母親というのは。正直、想像ができないくらい、強い。

「お前も来るか?」

「遠慮しときます。家族の時間、になるんですよね?」

「まぁ、そうだな。ろくろく言葉を交わしたこともないが、ね」

 ――あぁ、しかし面白いな。唯一まともに血が繋がった家族との時間、か。

 そうぽつりと呟いた言葉の、本当の意味を聞くのは、なんとなくはばかられた。


「はは。感傷に付き合わせてしまったな」

 小さくため息をつきながら、まりえさんがそう言った。

 随分空も白んで、ようやく朝も本番というような趣きだ。それでも、活気はない。いつもなら、名前も顔も知らない人たちが、働きに出ている頃だろう。

 本当に、たった二人しかいないのは、少しだけふしぎだった。

「いいですよ。最初に話題を振っちゃったの、僕ですもん」

「それでも、だよ。身内以外に打ち明ける気は、なかったんだがね」

 こちらを見下ろすその顔は、少し慈しむような表情をたたえている。

 ……こんな顔も、できたんだ。

 いつもの自信と、雄々しさからは、まるでかけ離れている。そしてやっぱり、とつぐさんには似ていない。

 ただ、とてもきれいだった。


「さて、そろそろ戻るか。あまり遅くなると、玲奈がうるさい」

「あはは、そうですね」

 そうして、どちらからともなく立ち上がる。

 さっさと歩いていくまりえさんを、追いかけて。ようやく少しだけ見慣れた、真新しい車に飛び乗った。


 たぶん、まだまだ並び立てないんだろうけど。

 でも、こうやって後を追いかけるのも、悪くはないかもしれないな。

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