第2話 もしかしなくても、目覚めてしまった
ふあぁ、と大きなあくびをして、重い瞼を擦る。覆い被さっていた薄手のタオルケットを丁寧に畳み、きょろきょろと見回し……首をかしげた。
眠る前の記憶と、明らかに違いすぎたのだ。
経年劣化の激しい部屋に、お世辞にも快適とは言えないベッド。恐らく誰かしらの私室であろう、小綺麗ながら生活感たっぷりの部屋。どれをとっても、咲良には馴染みのないものだった。
――ここはいったい、どこなんだろう?
そんな素朴な疑問が、脳を支配する。
どんなに耳を澄ませても、慣れ親しんだ鳥のさえずりは聞こえない。草木などもってのほかであった。重そうなカーテンを開けて窓を覗いても、いかにも高級そうな車が鎮座しているだけで、見知ったものは何もない。
もちろん、全て知識としては知っている。
しかし、それとは無関係に不安が湧いてくる。
未知というのは、特に咲良という少年にとっては恐怖だった。体は哀れなほどにすくみ上がって、くりくりした瞳にはじわじわ涙が溜まっていく。母親が見当たらないのも、恐怖心に拍車をかけていた。
しばらく怯えているうちに、何か、穏やかな足音が向かってきていることに気がついた。
よくよく鼻を利かせてみると、とても美味しそうな匂いがする。シチューだ。腹の虫が、きゅるる、と控えめに鳴きだした。
――そういえば、お腹がすいたような気がする。
事実、眠っている間は一食も摂っていない。そして、咲良はごく一般的な健康体の持ち主であった。食欲をそそられれば、お腹が減ってしまうのも至極当然のことである。
しかし、ある文字列が脳を掠めた。
注文の多い料理店。
いつか母親が子守唄がわりに話していたものだったが、もしかしてもしかしたら、と想像してしまう。都会の人間は、田舎者を取って食ってしまうのかもしれない。そういえば、他にも子どもを煮込んでいるお話があったような気がする。もしかしたら、自分も今から寸胴鍋でことこと煮込まれておいしくされてしまうのかもしれない。
咲良の体が、ぷるぷると震えだした。ゆっくり、しかし決して途絶えることのない足音が、死神の足音のように聞こえて仕方がない。必死の祈りも虚しく、がちゃりとドアが開く。絶体絶命。
ぎゅっと目を瞑っていたが、しかし僅かばかりの好奇心に耐えきれず、ちらりと目を開けた。
まず初めに、華奢な身体が見えた。
長い黒髪を、ゆるく束ねた痩躯の女だ。顔は青白く、手は痩せて骨ばっている。その姿は弱々しく、見るからに病魔に蝕まれていた。はぁ、と重いため息をついてから、顔を上げ、咲良を見据える。
そして、次の瞬間、ぐらりと体勢を崩した。
あ、と小さな声を上げ、目の前で崩れ落ちていく。
咲良は咄嗟に飛び出し、無我夢中で手を伸ばした。しかし、物理法則に任せるがままに倒れる身体には勝てない。勢いに負け、そのまま下敷きになる。
同じ人間とは思えないほどに冷えた身体が、どうにも不気味に思えて仕方がなかった。
「ちょっと、昼前に失神するのやめてくださいません?」
派手な物音に気づいたのか、透き通った声の少女が駆け寄ってくる。目が覚めるような白金髪が揺れ、否応なしに目を取られる。
「まったくよね」
程なくして、桜色の髪の女が覗き込む。強いアルコールの香りを漂わせ、不機嫌そうなしかめ面を浮かべ……その下に倒れている少年を見るや否や、口角を上げた。
にやにや顔を互いに見合わせ、どちらともなく相槌を打つ。
「……おやおや。これはこれは」
「随分なお目覚めじゃないかしら、ねぇ?」
――いかにも性格の悪い、悪役じみた笑みだ。なんてとんでもないところに来てしまったんだろう。
「あ、あのぉ……」
咲良は、恐怖に震える声で、助けを絞り出す。
彼の細腕では、女を抱き起すことはできない。痩せこけてはいたが、それでも大人の体重だ。華奢で、小柄で、どうしようもなく愛らしい子どもの身体では、どうにか支えるのが限界であった。
「とつぐさん」
「はいはい」
女は、力尽きた身体をひょいと持ち上げ、そのままベッドへと雑にほうり投げた。
勢いよくスプリングが軋み、身体が跳ね、そのままベッドの向こう側へと転げ落ちていく。少なくとも、咲良の目にはそう映った。あっと声を上げることはできたが、あまりに突然の横暴で、身体も思考も追いついてはいなかった。
瞬間。
ぱちん、と小気味いい音が響く。
瞬きをする間もなく、まるで初めからそうであったかのように、そこには穏やかに眠る女がいた。
「横着はやめてくださいましね」
「嫌よ面倒臭い。さっさとお昼にしましょう」
「生具材のシチューがお好みでしたか、これは奇特なお嬢様で」
晴れ渡った昼にふさわしく、奇妙なまでに穏やかな空気が流れる。
ただ一人、常識の埒外の光景に目を取られ、ぱちくりと目を丸くしていた咲良を除いては。
そのまま、右も左もわからない状態で、食卓へと座らされていた。
より正確に言えば、とつぐと呼ばれていた女に引きずり込まれていた。咲良も抵抗したものの、圧倒的な力の前に抑え込まれた。
豊満な身体をしているが、特別力が強そうには見えない。ティーカップで紅茶を嗜んでいる姿からして、むしろ荒事とは無縁のお嬢様のようだ。先程の暴虐はもしや白昼夢のたぐいだったのかもしれない、と思い始めた。背筋をすっと伸ばし、添えられたケーキを口へと運ぶ、その一連の動作には淀みも迷いもない。
「黙っていれば美人ですよね」
「ふへっ!?」
咲良の背後から、突然に透き通った声が聞こえた。振り向けば、先ほど真っ先に駆けつけた白金髪の少女がそこにいた。料理をしていたのか、いっとう長い髪をシニヨンにしている。あのあと真っ先にキッチンへ戻っていた筈なのに、と首を捻った。
「あぁは言いましたが、概ね煮るだけですから。目の前の方には内緒ですよ」
「聞こえてるわよ」
はぁ、とため息を一つ漏らす。目の前の黄金色の瞳が、突き刺すように咲良を捉える。何か気に障るようなことをしたのだろうか、と咲良はたじろいだ。
「おやおや、そんなに飢えてらしたとは」
「足りるわけないでしょ」
食前食なんですけどね、と肩をすくめる。
改めて目をやると、ケーキは消えていた。ふんだんに生クリームを使った、見るからに特別なご馳走だ。真上にはきらきらと輝くようなイチゴが鎮座している、いかにも模範的なショートケーキ。話しかけられてからはせいぜい数秒だ。その間に、すっかり胃の中に収めてしまったのだろう。
「……ど、どうしたらいいんですか?」
「話は変わるんですが、咲良さんの好物は?」
唐揚げが好きです、と一瞬迷いながら答えた。
――子どもっぽいと思われやしないだろうか。いかにも男の子の好物、といったものだ。子ども舌なのは事実なのだが。
「なるほど、前菜はキロ揚げにしましょう」
「随分健康的なのね、嫌いじゃないわ」
一体どこが、と首を傾げた。そして、咲良はまたしても目を見開いてしまうこととなった。
ぱちん、と軽快な音が響くやいなや、少女の手の上には立派な大皿が現れる。
そして、どこからともなく食欲をそそる香りが漂ったと思いきや――どさどさと音を立てて、揚げたてほやほやの唐揚げがうず高く積まれていった。一食分、などという範疇はとうに越え、大食いと呼ぶのもはばかられるような肉の大山を形成する。その量、食卓に置かれただけで、向かいに座っていたとつぐの顔を覆い隠してしまうほどであった。
「ライスオアビール?」
「どっちも頂戴」
はいはいそのように、と笑いまじりで応える少女。
そして、どう見積もっても一人分にはなり得ない量の米が、これまた大きなどんぶりに、文字通り山のように盛られていく。最終的に、唐揚げの山と負けず劣らずの米の山を形成した。
その片手間で、見覚えのある
「はい、唐揚げライスです。召し上がって、どうぞ」
それは最早、一人分の小腹を満たす、という基準からは大きく外れたものだった。いただきます、と行儀良く呟かれた言葉さえ、耳に入ることはない。
目をぱちくりと見開き、ぽかんと口を開ける。食事がもりもりと消えていくさまを、咲良はただ見ていることしかできなかった。
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