第30話 初めてのお使いは、大波乱だった
「麦茶、むぎちゃー。あとジュース、おつりはおやつ……えへへ」
のどかな春の昼下がり。
風吹咲良は、初めてのお使いの真っ最中であった。
閑静な繁華街を縫うようにぽてぽて歩き、事務所から徒歩十分程度のスーパーマーケットへ。真新しい服と靴に身を包んで、上機嫌で向かっていた。
「えぇっと、ここを左に曲がって……あったぁ!」
公営団地の近くに位置する、だだっ広いスーパーが仁王立ちしている。
その隣には家電量販店が、またその隣にはコンビニが、そしてそのお向かいには郵便局が。さらにその向こうには、何やら大きなビルが見える。咲良の知るよしはなかったが、いわゆる商業ビルだ。
いかがわしい看板が消えていくのとは対照に、便利な生活拠点と言っても過言ではない、健全な店の充実ぶりを見せていた。
「……こんなにあるんだ。覚えとこ」
流石に中身は高校生相当なので、ふらふらと別の店に吸い寄せられることはない。
とはいえ、ほんの少し、ぎょっとしたような目を向けられる事はあったが……まともな身なりをしていた故に、大方親からはぐれて好き勝手しているのだろう、という生暖かい視線に変わった。
慎ましく生活を送れば、まず探偵事務所の世話になることはない。見目がいい上に暴れ回るとつぐやら、腐ってもアイドルである玲奈やらはそれなりに顔を知られていたのだが――しかし、いくら噂が好きだろうと、それなりに良心的な少年まで知ることはそうはない。
そうして、何はともあれ無事にお買い物を終えることができたのだが。
「助けてくれーッ! ヤクザに追われてるんだ!」
だが、買い物をした後が大問題であった。
一人の男が、息を切らしながら駐車場に駆け込んでくる。
主婦らしい女達のどよめきと視線が、男に集まった。
「ちょっとちょっと、ヤクザなんてやめてちょうだい!」
「そうよ縁起でもない!」
「どうせあたし達の生活を壊すに決まってるわ!」
こうして、外敵を排除せん、と見事な一致団結を見せたものの――地面を割り砕く爆音で、何かに気付いたようだった。
「園原先生のとこの子じゃないの!」
「どうせお金払わなかったんでしょ!」
「あそこの子怒らせないでよ! ヤクザよりよっぽどおっかないんだから!」
そして、見事な手のひら返しによって男は非難された。
ものの数秒で味方を失った男は――しかし、前方で戸惑う少年を見逃さなかった。
見れば、中々いい身なりである。恐らくはどこかの富豪の息子だろう。
そんなものを一人ぼっちで立ちんぼにさせておく方が悪い。ならば、こいつを人質に取ってなんとか逃げおおせてやる。
何故鬼のような形相で追われているかを理解していない男は、さらなる無謀に手を染めた。
真っ正面から、残りの体力を振り絞って羽交い締めにする。
「ふひゃ!?」
小さな身体が暴れたが、大人相手に子どもが勝てるわけがない。
「……大人しくしろ、さもなくば絞め殺してやる」
「こりょっ……」
どう見ても、五歳程度の少年だが――しかし、頭がいいのだろう。それを聞いて、ぱたりと抵抗をやめた。
泣きべそをかきもせず、じっとしている。ほんの少し不気味に感じたが、しかし都合がいいことに変わりはない。
ぜぇはぁと荒い息を、軽く整えた。
――なお。
この少年は風吹咲良であり、当然ながら突っ込んでくるのがとつぐだということは、最早言うまでもないことだろう。
男は知らずの内に、最低最悪の策に手を出したのである。
「年貢の納め時よ、大人しく金を出しなさい。内訳としては、相談料二万円と迷惑料十万円。追加で道路の補修代金を請求させてもらうわ」
なお、当然ながらとつぐも全力疾走ではない。
その気になれば、音速を超えてその身一つで男を轢殺することも可能である。そうしなかったのは、ひとえに取り立てだからという一点に準じる。
当然、殺して身ぐるみを剥いでもいいのだが――しかし、そこまでは望まれていない。なので、敢えてつかず離れずの速度で心を折る走りをした。その上で青い目を持つ彼は、己の肉体を全力で強化して突っ走っていたのだが。
「……は、ははっ。これを見てもそう言えるかな!」
だがしかし。
ここに来て、ぎゅうと喉元を締められた咲良を、見せられる。
「それ以上近づけばこいつを殺す、それが嫌なら見逃せ……!」
そう、人質である。
当然、その対応速度を超える速さで飛びかかって首なり腕なりちぎればいいのだが……しかしそうすれば、確実に慰謝料が上回ってしまう。
どうにか人並みの手段で咲良を救出し、その上で取り立てなければならない。まずは耳を揃えて十二万円。道路に関しては、恐らくその数倍。
その上で、実力行使に出ればほぼ確実に助けられるだろう。だが、絞殺は割と死ねるまでが苦しい。咲良の柔らかい心にまたトラウマが刻まれるだろう――というのは、想像に難くはなかった。
過去の恐怖に怯え続ける咲良の姿は、あまり見たくはない。
考えるとつぐの元に――たった一つ、ノイズが混じった。
「ひ、うぅ……」
どんどん苦しくなる呼吸と、完全に動作が止まったとつぐ。勝利を確信したかのように、不敵に笑う見知らぬ男。
咲良の、絶体絶命の危機であった。
だが、それ故に――視界の端でちょこまかと動く、ネオングリーンには気付かない。
威圧感を漂わせるエンジン音もまた、甘美な勝利の味に酔いしれていては、気付かない。
「……は、ははッ。どうしようもないようだな!」
完全な勝利宣言であった。
少なくとも、今この時までは。
「――それはどうかな?」
瞬間――男の身体が、ぐらりと倒れる。
支えを失い、ひゅうと落ちていく身体は――すぐに、柔らかな感触に受け止められた。
咲良は、ぱちくりと目を開く。
そこにいたのは、とつぐではない。
なるほど確かに同じ女だが、黒ずくめである。顔はヘルメットで窺い知れない。
どう考えてもとつぐの趣味ではなさそうなレザージャケットを、それも長いこと着ているようだ。関節部の生地が若干すり減っている。
それに何より、明らかに一回り以上は大きかった。手はおろか、胴体から腕――そして、否応なしに目に入ってしまう胸も例外ではない。内圧に負けつつあるファスナーが、だいぶ悲鳴を上げている。
「……はぁ。ありがとね、まりえちゃん」
「礼には及ばないよ。あの状況ならば、助太刀に入るのが当然だ」
そう、軽く談笑を交えながら――ひょい、と地面に下ろされた。
改めて、まりえちゃんと呼ばれたその女を見る。
――でかい。
説明不要のでかさである。何せ、咲良の目線が腹に来るのだ。
見上げたところで、ぱっつんぱっつんに張った下乳しか見えず、まず顔がわからない。太ももは丸太のように太いが、しかしお世辞にも柔らかくはなさそうである。胴も太い。
それもそのはず。
身長にして二一五センチ。その体重は三桁に到達する。さらにその上、体脂肪は必要最低限である。
「――そちらで対処を頼む」
「えぇ」
軽く仕事の話をしたのだろうが、あまりにも頭が遠すぎて聞こえなかった。いや、そもそも言葉を話しているのかも怪しい。いやに静かだ。
立ち去っていく背中越しに、ブレザーの少女が見える。どうやら、どこかから連れてきたらしい――ということは、理解できた。
「……あっ。お礼言わなくちゃ」
またしてもひょいとつまみ上げられた咲良は、しかし大事なことを忘れていた。
あまりにでかすぎて声も出せなかった、という方が正確である。
「後で合流するから、その時になさい。流石に事故るわよ」
「はいっ」
明らかに知り合い――というか、それ以上の間柄のようだった。もしかしたら、例の妹かもしれない。
だが、それ以上に――。
「……かっこいい人でしたねっ!」
ものすごく、かっこいい。
とてもかっこいい服装がよく似合い、何よりかっこいいバイクに乗っているのである。言い回しもかっこいい。
そして咲良も男の子である。
シンプルにかっこいいということに対して、非常にくすぐられるものがあった。
「あぁ……そうね」
なので、一種の危機感をにじませたとつぐの顔など、目に入らなかった。
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