第2話

 白い防護服で身を包んだ人たちが、私を大きな車に押し込む。何を聞いても曖昧な返事しか戻ってこない。車内はすでに先客でいっぱい。近所の農場の人達を拾い、車は病院へと向う。途中、助けを求める人が駆け寄ってきたのに、車は止まらなかった。彼らが探していたのは確実に感染していないと分かる人間だけ。


 道端で赤い液体を吐いている人がいる。倒れた子供を揺さぶっている人がいる。凄惨過ぎて見ていられない。私は膝を抱えて床に座り込んだ。助けて。だれか助けて助けて助けて……



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 自分の寝室で目を覚ました。水でもかぶったかのように体中が濡れている。絶望に飲み込まれそうになって、急いで枕元の携帯に手を伸ばし、躊躇した。両親はオーストラリアの祖母を訪問中。ジョージは高校のラグビーの合宿で週明けまで戻らない。


 こみ上げてくる嗚咽を押さえつけて、私は登録したばかりの名を指でなぞった。


 先生、助けて。


「ヘザー? どうしました?」


 彼の声は眠たそうだ。今が何時なのかすっかり忘れてた。


「ごめんなさい。時計、見てなくて」


 慌てて切ろうとすると彼が言った。


「今から行きます。住所は?」


「いえ、いいんです」


「こんな時間に電話をくれるなんてよほどのことなんでしょう? 教えてくれないのだったら病院で調べるまでです」


 先生、それ職権乱用。私は住所を教え、十分後、彼の車が庭先に滑り込んだ。


 玄関を開けた私の顔を見るなり、彼は私を居間のソファに座らせた。キッチンでお茶を入れ、私に熱いマグを手渡すと、自分も隣に腰を下ろす。


「夢を見たんですね?」


 私はうなずいた。


「僕を呼び出したのは医者として? それとも友達としてですか?」


「分からない。先生なら助けてくれると思ったの」


 私は力なく首を振った。こんな時にどうしてそんなことを聞くんだろう? 


「それなら、今夜は友達として助けに来たという事にしてください」


 彼は長い腕を伸ばすと私を優しく抱き寄せた。


「医者が患者にこんなことをしたと『レフア』に知れれば、僕は首になります」


 私の頭は先生の胸にしっかりと押し付けられていた。彼の鼓動が響いてくる。彼のぬくもりが伝わってくる。どうしてこの人といると、こんなにも安心できるんだろう。ずっとずっと昔から彼を知っていたような気がする。彼といれば何もかも大丈夫って気持ちになれる。


「どうですか? 少しは落ち着きましたか?」


 いつの間にか震えは止まっていた。私が彼の顔を見てうなずくと、彼も少し照れたように微笑んだ。


「誤解がないように言っておきますが、誰にでもこんなことをしてるわけじゃないですよ」


「分かってる。ありがとう、先生」


 また心臓がどきどき言い出したけど、これは悪夢のせいじゃない。


「こんな時間に呼び出してごめんね」


「嫌われてないって分かってよかったです」


「嫌う? 先生を?」


「しつこく誘う奴だと思われてたら嫌でしょう? だから電話を貰って嬉しかったんです」


 どこの運命の女神が微笑んでくれたのか、どうやらこの人は私に好意を持ってくれているようだ。


「明日も仕事ですね。もう眠った方がいいですよ」


「眠るまでいてもらってもいい?」


 一人残されるのは不安だったから、少しだけ甘えてみた。恐ろしい夢も悪いことばかりではないらしい。



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 私達を乗せた病院車両は、病院の本館から少し離れた小さな建物に乗り入れ、そこで何度も洗浄された。やっと車から降ろされると私達はほかの車から降りてきた人たちと合流し、大きなエレベーターで地下深くにある薄暗い部屋に連れ込まれた。


 そこが冷凍冬眠のための施設だと知らされると、人々の間にどよめきが走った。よく通る大きな声で説明しているのは私の主治医、ドクター・ティレットだ。現在のところ治療法は見つかっていない。ワクチンが開発されるまでにはまだ時間がかかるだろう。それまでは感染の心配のない場所に隔離するのが一番安全だ。


 時折はさまれる質問にも、素人でも分かる易しい言葉で答えを返す。その場の誰も反論はしなかった。あの地獄から逃れられる方法があるのなら、悪魔にだって魂を渡すだろう。


 着ていた服を全て脱いで、ぶよぶよとした手触りの白いスーツを身につけると、円筒型のロボットがマニピュレーターを使ってファスナーを閉めてくれた。目と鼻の周りに残されたわずかな隙間からしか外は見えず、呼吸が苦しくなる。


  棺おけのようなクレイドルに横たわった私を、先生が上から覗き込んだ。先生、私、助かるの? 私は尋ねた。大丈夫。必ず助けます。彼は私の手を握り、ぎゅっと力を込める。また会えるね。約束だよ。ええ、約束しますよ。


 天井に張り巡らされたパイプは血管みたいで気味が悪い。何かがぶんぶんと空気を震わせている。急激に意識が薄れていく。先生が何か言ってる。でも、私にはもう理解できない。なにもかもが霞んでいく……



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「ヘザー? 大丈夫ですか?」


 誰かが私を優しく揺すぶる。


 ああ、先生だ。まだここにいてくれたの? 先生はベッドの上に腰を下ろすと、私の体を自分の膝の上に抱えあげた。こんなに大きな体つきなのに子供みたいで恥ずかしい。でも彼に抱きしめられていると激しい動悸も少しずつ収まってくる。


「また……あの夢ですか?」


 耳元で彼が尋ねる。


「うん」


 私は彼の顔を見つめた。さっき夢の中で見たばかりの顔を。


「先生……先生もあそこにいたね」


 ブラインドの隙間から夜明け前の光が差し込んでいる。彼の表情は逆光で見えない。


 あれは夢じゃない。あれが私の想像力の産物であるはずがない。全て……本当にあった事だ。でなければ、あの生々しさをどうやって説明する? 眠る前に飲まされた薬品の味もまだ口の中に残っている気がする。


 でも、それなら、ここにいる私は何なの?


「先生、私の頭、おかしくなっちゃったのかな?」


 先生はちょっぴり寂しそうに笑って、首を横に振った。


「いえ、あなたはおかしくありません。あれは夢ではないんです。あなたは過去の出来事を悪夢として再体験したんですよ」


「じゃあ、これは?」


 私は部屋の中をぐるりと見回した。


「これは現実の世界ではありません。僕達が作り出したものです」


「作り出した? そんな馬鹿な……」


「嘘だと思うのなら外を見てください」


 私は先生の膝から滑り降りてブラインドを上げた。午前六時だというのに強烈な光が差し込んできて目が眩む。だが、それよりも私を驚かせたのは外の光景だった。


 私はとても高い場所にいて、はるか彼方まで広がる海原を見晴らしていた。小さな波がきらきらと輝き、水面近くをカモメが舞っている。一羽のカモメがこちらに向きを変えたかと思うと、見る見る大きさを増した。違う。あれはカモメなんかじゃない。皮翼のぴんと張った翼をびりびりと震わせ、緑に輝く巨体を翻すと空高く舞い上がる。


 あれは……ドラゴン?


「すみません。いくらなんでもやりすぎですね」


 先生が眉を寄せた。


 なんなの? どういうことなの? 


 世界が足元から崩れていく。めまいを感じて私はベッドに座り込んだ。彼は隣に座り、気遣うように私に寄り添った。


「あの日からあなたはずっと眠っているんです」


「冷凍……されたままなの?」


「いいえ。あなたは一ヶ月前に蘇生させられました。でも、目を覚まそうとしないのです。植物人間のように昏々と眠り続けています。僕達には原因が分からない。だから、僕があなたを起こしにきたのです」


「私の家族は? どうなったの?」


「残念ですが、ご家族は助かりませんでした」


 聞かなくっても分かってた。あの日、彼らは街にいたんだ。まだ間に合うと思って慌てて食料の買出しに行った。そしたらママから電話があった。家にいろって、絶対に家から出るなって。彼らは街で感染者に出会ってしまった。だから自分たちも感染したと思って病院に向かったんだ。


「私……目を覚ましたくなんかない。このままじゃ駄目なの? あれが夢だって信じてちゃ駄目なの?」


 家族の死と、現実と、向きあう勇気なんてない。


「このままではあなたの身体が萎縮してしまいます。生きたいと望むのなら目を覚ましてください」


「世界……世界はどうなったの?」


「あなたの知っていた世界とはずいぶん変わってしまいました。でも、あなたがいる限り世界は終わりません。後生ですからどうか目覚めてくれませんか」


「でも……怖いよ」


 先生は私を抱き寄せた。灰色がかった青い瞳がゆっくりと私に近づいてくる。


「僕があなたを守ります。何も恐れることはありません」


「本当に?」


「ええ、どうか僕を信じてください」


 彼は私にキスをした。そして……

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