第12話 事件が、駆け出した
「あら。漏らしたの?」
ぴちゃぴちゃという水音と、独特のアンモニア臭を、とつぐは正確に嗅ぎ分けた。
そんなことをするまでもなく、一目見れば何があったかというのは明白である。圧倒的な蹂躙劇に恐れをなし、咲良は己が意思に反しておしっこをお漏らししてしまったのだ。
足に貼り付いてしまったハーフパンツに、やや色の移ってしまった靴下。そしてやや涙目になった顔。それらを見れば、推理するまでもないことである。
「まぁ、別に今更――」
「そっ、掃除しますから!」
顔を真っ赤にして、その場から逃げるように走り去る。あまりの恥ずかしさと気まずさで、居た堪れなくなった。
――高校生がお漏らしって。それも、とつぐさんのちょっと怖い姿を見て、お漏らししちゃったなんて!
ぺたぺたと付き纏ってくる、少し冷たくなったズボン。何より完全に尿まみれのパンツ。流石に放っておくわけにもいかないので、これからお着替えとお洗濯もしなくっちゃいけない。
どうしようどうしよう、本当にちっちゃい子に見られちゃう。そんなの、すっごく嫌だし、恥ずかしいし、僕は大人なのに――そんな羞恥心が、小さな体を駆け巡る。
ぱたぱたと足音を立てて、部屋まで逃げ込んだ。
ひとまず、マシな服を探すために。
「どうせ業者呼ぶから、そんなに気にしなくてもいいのに……」
「まったくよね」
だが、時すでに遅し。泣き疲れて寝た辺りで、割と見た目相応の中身だと思われていた。
思春期特有の自尊心は、とうに通り過ぎてしまったもの。理解しようにも、瞬時にとはいかないくらいに遠ざかってしまっている。
何より。
現実問題として、飛び散った血も脳漿も、被害者を取り除いたからといって自動的にどうにかなるものじゃない。
「……今度からは、できる限り血を出さないようにしてくれる? 教育に悪いかもしれないから」
「わかったわよ」
えぇっといつもの業者の人は、とメモを捲る。改修はさておき、ここまで汚すのは珍しいことだ。
またお金がぱたぱた飛んでいっちゃうなぁ――そんなふうに、男がわざとらしく口を尖らせると、少しとつぐはしゅんとした。
最も。
人体を完膚なきまでに
――感情任せにやりすぎてしまったが、どうにも素直に謝れない。
むしろ負けた気がするから嫌だ。舐められる。ましてやこの
殴って解決すれば確実に死ぬ以上、所長には強く出れない。へし折れるか、物理的にぷつりと切れてしまうか。力任せで、技も何もあったものじゃない剛拳は、こと手加減が難しい。
そして、
あるときは暴力での恐怖統治。あるときはその暴力性を恐れられて孤立。時たま、酒癖をひっくるめて破滅的な人生をたしなめるような大人がいる、それだけである。
玲奈のように、対等な間柄でいられる方が珍しい。それも、芸能界で普通以上にやっていけるだけのやり手、という超絶優良物件だ。長らくの付き合いで、足りない言葉をより露悪的に補足し合い、互いに容赦のない悪口を叩き合う間柄となったが……それも、なんだかもったいない友情だと思っていた。
そこに、これだ。
元来、年下の子どもはあまり好きではない。理由は明白で、殴れば死ぬからである。なので、どうしてもネチネチと嫌がらせをする手が止められない。
だのに、今回は少し焦っていた。漏らして泣かれて逃げられた。完全に人間としては見られていないだろう。その理由は、分からない。
さてどうしようかしら、これ以上は後に引けないのに、というかつい調子に乗って完全にやらかしたわ――などと、先には絶対に立ちようのない後悔に襲われる。
即ち、とつぐは筋金入りのコミュ障であった。
「……お酒飲んでくるわね」
なので、逃げた。
まずは目の前の、地味に怒っているであろう男から、である。
職務中の飲酒はどうなのかとも思ったが、どうせ話を聞くのはとつぐではない。何より、この大惨事で客は来ない。車も何も運転しないし、下手なエンジンよりとつぐの足の方がよっぽど早い。それはそれ、これはこれ、という用途ではあるが。
「うん、いいよ。お酒のついでなんだけど、ね」
「なによ」
案外軽く許容されたので、すわ今が好機と逃げようとしたが……刺されたような殺気を感じ、足が止まった。
別に本気で殺そうというわけではない。十年来の付き合いがある、味方である。それは分かりきっている。
だから、そもそも警戒する必要はないのだが――そういう理性とは裏腹に、身体が、本能的に止まってしまう。矢を射掛けられたように。
「咲良くんの面倒を見てくれない? ほら、私は業者さんとお話しなくちゃだから」
「……わかってるわよ」
じゃあよろしくね、と微笑んだのを合図に、殺気が緩んだ。
その一瞬を見逃さず、脱兎の如く逃げる。ただでさえ早い足が、死と気まずさとに直面したせいで、余計に早くなる。
それでも幸い、これ以上の破壊活動は行われなかったのだが――。
「……反抗期、うつっちゃったのかな?」
少しとぼけた言葉が、虚しく響いた。
とつぐは一人、知略を巡らせていた。
どうしようかしら、絶対怒っているわよね、あぁもう面倒臭い、大体なんでこういう時に限って玲奈ちゃんがいないのよ――と、概ね焦りと呼んだ方がいいものだ。生きてきた環境柄それなりに計算高いというだけであって、策略にものを言わせてギャフンと言わせるほどの知将ではない。
「もういやー……」
苛立ち紛れに、手元のウイスキーを開ける。
慣れ切った、強いアルコールの匂い。当然それなりに上質なものなのだろうが、そんなことは関係ない。こうやって野生の熱を冷ませるのなら、それでいいのだ。
瓶のまま、こぷこぷと勢い良く飲み込んだ。喉を焼く感覚が、多少なりとも平静を取り戻す。味も何もあったものじゃない。かなり邪道だ。普段ならば、流石にグラスに氷も入れてロックで楽しむくらいはする。
「……はぁ」
重苦しい、酒混じりのため息だ。
当然、これで酔えるわけではない。常人ならばかなりの確率で病院直行の量だったが、そんなものを気にするほど繊細ではない。
――何か、怒られないで済むようなことはないだろうか。
何か、贈り物。
いやいや、男が好むようなものは分からない。目利きはあまり自信がない。何より酒も煙草もやらないと言われては、とつぐもお手上げだ。
ならば、いっそ物理的に金。
いやいや、それはここでの給料だ。ただの返金である。何より、怒られたから金を渡す、というのはかなり生々しい。
「あぁクソ。元はと言えば、あいつらが悪いのよ」
そもそも余計なご来客、もといタカりさえなければこんなことにはなっていないのに。これだから
時と場合さえ違えば、今すぐそっ首ねじ切ってくれるってのにあんのド腐れ共カタギ相手に何しくさって――と、そこまで、呟いて。
「あ。その手があったじゃないの」
およそこの場合における
そうと決まれば、後は早い。
残る酒を飲み干し、カーディガンを羽織る。扉を跳ね除け、外まで一直線に駆け抜けようとして――そこで、ようやく思い出した。
――咲良くんの面倒、見てくれない?
当然、普段であれば無視している。だが、釘を刺されれば別だ。何より、これ以上怒られるのは面倒だった。
普通は忘れるような些細な釘だが、今回はどうも忘れられなかった。
踵を返し、ひとまず咲良の住む部屋へと向かう。
使えるようならこき使ってやろう、駄目そうなら背負っていればいい。
そう思い直し、扉を吹っ飛ばした。
「行くわよ!」
「ふひゃあああああああああああ!?」
そして。
絹を裂くような悲鳴が、こだました。
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