第8話 この街、汚かった

 拳がぶつかり合い、轟音が響く。

 踏み込むごとにアスファルトが割れる。闇夜に髪が軌跡を描く。重い拳を的確に急所へ振り抜くとつぐ、それをいなして軽やかに舞う玲奈。最早、一つの演武として完成したものであった。


「ほへぇ……」

 その様子を、咲良は窓から覗き込んでいた。口をぽかんと開いたまま、見惚れていた。


 元々、ベッドに入って静かに眠ろうとした咲良だったが――悲しいことに、瞼が重くならなかった。

 遅すぎる昼寝を三時間もしてしまったせいで、すっかり疲れも取れてしまっていたのである。むしろ目はぱっちり開くばかりであった。本来であれば夜の前にもうひと遊びしてぐっすり眠れるのだが、そもそも咲良は十七歳である。そう事あるごとに遊びたい年頃ではない。むしろインドア派であった。

 そして、嫌という程に聞こえる騒音もまた眠気を奪った。

 殴り合いしかり、車のエンジン音しかり、酔っ払いの怒号しかり、電車の通りがかる音しかり、全てが未知であった。車道すらまともに敷設されていないようなクソ田舎ではまず耳にしない音の数々は、咲良の好奇心を掻き立てるには十分である。ベッドに膝を立て、壁に体を預け、小さな手をかけて、外の情報全てを取り込もうとした。

 シンプルなカーテンを払いのけ、きらびやかな夜の街が目に入る。

 まるで星のように、どこを見ても眩い光がきらきらと灯っている。真面目な看板はどこにも見えない。その代わりに毒々しい色のネオンサインが光り、いかがわしい店ドスケベ風俗の看板がいくつも浮かびあがる。初めての都会の夜は、星一つ見えない闇のほかは全体的にピンク色で、その次に肌色だった。

 咲良は知るよしもなかった事だが、このビルは繁華街の裏通りに位置している。飲み会にお手頃値段のキャバクラかホストクラブが徒歩数分、二次会は隣の風俗でお手軽な子と一晩よろしく、そういう環境が潤沢に整った性欲丸出しハイパードスケベドリームランドである。性的な店は多種多様に存在するくせに、真面目な看板のビルは片手で数えるほどしかない。そのうちの一つがここであった。

 妙な高揚感と罪悪感に襲われ、さっとうつむく。

 ばくばく鳴り響く心臓を押さえ、きょろきょろと部屋中を見渡した。電灯のスイッチを落とした部屋は、見事なまでの真っ暗闇。そこに人気はない。安堵したようなため息を漏らす。

「……えっち」

 それが、第一声であった。

 咲良は、生まれてこの方エロ本など読んだ事がない。

 どう頑張っても五歳児にしか見えない身体と素朴な精神とが大いに影響し、この世のあらゆるドスケベコンテンツから切り離されて育ってきた。赤ちゃんはコウノトリがぱたぱた運んできてくれるものである。幸いにして頭は悪い方ではなかったが、受験には性教育を必要としないのだ。わざわざ調べようとは思わない。

 しかし、同時に中身は年頃の男だ。誰からも教わらなかろうが、性欲はしっかり存在している。むしろ、本来であればやたらめったら性欲に支配されがちなお年頃である。

 洪水のように押し寄せた視覚的官能ドスケベ情報に、そんな矮躯ではなす術もない。何より、セクハラじみたいたずらをふっかけられていたのもまずかった。

 湧き上がる快楽を誤魔化そうと、少女のように足をもじもじこすり合わせる。もどかしいような切ないような、そんな不思議な感覚に支配される。

「もっと……」

 思わず口をついて出た言葉は、やけに甘ったるいものだった。それが余計に、理解もできていない欲を掻き立てる。どきどきと高鳴る鼓動に、想起するばかりの快楽。はあぁ、と甘い息が漏れる。

 小さな手が、脚の方へと伸びて――。


「あれ、まだ起きてたの?」

「ふにゃああああああああああ!?」

 咲良は、人生で初めて、親フラを知った。


「びっくりしちゃったかな。ちょっと、お風呂入ってて……」

 その割には髪に水分がなく、さらさらとしている。つやのある、まとまった黒髪だ。これで声があと一オクターブ高ければ完全に大和撫子なのだが、彼は四十路の男である。

 しっかりドライヤーまで使い、深夜にあるまじき爆音を立てていたにも関わらず、咲良は全く気付いていなかったのである。

「……ふへっ、はい、ねむれなくって!」

 咲良は、どうにもいたたまれなくなった。そして聞かれもしていない言い訳を超高速で始めた。

 女の人の裸……とまではいかなくとも、刺激的えっちで公序良俗に反するすけべな看板群にムラついていましたなどと、知られるわけにはいかなかったのである。

「そっかぁ」

「はい!」

 いくら見た目が見た目でも、男しかいない空間である。仮に感づかれたとしても、へぇこういう子が好きなんだぁ、で終わるだけで大した問題ではないのだが――咲良はそこまで頭が回っていなかった。

「なにか、面白いもの見れたかな?」

「ふぇ!?」

 そして、さすがに股間に手をつっこみかけていたところは見えなくとも、窓に張り付いていた光景は目に焼き付いているのである。物珍しさで眠れなかったのかな、という親心は――。

「……な、なにも!」

 バレた、という確信に変わった。

「まぁ、ビルしかないからねぇ、この辺」

「そうですねハイ!」

 なので、とりあえずごまかせたことに安堵した。

 咲良に言わせれば、田舎の風景は木々しかないのである。林立するビルは当然物珍しいものだが、それどころではなかった。


 だが――察されていた。

 明らかに様子がおかしい、ということを。

 人生百戦錬磨とまではいかなくとも、倍以上年齢が違う男だ。その分の人生経験は豊富である。目の前の少年が、何かしらの隠し立てをしている、ということくらいはお見通しであった。

「ふふ、何が見えたのかなぁ」

「ふぇ!?」

 また、小さい子は何をしていてもかわいいなぁ、というこれまた特殊な母性ママぢからの持ち主であった。うろたえる姿も泣きべそをかく姿も笑顔も、平等に愛らしく見えるのだ。

 最も、彼自身の従える猛者は小さくともほぼ同じ目線、大きい方は青天井である。よって、小さい子がそもそも存在していなかった。男自体、病と遺伝とでかなり華奢な部類であるのだ。

 そこに咲良である。大して秘められてもいない母性が爆発したのもまた、無理からぬ事であった。


「どれどれ……ん?」

 だが、幸か不幸か――男の目は、別の物を捉えた。

「おいで、咲良くん」

 この『おいで』に、拒否権はなかった。少しだけ身構えた身体を抱き寄せ、膝の上に座らせる。

「見下ろしてごらん」

「はぁ」

 咲良は、促されたとおりに見下ろした。卑猥看板群はすっかり見えなくなり、どうにか車一台を通せそうな道と、ビルたちの足元が見える。


 だが――重要なのは、そこではなかった。

 そこには、一度見ればそう忘れないであろう人影があった。顔こそ見えないが、確信を持って断言できる。

「とつぐさん……と、玲奈さん?」

「そうだね」

 闇夜に紛れぬ、桜と白金。それが向かい合い、ゆったりと歩を進めている。まるで映画のワンシーンのように、美麗なもので――それ故に、両者の間で交わされた殺意に、気付かなかった。

 否、気付いたところで止められない。

 先に仕掛けたのはとつぐである。強く踏み込んだ拍子に、アスファルトがめり込んだ。爆発音にも似た轟音を響き渡らせ、間合いを詰め――速度が乗った拳を、玲奈の腹に叩き込む。

 だが、それでやられる玲奈でもない。

 ひらりと跳び、その一撃を交わす――その軌道として選んだのは、とつぐの上だった。目視も叶わぬ速度で飛んできた拳を、しかして確実に捉え、その腕を支点に跳び上がる。その美脚を、未だ突っ込んでいくとつぐの首にかけた。

 重さを感じさせない一撃。だが、確実に力はあった。

 超特急で突っ込んでくるとつぐを、その逆方向へと持ち上げるだけの力は。

 美しい前宙を決め、その余波で顔面から叩き付ける。圧倒的なスピードを打ち消すだけの力で、アスファルトへと埋められた。


 ふぅ、と軽くため息を吐いた玲奈を、肘が襲う。


 もろに背後からの一撃を食らい、バランスを崩して倒れかかった。それもそのはず、本来であればとつぐの一挙一動は致死の一撃足りうるものだ。咄嗟に前へと倒れ込むことで、非致死へと転じただけのこと。

 だが、その隙を見逃すとつぐではない。

 追い打ちと言わんばかりにその頭を踏みつける。思いっきり前につんのめり、脚が中空へと浮き上がった。


 さすがにこれは、と咲良は目を覆うも――それは、単なる悲観に過ぎなかった。

 拳を打ちあう音が、耳へと否応なしに入る。

 即ち、玲奈の反攻を意味していた。

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