第31話 依頼者来たりて
――そうして、数分の時が過ぎた頃。
園原探偵事務所では……。
「あーもうめちゃくちゃですよ。
「あってもヤクザが入れるかは怪しいよね」
二人はぶつくさと文句を言いながら、荒れ果てた室内を掃除していた。
最も、大半のものは玲奈の異能でどうとでもなる。パチン、と指を鳴らした時点で、九割がた本来の状態に回帰していた。
故に、無駄口を叩く方がメインである。
「とうとう健全な日々が終わりを告げました。あーあ、酒池肉林」
「まぁまぁ。まりえくんも、『アレ』以外は常識的なんだから」
「真の常識人が生えた手前でまだそれ擦れるんですか……?」
もちろん、この事務所に常識人など存在しない。
常識人を装うかどうかが個々人で違うだけである。故に、咲良は本格的に常識的な人間だから、というだけで採用されたに等しい。
「あはは……いつの間にか事件を解決したらしいから、あれで案外肝は据わっているのかもねぇ」
「本格的に私の心臓が吹き飛ぶところでしたよ? 未知のガバ引いてあぁなるとかちょっと予想外にも程があります」
「まぁまぁ」
体を軽くソファに預け、伸びをする。
ふわぁ、とわざとらしく欠伸をした玲奈は、次の言葉を紡いだ。
「まぁ、いいでしょう。タイムの前にガバなどゴミ、結果良ければ全てよし」
故に私は
その言葉にはまったく理屈は通っていないが、しかし妙な迫力だけが備わっていた。
「再現性は残しておこうね……あ、そろそろ帰ってくるかな?」
――そこに。
こちらに向いた気配を、二人同時に察知する。
より正確に言えば――本来察知することのない、心底からの怯えと警戒。ふるふると震えるばかりの、獲物の予感。
それらは全て、この場所を知る者からは向けられることのない感情だ。
低速で回るエンジンと、その後ろを軽やかに走る足音を捉え、それはより強固なものとなる。
「おやおや。無駄口のお時間は終わりですねぇ」
「そうだねぇ。たまにはお仕事しなくちゃ」
どちらからともなく、軽い深呼吸をし――そうして、居住まいを正す。
ぴりりとした、澄んだ空気だ。極寒の冬山の如き冷気。春の陽気をも殺す、冷え切った殺意をどん底に敷いた仮初めの安寧。
探偵への依頼は、恐れと共にやってくる。
ことさらそれが、園原探偵事務所という看板の下であれば――なおさらのことであった。
「ところで、ここでぐだぐだしてて良かったんですか?」
「まりえくんが向かっていたからね。あの子なら、手加減してくれるかなって」
「うーん、百理あるド正論。これには私もにっこりですよ」
こつこつと事務所への階段を上がる途中で、少女の身体がぐらりと揺らめいた。
側に着いていたまりえが、咄嗟にその背を支える。
「おっと……旅疲れか」
「……ご、ごめんなさい」
申し訳のない顔をした少女に対して、まりえはさして気にする様子もない――否、それが本来の対応である。
少女は見るからにやつれ、顔色が悪い。
足元が覚束ないところを見るに、単なる疲労ではないだろう……というのは、咲良からもなんとなく感じ取れた。
「一度、横になった方がいい。ここは安全だよ、私が保障しよう」
「……はい」
まるで、元気のない少女を労る発言だ。その本性を知らない人間からすれば、白馬の王子のようだろう。その白馬が大排気量エンジンを積み、車輪で駆けていくというところに目をつぶればの話だが。
全く過言ではない、どころかほとんど事実と化していたのだが――しかし、そんなことなど、身内でなければ知るよしもなかった。
「……いい人そうで、安心しました」
「一応アレでわたしの妹よ……あぁ、でかい方ね。小さいのは知らない」
小さい、といっても、少女の体格は一般的な高校生と何ら変わりない。外見から見て取れる、個性らしい個性など、若干痩せ型である事くらいだろう。幼児同然の咲良からしてみれば、十分に大きい。
だが、しかし。
軽く寄り添う姿となれば、否応なしにその体格差は分かるものだった。
とつぐとはまるで似ていない。短く切りそろえた黒髪と、何よりその巨体。そして、先のまるで騎士めいた発言。いや、あれも概ね本心からのものだろう。
どう頑張ったってあぁはなれない、と理解しているが故に――咲良は一種、憧憬のようなものを抱いていた。
強く、しかもちゃんと清く正しいのだから。
少なくとも、咲良の知る限りでは。
「すごく頼りになりそうな人ですねっ」
「あら。昔は泣き虫だったのよ、わたしより小さかったし」
「へぇ、意外……」
とつぐが暴露する、ちょっとした過去の小話もまた……なんだか、もしかしたら、と心をくすぐる要因になっていた。
――まりえちゃんとは、二人きりにならないようにね。
そう伝えようにも、公共の場所。かつ咲良が妙な憧憬を抱いているせいで、下手な言葉を口走れない。
何より、とつぐはこと身内にだけは甘い。年の近い妹ともなれば、その溺愛は最大級である。悪口を言うものがいれば即座に墓の下、かと言って鼻の下を伸ばすと嫉妬するような、一種行きすぎた
故に、妹の悪評を言わないで、かつ咲良も貪られないようにしたかったのだが――ものの見事に、その努力は水泡と帰したのであった。
まりえが、扉に手を掛けた。
そのまま、古いドアノブを回し――そして、ひゅっと息を呑んだ。
まるで春の昼下がりとは思えない、薄暗がり。否、灯りは点いている。全てが鮮明に見える。科学的に正しい、ちょうどいい明るさだろう。
だが、しかし。
ぴしゃりと凪いだ空気が、根底に敷き詰められた殺意が、視界にまとわりつく。
隣でもたれかかる少女が、急に気を張れなくなった事をもう少し熟慮すべきだった。
これほどの殺意に呑まれては、並の人間は動けない。
そしてどちらが発している意思にせよ、両者ともにおぞましい程の実力者である。当然それなりに付き合いはあったが、こうして直面するとその異常性をよく理解できた。
「そこで止まらないでよ。ただでさえ古くさくて狭いんだから」
「あぁ、すまんな。感傷に耽っていた」
ひょいと押しのけていく姉。
「あ、待ってくださいよぉ。おやつは僕のです!」
「先輩権限でいただいていくわ。欲しけりゃ実力で勝ち取りなさい」
「勝てるわけないじゃないですかっ」
そして、その後ろをぽてぽて駆けていく少年。
確か、少年の方は期待の超大型新人だと連絡があっただろうか。確かに見目が整っているが、しかしそれよりも。
「……中々、面白くなりそうだな」
――あれほどの殺意に絡め取られず、何事もないように通り過ぎていく。
否。それどころか、その渦中へとためらいなく足を踏み入れていく。なるほど、これは将来有望だ。
だが、それ以上に。
「ぶー。とつぐさんがおやつ盗りましたー!」
「ぶーぶー。私の部屋着にも巨乳マウントを取りましたよ!」
「玲奈ちゃんが無駄に板なのが悪いでしょ」
実に下らない、仲睦まじい会話である。
「こら。とつぐくん、独り占めはだめだよ」
「……はいはい。じゃあそのかわり、一口頂戴」
若干妙なところはあるが、まるで理想の家族だ。
素直になりきれない姉と、純粋な弟。そして、優しい母。何か間に色々挟まっているが、それもさしたる問題ではない。かつて夢見た家族像だ。
――そんな他愛もない会話を繰り広げながら、こちらにじっと注意を向けて離さない。
確実に先手を取りつつ、不意を打てる間合いを保っている。
とつぐが最も近く、咲良を庇うように。
その奥には、玲奈が。その中間に所長が。舌を巻く程の陣取り方である。
即ちそれは、持ち込んだ案件が、とてつもない厄ネタである事と同義である。
ふぅ、と軽く息を吐き直し、まりえはようやく歩を進めた。
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