第9話 恋に、落ちてしまった

 ――純粋な闘争ちからは、時に練られた技巧わざをも上回る。

 正面から拳を打ち合い、時に痛みや衝撃によろめくその様は――泥臭いながらも、圧倒的に美しいものであった。完成された演武のようでいて、しかして着実に、互いに死に至りつつある。一歩間違えれば死ぬのだ。

 それ故に、生命の内なる輝きは、これ以上なくまばゆいものとなり――あらゆる宝石をも、凌駕する。

 女と女の友情、非言語での戯れは、十年の時を経て拳へと昇華された。

 その証拠を一つ上げるとすれば――互いに、これ以上ないほどの笑顔だったのだ。

 その美しい顔には、おびただしい量の血が流れている。

 否、肉体からもだ。

 急所は互いに避けていたが、アスファルトの破片や靴底は、既に互いの柔肌を裂く凶器ナイフとなっていた。

 美しい服も、髪も、鮮血に濡れていた。互いの返り血や、己自身の血で戦装束に成ったのだ。最早そこに、女は欠片もない。

 ただ、命を賭して殴り合う人間がいるだけだった。


 だから、見惚れた。

 それと同時に、恋に落ちた。


 唯一の問題があるとすれば――二人の女に、同時に恋に落ちたことであった。

 初恋は男、その次は二股。しかも双方ともに筋金入りのクズ。さらには片思いである。

 人知れずして、咲良の恋路は、世界に類を見ないハードモードになっていた。


「……いいなぁ」

 ぽつりと呟かれたその言葉で、咲良はようやく現実へと引き戻される。

 声の主は、男であった。

 血色をすっかり失った指は、咲良の体温で辛うじて熱を保っていた。それでも、冷めていく温度に耐えきれない。抱き上げた咲良には気付かれぬよう、けほこほと軽く咳き込んでいた。

「ほぇ?」

「なんでもないよ」

 人並みに動くことすら厳しく、普段は座るか横になるかという選択肢しかない。適度な運動も過ぎれば致命傷だ。あまり気を遣われないよう、人前で薬を飲むことも避けていた。

 それでも隠しきれないものはあるから、いずれ悟られるものではあったが。

「……もう遅くなるからね。横になろっか」

「はいっ」

 ――だから、あまり見ていたくはなかった。

 若かろうが関係なく、あぁ動けば確実に死ぬ。己の身を以て、何度も死を垣間見て理解した。それも戦場ではなく、ただの日常でだ。

 何より、あぁも互角の相手がいるというのは、一種恵まれた環境であった。

 男は、こと戦に関しては一切恵まれなかった。

 平和な時代現代に、人体の要たる心肺を病んで生まれ――どうにかそれを克服したと思えば、あらゆる死病へ罹る。さらにはそれを乗り越え、鍛練を積もうと、それを発揮できる場は存在しない。

 故に、己が戦意は既に渇き死んでいたと――そう、思っていた。

 だが、どうだ。

 こうして、己に許されざる激戦を目の当たりにすれば、それは別だ。

 羨望は嫉妬へと変転し、ひいては劣情として覆い被さる。

 聖人視されがちな男とて、ただの人間でしかない。何か一つきっかけがあれば、容易く堕ちる。

 更に悪いことがあるとすれば。

 既にことの全容を知っていた男は、その舞台を用意することさえ、あまりに易い事だった、ということか。


 咲良が寝息を立てた頃を見計らい、立ち上がる。

 酷い立ちくらみに襲われるが、それを気合いで耐え抜いた。棚に置いてある受話器を掴み、指の覚えるままに電話を掛ける。

 既に深夜にも関わらず――その相手へは、呼び出しを待つまでもなく繋がった。

「あぁ、もしもし。私なんだけどもね……」

 珍しいな、どうしたんだ、と応える声を聞きながら、崩れ落ちる。

「……誰か、はいなかったかな」

「いい子?」

 とくとくとか弱い鼓動しか打てない心臓が、既に限界に来ていた。どうにか壁にもたれかかり、身体を安定させる。視界が暗く、霞でもかかったようだ。長くは保たない、そう察した。

「うん……いい具合に、私を憎んでくれそうな、子……」

 息も絶え絶えになりながら、どうにか言葉を絞り出す。

 春の陽気に生かされていただけの身体は、酷く重い。己の意思に反して、永遠の眠りへと向かおうとする。それが今は、酷く憎かった。

「ふむ。ひと月後に一個小隊三十人ほど用意しよう、それで満足か?」

「うん、ありがとうね……」

 その言葉を吐いて、意識が落ちた。


 ――彼らは知るよしもなかったが、既にその時、女達も互いにけりを付けていた。

 繁華街の夜は朝まで続く。夜も更ければ風俗第三ラウンドだ。ちらほらと鼻の下を伸ばした声が聞こえた辺りで、これ以上はまずいと切り上げた。

 服は破れ、血は流れ放題。お世辞にもこれで事件性がないわけない。立っても座っても歩いても警察ポリスメンカムホーム。玲奈は身元を詐称しているので問題ないが、とつぐはそうも言っていられない。そもそも、普通の人間は身元を完璧に詐称はできない。

 異能ちからの影響で、傷の治りは常人以上だ。ことさら外傷ともなれば特に早い。そして玲奈は内臓だけを的確に破壊するような高等技術は持ち得ていないので、数分じっとしていれば完治する。

 だが、それもさすがに酒を飲めば常人並みに落ち込む。よって、玲奈に酒という酒を風呂へ持ち逃げされていた。

 現在、当の玲奈はシャワーを浴びている。

「はぁ……」

 そのため、恐ろしく暇であった。

 完全に使い物にならなくなった服を脱ぎ捨て、その辺に転がっていた部屋着に着替えるまではよかったが――なんとなく胸元が合わなかった。よく見たら尻も足の長さも全然違うじゃない、あっこれ玲奈ちゃんのだわ、と気付くのは早かった。

 そこで脱いだところ、ついうっかりで胸元のボタンを完膚なきまでに弾き飛ばしてしまい、完全にやる気を失った。

 とつぐは家事ができない。裁縫などもっての外である。針をへし折り、布を引きちぎっては周囲の人間に生暖かい目で見られる側であった。そもそも自分でそういう事はやりたくない。

 そしてたちの悪いことに、玲奈はアイドルである。

 私生活もアイドルらしく、無駄に高い部屋着を大量に持ち合わせている。その無駄にヒラヒラした服を着たところでやることなんてゲームかネットサーフィンくらいじゃない、と焚きつけたら殴り合いが始まった。一応アイドルもアイデンティティーに含まれていたのか、とこのときばかりは反省した。

 よって、全裸であった。


 暗闇から自分の部屋着を見つける気力も、衣装箪笥から服を引っ張り出す気力もない。まぁ数分くらいで玲奈ちゃんが帰ってくるでしょ、と思っていたが、今日はやけに長風呂に感じる。

「あぁ、明日なんか……なんだったかしら」

 そして、他人の外出予定などまともに聞いていなかった。

 明日の昼間に生放送が入りました、朝から夜まで留守にしますからそのつもりで――と口酸っぱく言っていたのだが、そんなことはつゆ知らず。ちょっと血を落とすだけにしては長すぎないかしら、と待ちぼうけを食らっていた。


 そこに、男の声が聞こえた。


 果たして空き巣か泥棒か、と思ったのもつかの間。よくよく耳を澄ませれば、どうやら知り合いのようだった。よく耳慣れた男の声だ。今からでもお休みって言ってこようかしら、あぁでもさすがに全裸はマナー的にないわね、と判断してやめた。

 だが――内容を聞けば、話は別だった。

「いい具合に、私を憎んで――」

 すわ戦いの気配か、と殺気立つ。淑女レディとしての最低限のモラルは守り、部屋から盗み聞きを敢行していたが……しかし、否応なしに昂ぶった。

「うん、ありがとうね」

 相手の声は、流石に聞き取れない。おおかた念には念を入れて、かなり音量を落としているのだろう。だが、またとない暴力の機会だ。真相はどうあれ、大概のことは死ぬまで殴ればどうにかなる。


 ごとり、と何かが落ちる音がした。


 好機到来。足音を殺し、部屋の前へと駆け寄る。

「……もしもし。もしもし?」

 案の定、途中で力尽きたようだ。穏やかな寝息が聞こえるのを確認し、そうっとドアを開ける。

 浅く息をしている男をベッドに放り投げ、未だ切れない電話を取り上げた。

「わたしだけど」

「なッ……」

 狼狽の理由は、すぐに知れた。よくよく耳を澄ませれば、衣擦れの音が聞こえる。やけに猫を被った、甘えたような声も、だ。

 ――なるほどか、と瞬時に理解した。

 とつぐは、酒さえ入っていなければ、かなり頭は冴える部類だった。最も、その仮定を満たすためにはかなりの艱難辛苦を舐める羽目になるのだが。

「ふぅん、やってたんだ」

「……」

 案の定、返答が途絶えた。言葉に詰まったのだろう。

 最も、浮気癖に関してはよく理解しているから、そこまで苦ではない。何より、それ以上の繋がりはある――と、確信していた。

 いわば正妻の余裕である。

「……どんな内緒話だったのかしらね。教えてくれる?」

「しかしだな――」

「わたしにだけ秘密なんて、そんな仲じゃないでしょう?」

 板についた脅迫言葉。対面であれば真意を見破られるだろうが、電話口であれば話は別だ。その程度の声色は使い分けられる。

「……分かったよ」

「うふふ、聞き分けがいい子は好き。ありがとうね、――ちゃん」


 加害者でさえ、まだ知らない。

 この事件が、ある個人によって仕組まれたものだということに。

 否――二度と知ることはないだろう。


 己の意思は、果たして本当に、己自身で抱いた意思だったのか。

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