第5話 故郷、なくなってた
ひととおり事が落ち着いたあと。
「それじゃあ、咲良くんのお話を聞かせてくれるかな。どんな学校に通っていたの?」
やや気まずくなった雰囲気を割り開いたのは、その一言であった。
「ちよこー……県立
咲良の住んでいた地域においては、最大の進学校である。
進学実績以外に有名なところも何もない、極めて凡庸な進学校。さらにその実績も私立校に比べれば微妙で、偏差値も現実的。勉強法も効率的とは言えない。ある程度金持ちの親であれば、上京させてまともな進学校に通わせる事を決意するレベルである。
今風に言えばなんちゃって進学校であるその学校において、咲良はそれでもかなりの成績を維持していた。つまりは苦学生であった。
「……知ってる?」
「知らない」
しかし学生時代が遥か彼方となってしまった大人にとって、学校名だけであたりをつけるのは無謀であった。強いて言えば、たぶんこの辺の子じゃないという事しか分からない。
「その学校ってどの辺にあるのよ。あとあんたの家も」
「えぇっと、東海区の千代野原ですけど……」
そのまんまじゃないの、と呆れ声が飛んだ。
「もっとこう、パーっと景気良く分かったりしないのかしら。家族は?」
「えっと、お母さんが……」
……そも、捜索願がちゃんと出されているのであれば警察から何かしらの連絡が入るだろう。
いくらなんでも見た目は年端もいかぬ子どもだし、そうでなくても未成年。こと余計な重責を背負いたがらない警察のことだから、そういう事はさっさと連絡を寄越してくる。
そう考えれば、かなり絶望的だ。失意に倒れたのか、咲良を見捨てたのかはこの際さておきとしても。
「……八方塞がり、だねぇ」
「まったくよね」
重苦しい空気が立ち込める。
「で、でもでもっ。あっ、ダムの反対運動してましたよ!」
なんとか手がかりになりそうな情報を脳裏から引っ張り出してくるも。
「……最近は聞かないなぁ」
「死ぬほどへんぴなクソ田舎ってことしか分かんないわよ」
この様子であった。
果たして早々に迷宮入りか、と思われたその矢先。
「おそようございますこんにちは」
肉クッション、もとい玲奈が目を覚ました。
「――ということなんだけども」
今までの説明をかいつまんで説明されると、概ね理解したかのように頷く。しかして、その口から飛び出てきた言葉は予想外のものであった。
「
まったく要領を得ない言葉に、首をかしげる一同。それを無視して言葉を紡ぐ。
「山間の無人地帯を選びましたが、どうしても一つの集落が犠牲になってしまう。元々人の少ない集落ではありましたが、それでも細々とやっていくだけの人口は稼げていました。当然、反対運動も根強い。竣工は遅れに遅れ、何もかもが廃れていくのを待って、ようやく八十年前です」
言の葉はあまりにもなめらかに、よどみなく紡がれていく。
ただ一人、咲良へ突き立てる刃として研ぎ澄まされる。
「そうして、現在はダム湖の底に沈んだ集落があります。ただ一つ犠牲になった集落の名を受け継ぎ、千代野ダムと名付けられた。語り継ぐ者は、私を除いて他にない」
透き通った声が、部屋に染み渡る。
「ところで、咲良さん。これは非常に残念なお知らせなんですけどね」
「はい?」
ぱちりと開いた目が、咲良を見据えた。
ゆるく口角の上がった顔は、感情をたたえることはない。すぅ、と一呼吸置いて、また口を開く。
「その集落の名を、千代野原といいまして。あなたのおっしゃる故郷は、とうの昔に全て水底へと沈みました」
はらりと涙が流れる。
突きつけられた事実を、咲良はただ受け入れるしかなかった。理解を拒む事も、それどころか理解することさえできない。見えない刃に突き刺されたかのように、それを痛みとして認識していた。
「……親とかいないの?」
「本人はとっくに天国でしょうし、孫かひ孫の存在を祈るしかないかと」
最も当の息子がここにいるんですけど、と付け加える。その声は氷のように冷たいまま、揺らぐことはない。ただ冷徹に紡がれる一言一言が、咲良の心を抉り抜く。
言葉は、人を最も深く傷つける凶器となる。
その意味を、咲良はよく理解した。
ぽろぽろと溢れる涙は、留まることを知らず――ただ子どものように泣きじゃくる。何が悲しいのか、どうして泣いているのかも、よくわからないままに。
あぁ、それでも。
外はあまりにも朗らかな晴れ空で、陽の光がさんさんと差し込むばかり。少年の痛みを理解する者は、最早この世のどこにもいなかった。
それでも一つ、救いとなったのは。
暖かく寄り添う者も、涙に心揺り動かされた者も――実は割とそれなりにいた、ということだった。
「……辛かったね」
しゃくりあげる背中をとんとんとあやす手は、母のものではない。随分骨ばっていて、まだほんの少しだけ冷たい、男の手だ。
「あぁもう、これだからガキは面倒臭いのよ。ほらこれ」
ぶっきらぼうな声と共に投げつけられたのは、いかにも愛らしく、咲良は一度も見た事がない、レースのハンカチ。大粒の涙を吸い、真っ赤に泣き腫らした目元を露わにする。
「素直じゃないんですから。大丈夫ですよ、もう一人にはしません」
しれっと上に座り込んでいた女を除け、柔らかな髪を撫でる。砂糖菓子のように甘い香りが、ふわりと漂った。透き通った声には、ほんの少しだけ温もりがあった。
それだけは、ほんの少しだけ、覚えがあった。
とろり、溶けるような眠気がまとわりつく。あぁよかった、と誰とも知れない声が聞こえる。あたたかな陽が、身体を包んで離さない。
そのまま、まぶたを閉じて、温もりに身を預けた。
「おやおや、これはこれは」
規則正しい寝息にいち早く気付いたのは、玲奈であった。
小さな体をソファに預け、ぷにぷにした手をぎゅっと握り合わせ、すっかり眠り込んでいる。
「泣き疲れちゃったのかなぁ」
「そのようですね」
その身体を軽々と抱き上げ、男へと渡す。ゆらゆらとあやされるのを横目に、安堵したようなため息をついた。
そうして、さて、と軽く前置きして話を切り出した。
「本題です。咲良さんはこのように、身元が驚くほどありませんが……果たして、どうしましょう?」
最早、結論は分かりきっていた問答。
「そうだねぇ。本来なら、ちゃんとした施設に送らなきゃいけないんだけども……」
「見た目通り五歳児なら、の話だものねぇ」
まるでそうは見えないが、確かに知識は十七歳程度のそれだ。呂律もしっかりと回る。一応は存在した高等学校に所属していたと証言した。
よって、言葉の通り十七歳である、と信じた。
「ご存知でしょうが、中卒であれば合法的に就労はできるんですよね」
「そうだねぇ。玲奈くんも一応十七歳だもんね」
流石に義務教育期間ともなればそう上手くは行かないし、学校が現存していれば親元に帰すのが最優先だ。しかし、それら全てはとっくにダムの底。そもそも八十年以上も前の学籍がまともに存在しているのかさえ怪しい。
よって、現状は
「ところで玲奈ちゃん、とても都合がいいことに履歴書とペンがあるのよ」
「おやおや、これはこれは。では失礼して」
長い間放置されていたとおぼわしき、すっかり日焼けした紙。そして手元からは上質な万年筆。
ぱちん、と指を鳴らせば、一人でにペンが踊り出す。明らかに本人でなければ知りえないことだろうとお構いなしに、事細かに履歴書を埋めていく。
そうして――。
「これで問題ないでしょうか、所長?」
「うん、大丈夫。ちょっと拇印だけもらっちゃおうね」
ぴっ、と指を擦り合わせると、じわりと血が滲み出した。まだ細い親指に血を塗りつける。そうして十分に馴染んだと見るや、ぺたりと指先を押し付けた。邪魔はひとつとして入ることはなかった。
このようにして。
「後輩だからって、いじめないようにね」
「はいはい」
「ご安心を、丁重にもてなしてさしあげます」
ものの数分で、風吹咲良は手に職を得たのであった。
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