第54話 助けに来たのは、優しいあの人だった

「ひっ、ひいいっ……」

「大丈夫?」

 いつも通りにゆったりした口ぶりで、所長はそう問いかけてくる。散り散りに逃げ去ってしまったおじさん達には、目もくれなかった。

 骨張った手が、僕を撫でる。

 その手は、少しだけ震えていた。

「……怖かったです」

「そうだよねぇ。何も、あんなところに閉じ込める必要はなかったのに」

 よしよし、よくがんばったね、と撫でてくれる。その手がなんだか愛おしい。

「……知っていた、んですか」

「さっきね。脅迫されちゃったから、大急ぎで来たんだよ」

 ぽろぽろ、涙が溢れ出した。

 ぎゅっと抱きしめてくれて、また穏やかに頭を撫でてくれる。

 きっと、僕のことをとても心配してくれたのだろう。

 あまり体調が良くないのは、わかっている。時たま、ベッドから起き上がれないような日もあるくらいなのだ。

 そんな身体に鞭を打って、わざわざ助けに来てくれた。

「……どこか、痛い?」

「いえ……痛くは、ない、ですけど……」

 そのことが、とても、嬉しい。

 だけど、それと同時に、ちくちく胸が痛む。

 無理をさせてしまったことが、心配させてしまったことが、肩にのしかかってくる。

「……怖かったの?」

「それは、そのっ……」

 怖かったに、決まっている。

 気持ち悪くて、気味が悪くて。

 僕も気付かれなかったら、ああなっていた、と……そう、分かってしまうから。余計に、怖かった。

「……言いづらいんだね。大丈夫だよ、気持ちは分かるから」

「……う、ぅ。ごめんなさい……」

 脅迫された――ということは。

 つまり、僕を人質に取って、何かをしようとしていたということだ。

 ……正直、とつぐさんもまりえさんも、誰かに負けるという状況がまったく思いつかない。玲奈さんも玲奈さんで、なんだかんだでなんとかしてしまいそうな雰囲気がある。

 そして実際にこうなっているのだから、考えるまでもなく僕が一番弱い。

「謝らなくっていいんだよ。咲良くんは悪くないからね」

「でも、でも……」

 今までも、危うい場面は多々あった。

 危うい場面しかなかったのを、綱渡りでどうにかしてもらった、とも言う。あまりにもめちゃくちゃな力と強さで、すべての状況をひっくり返せてしまうような人達だったから……要は、それに甘えきっていた。

 元々の僕なんて、よく知らない間に抵抗さえできずに攫われてしまう、そのくらいへっぽこな子どもにすぎない。

「私は大丈夫だから、ね」

 ぽんぽん、と頭を撫でてくれる。

 無理をしているのは、分かっているのに……それを、言い出せない自分が、嫌だった。


「玲奈くん、ちょっと後よろしくねぇ」

「はーい」

 ふ、とどこかから現れた玲奈さんが、僕を抱き上げた。

 手慣れた様子でゆらゆら揺らしてくるものだから、なんだか勝手に安心してしまう。鼻に慣れた、甘い匂いも。なんだか慣れた高さも、だ。

「警察も参戦させていますが、どう動かします?」

「降参してきた子は、保護してもらおうね」

「ガソリン代がかさむ置物じゃないですか。了解、トランザム」

 うとうとまどろむ中で、しかしタイヤの音はくっきり聞こえてきた。

 それがいきなりサイレンを鳴らし出したものだから、びっくりして跳ね起きた。実際には、跳ねる余地もなかったのだけど。

「さて今回の生成乱数は……降伏の余地ゼロですね、こいつはたまげたバカ集団ですよ。鎮圧して、どうぞ」

「ん。じゃあ遠慮なく行こうか」

 すらり、とどこか、耳慣れた音がする。

 だけど、あの日に目覚めてこの方、聞いたことがない。どうにも久しい響きだ。

 心が、強制的に静められるような、そういう音。好ましいものとして、なんとなく捉えていたもの。


 瞬間、空気が、急に冷えた。

 怜悧で、重苦しくて、弱みを重さで引き裂いてしまうような、そういう空気が張り詰める。

 息が、苦しい。胸が、重い。目の前が、眩む。

 抱きかかえられていなければ、立つことさえできない。

 世界そのものが、僕を押しつぶしにかかっているような……そういう錯覚を、覚える。

「うっわー、完全にガチギレしてて草。だから見張りは私に任せろー、と申し上げたんですが」

 軽く嘲るような発言内容とは裏腹に、その声色は真剣そのもの。

 ……いや。そうならざるを、得ないのだろう。ここにいるだけで、心臓を押しつぶされてしまいそうな気分になる。

 ぎゅっと抱きしめられているから、まだいいけど……一人っきりなら、耐えられない自信がある。

 むしろ、玲奈さんが耐えられるのが、おかしい。そういう重圧だ。

「ふふ。今日はどのくらい抗ってくれるかなぁ?」

 陽の光を受けて、それがにぶく輝く。

 気付かなかった。いや、気付かせてもらえなかった、というのが近いだろうか。

 所長の腰に、見事なまでの、太刀をいているのを。

 居合でもするかのように、軽く柄に手を掛けて……少しだけ抜いているので、ようやく分かった。

「あ、今回普通に相手つよつよなんで舐めプは――」


 ふ、と刺すように息を吐いた。

 同時に、軽く見据えた先の建物が、両断される。

「……いけないよ。そんな玩具に頼ってたら、命の懸け甲斐がないじゃない」

 銃声が雨あられとなって、一気に轟く。

「あ――」

 死んだ。殺された。蜂の巣になって。無惨な死体の一つに、なってしまう。

 ぎゅっと目を閉じた。

 ――僕のせいだ。僕のせいで、一番優しい人が死んでしまう。

 そんなの、見たくない。せめて今だけは。


 ……いや。

 十割十分、そうなる筈だった。

「あぁ、そんなに肩肘張ったら……隙だらけになっちゃうよ?」

 だが、その言葉に目を開けてみれば、どうだ。

 するりと、踊るように踏み込んで――そのまま、血しぶきが吹き上がる。

 もしかして、殺されたのか。

 否。違う。

 あまりにもあっけなく、転げ落ちていく首は――まるで見知らぬ男のもの。恐怖に目を見開いたままの表情で、ころころと転げ落ちていく。

「……あれ?」

 よくよく耳を澄ませても、銃声はおろか、人の声すら聞こえない。

「ひとまず見張りは殺ったけども、あとはどんな感じかな?」

 そうして、何事もなかったように所長が戻ってくる。

 正確には、靴底が少し赤く染まっていたが……そのくらいのものだ。

「察されてもいませんね。そりゃ屋根が吹っ飛んだらそうもなりますよ」

「そっかぁ、まだ勘は鈍ってないみたいだねぇ。ふふっ」

 まるで、お茶とお菓子をつまみながら談笑しているかのようで。

 しかし、確実に人は死んでいた。まるで何の感慨もなく、すぱりと首を切り落とされて。

「じゃあ、後はよろしくね?」

「はぁーい……」

 ……まったく、事実同士が繋がらない。

 頭が、理解を拒んでいる。

 そのまま、するりと立ち去ってしまった所長の背を、ただ見ていることしかできなかった。


「……ちょい。公共の面前で宇宙猫みたいな顔しない」

 それから、ぺちぺちと頬を叩かれ、ようやく現実を認識する。

 しばらくずっと、軽く気を失っていた。

 正確には、起きてはいたけど、何かをできるような状態じゃなかった……みたいだった。

「あ……はい。公共?」

「警察来てるんです、ちゃっちゃと証言してホラ」

 そう言われて、ようやく周りを見回す。

 確かに、何やら制服を着たおじさん達がたくさん来ていた。誰もが、どこか疲れ切ったような顔をしている。

 そのうちの、一番偉そうな人と話しているようだった。

「大体分かってはいますが……また園原先生が突っ込んだんですか……」

「まぁ全員死にますね。私も例外じゃないので、ここで待機していましたが……あ、これ被害者です」

 その言葉と一緒に、ぽい、と放り出される。

「おっと……あぁ、例の子ですか」

「はい。後はまぁ……事後処理はお願いします」

 かくして。

 まったく意味が分からないままに、放り出されてしまったのであった。

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