第一章:極道、そして桜の鬼

第10話 探偵業、過酷だった

 翌朝のことである。

 風吹咲良は、起き上がれなかった。

 それもそのはず、後ろから抱きつかれて抱き枕にされているからである。眠気とお布団でぽかぽかになった咲良は、もはや湯たんぽであった。その上、汗をあまりかかない咲良は、この状態においても恐ろしいことに汗一つとしてかいていなかった。お肌がさらさらなのだ。

 その熱を本能的に求めたのが、男であった。冷え切った身体を温めるために、ほぼ無意識で抱きついていたのである。

 それを理解するには、寝起きの頭では数分ほど必要だった。


「……お、起きてください!」

 どうにか抱きつかれているということを理解した咲良は、腕の主を起こそうとした。

 ゆさゆさ身体を揺さぶってみたり、ばたばた足をばたつかせてみたりして、腕が使えないなりに刺激を与えた。

 もぞもぞ動いて抜け出そうにも、不思議と動けなかった。一種の拘束術でも使われているかのようで、痛くはないがぴくりとも抜けられない。なので、もういっそ起こしてしまえホトトギス、という結論に達したのである。

「んぅー……」

 男も、流石にばったんばったん抵抗された時点で起きていた。だが、動く気にはなれなかった。身体はだるいし頭も重い。そしてなにより、カーテンの隙間からこぼれる朝日がまぶしい。目も開かないので、正直もう少し寝ていたい。

 この男、低血圧であった。それもかなり酷い部類である。常日頃から誰かしらに叩き起こされては、食卓の椅子、酷いときには職場のデスクまで連行されるような人間だ。

 そのため、今日は珍しく早起きであった。それでも朝の七時なので、ものすごく常識的な時間である。

「遅刻しちゃうよぉ」

 咲良に特に遅刻するような学校はないが、反射的にそんな言葉が出てきた。

「あと五時間……」

「すごいたっぷり寝る気じゃないですか!」

 その答えは、最早すがすがしいまでの開き直りであった。完全に起床を放棄している。この男、しっかり二度寝三度寝を決め込むつもりである。

「駄目ですよ、ちゃんと起きなくっちゃ。早起きは三文の得ですよ!」

「やだぁ……」

 最早どちらが大人なのかよく分からない状態だった。

「やだじゃないですよー!」

 鋼の如き体幹と駄々により、咲良のほっぺたはぷくぷくに膨れていた。仮に怒ったところで手応えは何一つない。腕までしっかりホールドされているので、ぺちぺち叩いて起こすこともできないのである。


 その微笑ましい様子を、殺気立った目で見下ろしている女がいた。


 玲奈である。

 起きたくないと暴れ回るとつぐを物理的に説き伏せて朝食を作り、常のようにうめく死体と化している男を回収しに向かったらこの仕打ち。


 ――キレた。


 流石にボディブローや正拳突きをかましたりはしない程度の理性はあったが、目の前でイチャイチャしているのである。その上、今日は珍しく本業アイドルをしなければならない。クソバカヒューマンどもと同じスタジオで、科学的根拠のない企画を脳が溶けたような笑顔でこなさなければならないのである。それも全ては映画の宣伝のためとあれば、ハイヨロコンデーと言わないわけにもいかなかった。

 賃貸事務所故に、壁や床は破壊できない。その程度の理性もまだあった。

 そして、生物学的に、いかなる人間であっても確実に目覚めさせる方法も知っていた。

「起きろくださいませファッキンが!」

 音速の踏み込みで背後を取り、無理矢理に座らせるような体勢を取らせる。人間、上体を起こされれば起きざるを得ない。定刻起床装置と同じ理屈だ。そして、人間はイチャついている時はかなり無防備である。

「やだー……」

 よって、うめく死体と化した男相手に遅れを取ることはない。

 下手に抵抗すれば脊椎か腰を破壊する程の無茶を強いる動きだが、十年同じ方法で叩き起こされた人間にとっては受けも慣れたものである。やだなぁ、という顔をしながらもしっかり起こされた。

 なお、抱きつかれた咲良はそのままである。

 身動き一つとして取れないまま、いきなり視界を斜め上に振り回された為、とても混乱していた。

朝食モーニングの時間ですよ!」

 全く状況を理解できていない咲良は、それでもなんとなく嫌な予感を察し――ドナドナと市場へ送られる子牛のような目をしていた。


 それが、洗礼の始まり。

 肉という肉が全て食い尽くされた食卓と、机の下で丸くなってうとうとしているとつぐを一目見て、咲良は大体何が起こったのかを理解した。

「では、私は仕事がありますので留守にします。昼食は冷蔵庫にあるのでレンジでチン、足りなければ下のコンビニへ。新人心得は全てマニュアルに起こしましたので、暇を見て目を通してください」

 およそこの場において最も頼れる人間であった玲奈は、そそくさと逃げ出した。後には『園原そのはら探偵事務所マニュアル』と銘打たれたコピー本と、朝からぐだぐだになった大人が二人残された。

 早速ぱらりと表紙をめくると、『まずは所長に朝食を食わせます。拒絶しようが口に詰め込みます』という悲しい表記が飛び出す。その下には献立がグラム単位で表記されている。おおよそこのくらい食べさせろ、という目安だろうと受け取った。


 ――孤独な戦いが、始まった。


「ごはんはいいよぉ……」

「そんなこと言わないでください。ほら、あーん」

 自分が食べる分も取り分けつつ、食欲がないだのお腹減ってないだのと駄々をこねる男――マニュアルの表記に従えば、彼が所長である――に飯を食わせ。

お酒ウイスキー頂戴。ロックね」

「朝からはだめですっ。二度寝しちゃいますよ!」

 朝も早くから酒をねだるとつぐをなだめ。

「んー……今日はお昼からでいいよぉ……」

「お客さんが来ちゃいますよっ、ほらほら」

 まだ眠気とだるさが取れない所長を階下の事務所へと移動させつつ……ついでに、ブラインドも上げ。

「ねーぇお酒はー?」

「まだお店開いてませんよぉ」

 うだうだ言うとつぐをいなしながら皿を洗い。

「熱心だねぇ……」

「えへへっ……そんなところで寝てたら、ついちゃいますよ?」

 社長椅子に辿り着いたところでへたり込んだ所長を横目に、軽く掃除をしつつ、鍵を開け、事務所の看板を出し――。


「もしもし私です。順調に事が済んだようで何よりですが、調子はどうですか?」

「心が折れそうです!」

 咲良は、早々に限界を迎えていた。

 そもそも入社一日で投げていい量の仕事ではない。ましてや身体は五歳である。一時間も上下左右に走り回り、跳ね回ればへとへとになるのも道理である。

 ご褒美にもらった飴を舐めていたが、それで取れる疲れではない。

 ましてや、これが毎日ともなれば――正直、ぞっとする他なかった。

「そうでしたか」

 だが、玲奈の返事は恐ろしく素っ気ないものであった。

「そうでしたか、じゃないです! もう身体動きませんよぉ」

 今は応接用のおんぼろソファに座り込み、玲奈からの電話を受けているところである。相当な目当てでもない限り、朝から繁華街の裏通りまでわざわざ冷やかしに来る人間はそういない。あまりにも立地が悪すぎる。完全に閑古鳥が鳴いている有様であった。

「そう仰いましても、私は何もできませんよ」

 圧倒的ド正論である。そも、恐らく仕事の合間を縫って電話をしているのだ。んむぅ、と唸るしかできなかった。


「……そういえば、なんでみんな事務所にお泊まりしているんですか?」

 薄々気になっていた事を口に出した。

 所長と呼ばれている以上、男の住居があるのはまぁ理にかなっている。女達もまた、仕事中は一緒にいるだろう。咲良は咲良で、住所も何もあったものじゃない。

 だが、どう考えても朝から晩まで一緒なのは普通ではない……と、ちょっとした違和感を抱いていた。

「……住み込み契約になっています。契約書読んでないんですか?」

「契約書ってなんですか!?」

 当然ながらこの契約書、勝手にペンがサインしてしまったので、一切読む機会は与えられていない。

 理不尽であった。

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