第32話 なりはてぬ者達
「結論から言うが、『なれはて』案件だ」
冷え切った事務所には、概ねの予想通りの発言がなされていた。
いの一番にため息をついたのは、とつぐである。
「……軍に投げればいいじゃないの、そんなの。まりえちゃんがやる事ないわよ」
「無論、普通ならそうしていたとも。善良な市民としての模範を見せるのもまた、退役した軍人の務めだ」
だが妙すぎる、と続ける。
「本来、『なれはて』は身体を物理的に変化させることはない」
「待った。その発言からするに、肉体の変化を認めたと仰る?」
そこに、玲奈が割り込んだ。
明らかな異常である。変化系の異能の使い手が、自らその身を変化させようとしない限り――肉や骨を変質させる事に伴う激痛で、例外なく発狂し、命を落とす事も珍しくはない。
「直には確認していないが、目撃者がいる以上はその可能性が著しく高いと判断した」
「……なるほど。特徴は?」
「山羊頭だ。色は黒く、ツノを生やしている。首の下までは確認していないが、少なくとも二脚歩行のできる哺乳類だろう」
「そうですか、まいりましたね――」
その後も、何かしらの所感を述べたのだろうが――しかし、ざらざらとした強いノイズになって、誰にも聞き取ることはできなかった。
「……何か知っているのか、玲奈?」
「端的に申し上げますが、現在の軍事技術レベルでの制圧は不可能です。三年前の大失態で全滅状態に追いやられた陸軍を酷使したところで、成果など微々たるものでしょうね」
「ふむ。何故軍事機密を知り得ているのかは、この際不問にしておくが……」
――事実として、この国の陸軍は壊滅状態にあった。
中枢の入れ替わりこそ微々たるものだが――しかし、その指揮の下に動く兵士はほぼ死亡。病気や産休育休、或いは非番だったり、運悪く身内の不幸に見舞われたり――そういう状況にあって、そもそもあの場に向かえなかった人間だけが生き残っているという有様である。
そして、折の悪いことに――まさしくその惨敗を喫した相手も、単なるいち民間人であった。
大軍で押しつぶしたところで、異能の相手など分が悪い。
その教訓は、未だ生々しく刻まれている。
「……あのぉ。なれはて、ってなんですか?」
だが。
咲良には、そもそも何を話しているか、全く分かっていなかった。
「うん……えぇっと、ね。元を正せば、ちょっとした差別用語なんだけど」
「差別はダメですよ?」
本物の子どもが如き、純粋な瞳で見つめる。
黄金の目を持ったまま成人すると、概ね『なれはて』と呼ばれるようになるのだが――そもそもこの言葉が使われていたのは、五十年以上も前。
そのほかの異能を持つ者がさまざまに犯罪を起こした現代において、異能差別は随分様相が変わっていた。
今や、とつぐのような黄金の瞳は少し珍しい程度で済んでいる。その代わりに、赤い瞳を持つ者が虐げられる世の中となっていた。
「まぁまぁ……この場合は、ちょっとした符丁だから」
「そ、それならいいんですけど……」
まりえが発言した『なれはて』は、また別の意味を持つ。性格に言えば、そちらが本来の意味だ。
古い差別用語として未だ根強く残る事もあり、一度聞いてもそう符丁とは知れない。対民間人向けの暗号のようなものである。
「私も、身体が変わっちゃう症例は初耳だけども……基本的には、心に影響があってね。説明がむつかしいけど……急に神様を崇拝するようになるんだよ」
「……それは普通なのでは?」
心が弱った隙を、何かしらの新興宗教につけいられた。或いは、何らかのきっかけがあって信心深くなった。
そういう事例くらいは、いくら咲良の貧弱な
「それがねぇ。この世には存在しない神様の名前なんだよ」
「……ほぇ?」
「いろいろな神話を漁ってみても、存在しない神様の名前なんだ」
神様だということは、確かだ。
我らが神、彼方の天空より舞い出で、白銀の巫女と共に我らを救いたもう――そういった詩を、なれはては今際に詠う。
また、そうなる前はほどほどに理性を残していることも多い。よって、聞き取り調査から、それが神であると証言が出ているのだ。
「……ふしぎなんですね」
「そうなんだよねぇ」
たった一人であれば狂人だが、それが各国に数万人。歴史を遡れば数百万と存在する。単なるキチガイの妄言と片付けることもできず、しかし未だ正体が知れないことから――いつしか、誰かが『なれはて』と呼んだ。
姿も知れぬ神に魅入られ、その信徒と成り果てた者。
学名を、
「『なれはて』になると、どうも異能の開花を起こすみたいでねぇ。軍が動くのは、その関係じゃないかな」
「ほえぇ……?」
またしても『異能の開花』なるよく分からない単語が出てきたので、質問をしようとするが――しかし、その言葉は遮られた。
「ちょっと。どういうこと?」
「言葉通りだ。私が出て、対処する」
目の前で、姉妹喧嘩が勃発したせいである。
語気は荒くない。むしろ、普段とさして変わらない。
だが、とつぐが叩き付けた机は、真っ二つに割れていた。手始めにと掴みかかったまりえの腕が、みしみし悲鳴を上げている。
「頼む、落ち着いてくれ。軍に姉さんを関わらせるわけにはいかないんだよ」
「だからってあんたが行く理由にはならないわよ。大体、もう軍は辞めたんでしょう?」
「それとこれとは話が別だろう、この場で――」
「別じゃない!」
それはいつになく、余裕のない声だった。
怒り。いや、悲痛な叫び。そう形容するのが、正しいだろう。目尻に涙を浮かべ、駄々をこねている、単なる少女だ。
「まりえちゃんは弱いのよ!? また何かあったらどうするの! もう嫌なのよ心配するのは! 絶対離ればなれになんてなりたくないのに!」
「む……」
――少し、精神の余裕を失っている。
そう判断したまりえは、こほんと咳払いをした。かたくなに力のこもった背を、そのまま抱き寄せる。
胸元に軟着陸した頭を、軽く撫でた。
「……姉さん。少し、落ち着いてくれないか?」
「……でも」
「大丈夫、事が落ち着いたら軍に引き渡すからな。だからすぐに帰る。今までもそうだった」
なだめすかすような、優しい声は――しかし、次の瞬間に変転した。
顎をくいと持ち上げ、目を合わせる。その瞬間に、瞳が赤く変わる。心なしか、声色が冷たく変わった。
「だから、勝利を疑うべくもない」
その瞬間に、とつぐの身体から力が抜ける。
「私の無事だけを信じていればいい」
ふらり、と足から力が抜けた。
より強く、その身体が抱きしめられる。
「私の姿をまた見たら、その時に心配してくれ――以上だ」
その言葉を最後に、一つまばたきをする。そうして、また元の青い瞳が姿を見せた。
「うわー、これが姉妹愛ですね……たまげたなぁ」
軽く静まりかえった空気に、茶化すような言葉を入れた。
「あ、あの……」
「ご安心を。機嫌が悪いと軽率にこうなるんですよ、とつぐさんは」
「いや、そっちじゃなくて!」
若干ヒステリックじみた怒号だったのもそれなりに驚きだったが、しかしそれ以上に心配の種があった。
急に落ち着いた……いや、気絶してしまった原因である。
ふと、まりえの瞳が赤くなっているのは見えてしまった。本来は青色にもかかわらず、である。
それもまた何かの見間違いだろう、と気にも留めずにいたのだが――。
「あ、もう洗脳解けてますね。一分しか保たないとか、どうなってるんでしょうか」
「洗脳!?」
その正体が、図らずも玲奈の口から明かされる。
あまりにも軽く言われてしまったが、しかしとんでもないことだ。目を合わせただけで洗脳されてしまう。
確かに咲良はぎりぎり例外かもしれないが、周囲の人間全てを守ることはできない。まりえが味方、かつ真人間でよかった、と心底から胸をなで下ろした。
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