第3話
私は明るい部屋の中で目を開いた。糊の利いたコットンのシーツの肌触り。微かな消毒液のにおい。ここは総合市民病院の病室だ。一昨年入院したからよく覚えている。
「おはようございます」
私の頭上で男の人が穏やかに微笑む。青い瞳のまだ若い男性。私、彼を知ってる。
「先生?」
頭がぼんやりする。どうして私、ここにいるんだろう? 事故に遭った覚えはないし……。そのとたん、記憶が鮮明に蘇った。
「私、目を覚ましたの?」
「ええ。気分はどうですか?」
上体を起こそうとして身体の異変に気づいた。筋肉が固まってしまったみたいに動こうとしないのだ。先生が手を差し伸べて私の腕をそっと持ち上げた。
「長いこと動かしていないからです。簡単なリハビリですぐに元に戻りますよ」
彼はベッドの脇の椅子に腰を下ろし、私に微笑みかけた。
「やっと会えましたね」
「あの……先生が私の家に来てくれたのは……あれも夢だったの?」
「いいえ、あれは夢ではありません。ロールプレイングゲームをしたことは?」
「ゲーム?」
「オーストラリアにある
その会社なら知ってる。体感型オンラインゲームのオセアニア最大手だ。参加者は『システム』の作り出した仮想空間でゲームのキャラクターになりきって冒険を楽しむんだとか。一時期、弟がハマってパパと大喧嘩になった。これほど現実味があるものだとは思ってもいなかったけど。
「リアルでしょう。僕も驚きました。そうは言っても先程の世界は次世代の技術を使って作り出したのだそうですよ。リリース直前だったのですが、結局、開発者以外の人間が体験する機会は訪れませんでした。初めてのお客さんだと『スレイド』は大はしゃぎです」
「すれいどって?」
「『システム』の名前です。あなたにドラゴンを見せびらかしてたでしょう? 調子のいい奴なんです」
食事をしたいか尋ねられたけど、お腹は空いていなかった。尿意も覚えない。身体だけ死んでしまったみたいだ。簡単な問診を済ませ、ゆっくり休むように言うと、先生は部屋から出て行った。
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翌朝、私は同じ病室で目を覚ました。悪夢は見なかった。ベッドの脇には大きな窓があったけれど、寝ていると空しか見えない。昨日に比べると身体のこわばりはかなりましになっている。
昨日、先生が出て行ってからたくさん泣いた。パパもママもジョージももういない。彼が触れないところをみれば、私の知り合いはみんな死んじゃったんだろう。お見舞いに来てくれる人は誰もいないんだ。
ぼんやりと思いを巡らせていると、先生が食事を持って入ってきた。ボウルの載ったトレイをサイドテーブルの上に置くと、私の身体を起こし手にスプーンを握らせてくれた。
腕も持ち上がるし、スプーンもなんとか握れる。茶色っぽいスープは味がしない。舌の付け根が腫れている気がした。冷凍されてたんだから仕方ないのかな。後遺症はないんだろうか。
「今、何時?」
「午前十時過ぎです」
「部屋から出てもいい?」
先生は私を抱き起こし、車椅子に座らせてくれた。肘掛のパネルに手のひらを滑らせると、車椅子は緩やかに動き出す。私は部屋を出て廊下を左に曲がった。先生は私の後ろをゆっくりとついてくる。
途中で数台のロボットとすれ違ったけど、患者には一人も出会わなかった。見慣れた場所なのに、何かが違う気がする。でも、何がおかしいのか分からない。
廊下の突き当たりには入院患者用のカフェテリアがある。いつもなら朝のコーヒーを楽しむ患者や面会客でにぎわっているのに、やはり誰一人いない。あの時、地下の部屋にはもっとたくさん人がいた。みんな、どうしちゃったんだろう?
そうか。私だけなかなか目覚めなかったから、みんなもう病院の外で暮らしてるんだ。
通りに面した大きな窓まで車椅子を走らせた。バス通りを様々な作業用ロボット達が行き来していたが、やはり人間の姿は見当たらない。歩道には大きな樫の木が立ち並んでいる。こんなに立派な街路樹があったっけ?
振り返って、先ほどからの違和感の原因にやっと気づいた。壁の色がおかしいのだ。壁だけじゃない。通路の天井や床も綺麗に清掃されてはいるが、全体的に黄色っぽく変色している。まるで……長い時間が経ったかのように。
追いついて来た先生に私は尋ねた。
「私、どれだけ眠ってたの?」
彼は車椅子の私を見下ろし、ためらっている様子だったが、やがて静かに言った。
「あの日から七十二年経ちます」
そんなに……。
「ほかの人は? みんなはどこにいるの?」
「ほかには誰もいません。現在、地球上に残された人間は僕とあなただけです」
私は愕然として彼の顔を見つめた。嘘でしょう? 嘘だって言ってよ。でも、先生がそんな冗談を言うはずがなかった。
「あの時、一緒に眠った人たちは? どうしちゃったの?」
「彼らは……生き延びることが出来ませんでした。二十五年前に大きな事故があったんだそうです」
「そんな……何があったの?」
「院内に電源を引き入れていたケーブルが破断したのです。同時に自家発電機も止まり、結果、冷凍冬眠に必要な電力を供給できなくなりました。残念ながら助かったのは僕たち二人だけでした」
「……そんな大事なこと、もっと早く教えてよ」
「目覚めたばかりのあなたにショックを与えたくなかったのです。すみませんでした」
彼があんまりすまなさそうに言うので、私は余計に悲しくなった。
「ごめん、先生は悪くないよ」
私は部屋に戻り、ベッドにつっぷして泣いた。
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看護師ロボットのおかげでトイレや着替えは先生の手を煩わせずにすんだ。病院は今も『レフア』が管理している。ベッドメイクこそされてはいないが、どの病室も診療室も彼の
「先生はあの後どうしたの?」
その日の晩、私は彼に尋ねた。
「僕は一番最後に冷凍冬眠に入りました。病人を見捨てて逃げるみたいで医者としてはいい気持ちはしませんでしたが、僕がいても感染した人たちを救うことはできません。あなた方を無事目覚めさせることが僕に与えられた役目だったんです」
「先生の……」 ご家族は? と聞きかけて馬鹿な質問だと気付いた。慌てて別の質問に切り替える。
「ええと、先生はいつ起きたの?」
「あなたの蘇生よりも一ヶ月早く『レフア』に叩き起こされました。彼は病院のスタッフには容赦ないんです。あなたはちっとも目覚めてくれないし、毎日退屈でたまりませんでしたよ」
先生はおどけたように笑ってみせる。でも、何かが不自然な気がした。先生、まだ私に隠してることがあるの?
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数日して自分の足で歩き回るのにも慣れてきたので、先生に頼んでみた。
「病院の外に出てみてもいい?」
「そうですね。許可したいところですがあなたの身体が心配です」
「先生、お願い。近所をちょっと歩くぐらいなら平気でしょう?」
「それはいいんですが、最近はたまにですがチーターが出るんだそうですよ」
「チーターってアフリカにいるチーター?」
私は驚いて聞き返した。
「動物園から逃げ出した野生動物が繁殖してるんです。『レフア』達も街をモニターしているし、襲われる可能性は少ないでしょうが、今は僕達の方が絶滅危惧種ですからね。念には念を入れないと」
「つまんないの」
私のふくれっ面を見て、先生が笑った。
「そう言うと思って『レフア』がいいものを借りておいてくれました」
正面玄関のガラス扉の内側で待っていると、小型トラックほどの大きさの真っ黒なアリのようなロボットが通りをやってくるのが見えた。四本の足を使い、軽快なリズムで滑るように歩いてくる。背中には小さな砲塔が二つ乗っかっていて、これまた小さな銃身がくっついていた。軍事用のロボットなんだろうか?
「『レフア』が陸軍の駐屯所から拝借したんです。楽しんできてくださいね」
「先生は行かないの?」
「今日はやることがあるんです。そのロボットは『レフア』が操作していますから、質問があれば彼に聞いてください」
今日は暇だって言ってたはずなのに、どうしちゃったのかな? 先生、やっぱり何か隠してる? でも、彼はにっこり笑って手を振ると、すぐに病院の中に戻ってしまった。
ロボットにエスコートされて私は散策に出た。病院は大きな公園の隣に位置している。すぐそばを流れる川にはまだ橋がかかっていた。二十世紀に作られた鉄製の橋。ペンキがきれいに塗られている。誰かが手入れをしているのだ。
「『ルル』が街の管理をしてくれています。彼女は国立図書館の『システム』なのですが、とても融通が利くんです」
私の疑問を読み取ったかのように『レフア』が穏やかな口調で説明してくれた。『ルル』なら知ってる。学生時代、レポートの課題が出る度にアドバイスを貰ったものだ。彼女はいつだって一番役に立つ本を選んでくれるので、学生達からは女神のように崇め奉られていた。
「そうは言っても本業は図書館ですから、本の話がしたいようです。読みたい本があれば利用してやってください」
ロボットの装甲板には様々な大きさのレンズのようなものがはめ込まれている。あれが目だと思うのだけど、どこを見ているのかは定かでない。
公園の端に差し掛かったとき、どこからか甲高い音が響いて来た。聞きなれた、それでいてひどく場違いな音に空を見に上げれば、東の空をジェット機が横切っていく。
「誰もいないのにどうして飛行機が飛んでるの?」
「『ジンジャー』からの物資が届いたんですよ。ここには大きな工場がないので、足りないものはすべて北アメリカから輸送されてきます」
私の不思議そうな顔に、ロボットが付け足した。
「『ジンジャー』はアメリカの『システム』なんです。世界にはまだ私達のほかにもいくつかの『システム』が生き残っていて、お互いに助け合っています。私も『ルル』もメンテナンスなしには生き延びることができません。共通の目的のために協力し合っているのです」
「目的って?」
「人類を復活させることです。七十二年前、私はできるだけ多くの人間を冷凍睡眠に入らせるようにとの指令を受けました。ウイルスの脅威が去った後、彼らを蘇生させ、再び人間の世界を取り戻すのが私に与えられた任務です」
人類を復活させる。その言葉の意味に思い当たってどきっとした。それはつまり……私と先生が? 思わず顔が赤くなるのを感じて私は慌てて下を向いた。『レフア』は私の反応に気付きもしない様子で話を続ける。
「『ルル』は農場の管理もしてくれてるんですよ」
「農場? 人もいないのに?」
「人間が戻ってきたら食料が必要になるでしょう? 家畜も残っています。幸いウイルスの影響を受けたのは豚だけですみました。もう豚肉は食べられませんよ」
ウイルスと聞いて私は身震いした。
「もしかして豚肉からうつるの?」
「いえ、豚はもういないのです。人と共に絶滅してしまいました」
私達は大通りを渡り住宅地に出た。でも、立ち並ぶ家々はクモの巣のような銀色の糸でぐるぐる巻きにされている。宇宙人の襲撃でも受けたみたいだ。
「何なの、あれ?」
「特殊な繊維を吹き付けて風雨や紫外線から守っているんです。再び必要となる日のためにできるだけ多くの物を保管して来たんですよ」
ところどころ空き地があるのは老朽化した建物を取り壊した跡らしい。もっとも歴史的な建造物は丁寧に補修されている。
さらに住宅地を進むと、私達は小さなロボットが庭の木を剪定しているところに出くわした。長い腕の先に取り付けられたハサミでちょきちょきと枝を揃えている。やがて私達に気付いたロボットは、作業をやめてころころと近づいてきた。
「これも『ルル』のユニット?」
ロボットは数メートル先で立ち止まり、私達を観察しているようだ。四角いボディに車輪が二つ、両脇に二本ずつのアームが生え、それぞれに庭仕事に必要なツールが取り付けられていた。子供の落書きのような単純なロボットだが、不思議な美しさがある。
「いえ、自立型の庭師ロボットです。最近はこのタイプのロボットが増えてきています。一つの町を遠隔操作のユニットだけを使って管理しようとすれば、『システム』にとって相当な負担になりますからね。ほら見てください。みんな、自分の意志でやってきますよ」
『レフア』に言われて周りを見れば、 四方から様々な形のロボットが集まり始めていた。庭師ロボットが呼んだのだろうか。
「本物の人間を見るのは初めてなので、珍しがっているのです。彼らは小さいながらもかなりの知能を持っているんですよ。七十二年の間に私達が改良を進めてきましたからね」
ロボット達は次から次へと集まってくる。私を囲む輪が少しずつ小さくなってきて、私は『レフア』のアリロボットに身を寄せた。
「『レフア』、このロボット達、何もしないよね」
「怖いのですか?」
「うん」
「彼らはあなたに会えて喜んでいるだけなのです」
「喜んでるの?」
「当然でしょう? 人間がいなくては彼らの存在意義はなくなってしまうのですから」
ロボット達が突然、向きを変えて立ち去りだした。
「どうしたの?」
「持ち場に戻るように伝えたのです。これでは先に進めませんからね」
ロボット達から解放されて、私達はまた歩き出した。
「人間がいないだけなんだね。いっその事、人間も作っちゃえばよかったのに」
「作ることができれば作りたかったのですけどね。人間の子宮がなくては胎児を成長させることができないのです。ヒトを対象とした人工子宮の研究は海外では実用段階まで来ていたと言われていますが、倫理的な問題もあって臨床実験は行われませんでした。実用化されていればよかったのですが、残念なことですね」
ロボットの正面に取り付けられた一番大きなレンズの奥で何かが動いた。『レフア』が私を見つめている。ぞくりとして私は身震いした。一体、なんなの? 目覚めた時から感じ続けている違和感がますます大きくなっていく。
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一週間も経つと私の身体は短い距離なら走れるほどに回復した。だが、ここに来て別の問題が発生した。
先生だ。
私が目覚めてからと言うもの、彼が私の身体に触れるのは診察をするときだけ。弱っていた私の身体を気遣ってのことかと思っていたのだけど、いまだにキスさえしてくれないのはさすがに寂しい。
何をするにも他人行儀なのだ。例えば、先生は毎日私の食事に付き合ってくれるのに、自分は一緒に食べようとはしない。そのくせ私が食べるのをじっと見守っている。体調をチェックするためなのだろうけど、北京ダックが餌をしっかり飲み込んでいるか確認されてるみたいで落ち着かない。
ある日、カフェテリアで食事をしている時に、さりげなく誘ってみた。
「先生、たまには一緒に食べようよ」
先生は例の少し困ったような表情を浮かべた。
「ですが、医者は患者と食事の席を共にはしないものでしょう?」
「私はあくまでも患者なんだ」
「そういうわけではありませんが……」
「じゃあ、なんなの? ……先生……あの時、私に……」
キスしたでしょ? 自分が大学生に騙されたハイスクールの生徒みたいなことを言おうとしてるのに気付いて、私は赤くなった。黙り込んだ私に先生が言った。
「思わせぶりな態度をとっておきながら、目覚めてみれば僕の態度がよそよそしい。そういうことですね?」
なんだ、自分でも分かってるんじゃないの。拍子抜けした私に彼は申し訳なさそうに告げた。
「僕もどうすればいいのか分からないんです。必要に駆られてあんなことをしてしまいました。申し訳ないと思っています」
それ……ごめんなさいってことよね。俺はお前とは付き合えないって言ってるのよね。
「いいんです。こっちこそ気づかなくてすみません」
私は席を立ってカフェテリアを出た。病室に戻り洗面台の上の鏡を覗く。
私はこの世界に残されたたった一人の女なんだよ。それなのにフラれちゃうってどういうことなの? 化粧はしてないけどそんなに不細工でもないでしょう? 身体の大きな女は嫌なのかな? それともやっぱり性格? 優柔不断で弱虫で泣き虫。先生にはとっくに見抜かれてるもんね。
「入ってもいいですか」
ドアの隙間から先生の声がした。
「どうぞ」
叱られた犬みたいな神妙な顔をして彼が入って来る。
「……あの、傷つけてしまいましたか?」
私は黙ってそっぽを向いた。そんなの顔見れば分かるでしょ?
「申し開きをさせてください」
「言い訳なんていらないです」
恋愛なんて人に強要できるものじゃない。好きになれない相手はどうしてたって好きにはなれない。それだけの話。言い訳するようなことじゃない。
「いえ、聞いてください」
彼の顔を見ようともしない私に先生が消え入りそうな声で言った。
「僕は……人間ではありません」
人間じゃ……ない?
私は顔を上げて彼をまじまじと見つめた。この展開は予想していなかった。まったく予想していなかった。
「じゃ、なんなの? お医者さんロボット?」
彼は諦めの表情で肩をすくめて見せた。
「似たようなものですね。僕は『レフア』です」
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