第14話 探偵、襲来
甲高い風切り音が、咲良の耳をつんざく。
リズミカルに壁を蹴飛ばし、その度に爆発のごとき音を響かせる。昼も盛りの、静まり返った繁華街には、異様極まりない音である。
「この辺だったかしらね、確か」
そう呟くとつぐの声は、辛うじて耳に入ったが――しかし、聞き返すことはできなかった。
圧倒的な風圧の中では、目を開ける事さえ困難だ。口を開くだけで、まず空気が入る。明らかに人ならざる速度で飛翔を続けているせいだろう。
ただ、必死にその背にしがみつくことしかできない。他に気を向ければ、振り落とされる。
「はッ、と」
だから、その兆候を知らない。
目線を下に向け、全力で下に跳ぶという――当然、並の人間であれば致死の速度である――その事を、知り損ねた。
「うぷっ!?」
急に、吐き気を覚えた。
どぷん、と胃が跳ね回る。ふわり、嫌な浮遊感に襲われる。
その苦しさに、うすら目を開く。
如何にもな黒塗りの高級車と、そこから今にも降りたと言わんばかりの強面の男ども。黒スーツ、サングラス、即ちヤクザである。
小さな豆粒のようだったのが、ぐんぐんとこちらに近づいている。
否。
近づいているのは、自分たちだ。彗星の如き速度で、降っている。
逃げて、と叫ぶ。声にはならない。乾き切った口に砂利が飛び込んで、柔らかな口腔を切った。
ぶわりと鉄の味が広がる。血飛沫が舞い散り、咽せる。
だが――その異変で、男の一人が気づいた。
衝撃波を伴いながら、真っ直ぐに落ちてくる、一人の女に。
そうと分かれば、やることは一つだけ。
サングラス越しだろうが分かる、瞳の青変――己が異能を一際強く発現させ、他の男数人ばかりを剛力で突き飛ばした。せめてこの女の犠牲にならぬよう。
だが、それしかできない。
頭から突っ込んでくる女を、彼自身が避ける事は――悲しいかな、不可能であった。
故に、受け止める。
その覚悟、まさしく仁義である。無謀と知りながら、その力を受け止め逃す――死さえ恐れぬ、その意思を。
だから、その意思を、とつぐはあえて無視した。
車の屋根をクッションに、少し早く着地する。
飛び方は知らないが、跳び方においてはそれなりの自信がある。当然、下手に跳べばそれだけ飛距離は短くなる。走り幅跳びと同じ要領だ。
数瞬ごとに目まぐるしく変わる己の位置を、当然正確に認識している。玲奈のように精密機器じみた跳躍こそできないが、こういった長距離ではそこまでの精密性は要求されない。
――要は、狙ったところで止まればいい。
ぴんと脚を伸ばす。ぐんと失速する。だが、抑えてなお早い。
速さという絶対の武器を持ったままの両脚が、鉄を貫いた。
車体が勢いよく歪み、ガラスはひしゃげ、バリバリと割れる。
それと同時に、かがみ込んだ。
己の膝を緩衝材とし、人並みの軟着陸を敢行する。
着地先は、最早人肌を裂く凶器と化したが――しかし、その甲斐あって、どこにも死者はない。
わふぅ、と勢いよく漏れた声。ひゅっと息を呑む、その音。
それらが全て、生の証である。
「――おひさしぶり、ごきげんよう」
それら全てを判断し――まるで何事もなかったかのように、挨拶をした。
完膚なきまでに破壊された車体の、その屋根から。
「お嬢様。何か……気に障りましたか……?」
静まりかえった場を割り開いたのは、誰ともつかぬヤクザの第一声である。
おずおずとへりくだったような、どこか疲れ切ったような……まるでその強面には似合わない、弱々しい声だ。
それなりに歳を取った見た目も相まって、咲良にはなんだか哀れな老人に見えた。
「あぁ、丁度良かった。そっちの若いのが、少しねぇ……」
それを、じっと睨み付けた。
「ひっ!? も、申し訳ありません!」
その男が、面白いようにすくみ上がる。
次の瞬間には地に這いつくばり、頭を地に擦り付けた。目を見張るような速さだ。まさしく、文字通りの土下座である。
「怒っちゃあないわよ、怒っちゃあ……ね」
そして、今しばしの沈黙。
「ただ、ちょっと事務所が汚れちゃって……ねぇ?」
もちろん、概ね汚し主はとつぐに他ならないのだが――しかし、この哀れなヤクザ達がそんなことを知るよしはどこにもない。
「申し訳ありませんッ、しっかりケジメは付けさせますんで、どうか命だけは――」
そして、かわいそうなヤクザが爆誕した。
ぶるぶると威圧に震え、冷や汗をだらだらと垂らす、うだつの上がらない老人である。まるで威厳の欠片もない。
「あら、悲しいわ。
「はいッ今すぐにでも! おい、お前らッ」
その掛け声を聞いて、ようやく正気に立ち返ったか。どたどたと慌ただしく駆け出す。
「お嬢様、ささ、どうかこちらに。つまらぬものしかありませんが……」
そのうちの一人が、とつぐへと駆け寄る。白髪のない、まだ若そうな男だ。
「うふ」
その様を、まるで微笑ましいものでも見るかのような、あたたかな顔で見下ろしていた。
「……えぇっと、何がどうなっているんでしょう?」
しかし咲良、どうやらここはヤクザの本拠地らしいということ以外はよく分からなかった。
そもそも、ヤクザというのは恫喝するものである。何故それが、事実を言っただけで震え上がるのだろうか。もしかしたら、すっごくいい人なのかもしれないけど、いやいやそれにしたって――そう、首を傾げるばかりである。
「客先に『おもてなし』されるだけよ。慣れておきなさい」
「はぁ……」
上質そうな絨毯張りの上を、とてとて歩く。ふさふさと柔らかな毛が、足の裏を撫でる。
なんだか物珍しいので、ついつい足で弄くっていた。
「……お嬢様、その娘は?」
案内役に付けられた若い男が、とつぐに尋ねた。
彼はこの組における若頭なのだが、恐らく咲良は知らないだろう。ちなみに先ほど直に脅したのは組長である。まどろっこしい話は面倒なので、一番雑に金を扱える相手に直談判をしていた。これではまるで下働きだが、とつぐからすれば同じようなものである。
「あぁ……」
いかにも場慣れしていない、ただの少女。素の適応能力もあるのだろうが、今の咲良はほとんど一般女児である。
それが極道の事務所にいるというのは、一種違和感でしかない。
そして、
無法の世界にとて、暗黙の秩序はある。そういった無数の網を、とつぐは良く知っている。
「
「スケですか」
故に、こう言えば問題はない。
娶る予定は今のところないが、とりあえずの話だ。アキレス腱だ恐喝材料だと雑に人質に取られてはたまらない。組を壊滅させたところで面倒は雨の如く降りかかるし、どうせ怒られるというのも想像に難くはないのだ。だから穏便に済ませたい。
「……
「はいはい」
若頭がさっさと逃げ出すのを尻目に、ゆるりと後ろを振り向く。
先ほどから、あまり咲良の方に注意を向けていなかった。
もちろん、それ以上に向けるべき対象が多すぎるのもあるが――つい、うっかりだ。不意を取られたところで返り討ちにできるから、わざわざその不意を潰す必要もないというのに。
足元にはいない。はて、どこに行ったのかしら――もう少し遠くへと耳を向け、視線を動かす。
「ふんふふん……」
果たして、案外近くにいた。
長い毛足をキャンパスにして、何やら落書きをしているようだ。相当機嫌が良いのか、小さな鼻歌が漏れている。
――懐かしい、昔はあんなこともしたっけね。見つかるたんびに、お兄さまに叱られてたけど。
あの人ったら、ちょっと意地悪すぎやしないかしら――そんなふわふわとした思い出を、ふっと想起した。
そんな、小さな未練を振り払うように。
「ちょっと」
「ほぇっ?」
わざと、少し大きな声を出した。
「……あ、すぐ行きますねっ!」
「はいはい」
概ね何を言いたいのかは理解したらしく、咲良がぱたぱたと駆け寄ってきた。
見た目とは裏腹に、中身はしっかり分別がついているものだ。もちろん、まだ瞳に純粋な部分はあるが――それを込みにしても、かなり大人びている。
――なんだか、悪いことしちゃうみたいね。
これから起こるであろう事の段取りをつけながら、珍しく罪悪感につまされていた。
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