鐘が鳴ります
増田朋美
鐘が鳴ります
鐘が鳴ります
寒い日だった。とにかく寒い日だった。本当に冬らしいと言えばその通りなのかもしれない。そうなってくれたらある意味うれしいのであるが、それでは、逆に冬は寒くて、出かけるのにも、躊躇してしまうくらいである。
その日、杉ちゃんは、いつも通り水穂さんの世話をするために、製鉄所に行った。最近は、製鉄所の利用者も以前と比べて大幅に減っていた。まあ最近は、大体の人が、外出を自粛している人が多いので、製鉄所を利用する人が少なくなったのも、理由のひとつでもあるが、この時期は、受験とか、採用試験とか、そういうことがあるので、みんなそんな理由で製鉄所にやって来ないのである。そのような中で、杉ちゃんは、一生懸命水穂さんの世話をしているのであるが、手伝いに来る利用者はほとんどいなくなっている。唯一手伝ってくれるとしたら、花村義久さんが、やってきてくれることだけであった。
「ほら、食べろ。しっかり、食べないと、冬を乗り切れなくなってしまうぞ。」
と、杉ちゃんに言われて、水穂さんは、雑炊を口にしてくれた。じゃあもう一回食べろと言って、杉ちゃんが再び食べさせる。そして三度目にそれを食べさせると、もういらないと言って、顔をよこにむけてしまうのであった。
「ほら、もう一口食べてくれ。雑炊二口では栄養にならん。ちゃんと完食するまで食べてくれよ。」
と、杉ちゃんが、もう一回おさじを口元へもっていくが、水穂さんは受け取ろうとしなかった。
同時に、お茶を持ってきてくれた、花村さんが、水穂さんに、
「杉ちゃんの言う通りですよ。このままだと、どんどん衰弱して、倒れてしまいますよ。人間は、動物ですからね。食べ物をとって、栄養を取らないと、退化しますよ。」
というのであるが、水穂さんは、相変わらず食べないのであった。
「困りましたね。食べないと、体力もつかないんですけどね。」
「ほんとだほんとだ。もうちょっと、きついこと言って、説得してやってくれよ。」
杉ちゃんと花村さんがそういうことを言っていると、
「こんにちは、右城先生、いらっしゃいますか?」
玄関先から、声がした。今時誰だろうと杉ちゃんと花村さんが顔を見合わせていると、上がりますよと言って、廊下を歩いて、四畳半に二人の人物がやってくる。やってきたのは、ピアノ教師として活動している、桂浩二と、その生徒だろうか、一寸白髪のある、中年の男性であった。
「先生、今日は。今日は寒いですねえ。寒い中、皆さん大変な思いをしていると思いますから、先生も頑張ってご飯をたべてくださいね。それに、花村先生も一緒だったんですね。今日はお手伝いですか?寒い中、いらしてくれて、ありがとうございます。」
「浩二君、君も口が旨くなったな。」
と、杉ちゃんが言った。
「まあいい、用件を言ってくれ。」
「はい、要件というのはですね、彼の演奏を見てやってほしいんです。彼は、生後すぐにかかった感染症の影響で、現在言葉は出ませんが、演奏技術はかなりあると思います。」
浩二は、隣にいた中年男性の顔を見ていった。
「で、彼の名前は?」
と杉ちゃんが言うと、
「ええ、石破良太さんです。僕のピアノ教室に通い始めて一年になります。子どものころ、ピアノを習っていたそうですが、大人になって、もう一度ピアノをやりたいということで、インターネットで僕の教室を見つけてきてくださって、僕のところに通い始めて、一年になります。其れで、今日は彼の演奏を聞いていただきたくて、それでここへ連れてきました。」
と、浩二はそう説明した。
「そうですか。其れなら、ぜひやってみてください。そういうことなら、僕も協力しますから。」
と、水穂さんが、そういったので、浩二はありがとうございますと言って、その石破さんという男性に、ピアノの椅子に座るように促した。
「それでは、演奏していただけますか。曲は、ラフマニノフの、鐘と呼ばれている前奏曲です。」
と、浩二が言うと、石破さんは、ふうと息を吸って、ラフマニノフの鐘を弾き始めた。
「どうもラフマニノフの鐘は、希望の鐘とか、そういうことではなさそうですね。何だか絶望的で、怒りの鐘のように聞こえます。」
と、花村さんがそっとつぶやいた。この曲自体は、あまり長い曲ではないので、三分程度で終わってしまう曲であるが、大変な重たい曲であると言える。
杉ちゃんたちは石破さんが、演奏をし終えると、にこやかに笑って拍手した。石破さんは、深々と頭を下げて、お礼をした。
「素晴らしい演奏です。邦楽にはない、重々しさがありますね。」
と、花村さんは、邦楽家らしい感想を言った。
「そうですね。この曲は、非常に演奏が難しいのですが、人気のある曲でもありますよね。」
水穂さんもそういうことを言っている。
「確かにすごいなあ。でも、何だか、一寸重たすぎて、お正月には、ふさわしくないよ。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「まあ確かにそうかもしれません。良かったでしょ。彼の演奏。」
浩二がそういうと、
「ええ、確かに技術的にも優れていますし、音楽性も非常に優れていると思います。でもどうして、僕たちのところに来たんですか?何かコンクールでも出るとか?」
水穂さんが聞いた。
「いやあ、コンクールとかそういうものに出たということはないんですけどね。ただ、彼がやっと、言語障害による、長期引きこもりから脱出できてくれたので、その背中を押してやってあげようとしてやってるだけです。ピアノ教室というのは、単にピアノが好きなだけじゃなくて、ピアノを通して、社会に出るための足掛かりになってもらうようにしたいと思いまして。」
と、浩二は、にこやかに笑った。
「そうですか。いい取り組みじゃないですか。最近は、私のところにお箏を習いたがる人も、そういう事を狙ってくる人もいますよ。音楽教室が、そういう道具になるという、新しい取り組みでもありますよね。」
花村さんがそう付け加えた。
「いずれにしても、ラフマニノフの鐘は気に行ってくれましたでしょうか?」
と浩二が聞くと、
「おう。ただ、もうちょっと、明るい曲のほうがよかったなあ。」
と、杉ちゃんが言った。
「ああ、わかりました。今度は、もっとあかるい曲をやらせます。今回は、彼が、やりたいというのでやらせてみたんですが、少々重すぎるのは反省しています。」
と、浩二は、急いで頭を下げる。
「まあいずれにしても、彼の演奏はうまかったですよ。頑張ってください。」
と、水穂さんは、浩二と、ピアノの椅子に座っている、石破という男性を見て、静かに言った。ちょうどその時。
「今日は。ちょっとお尋ねしてもいいでしょうか。」
と、いきなり、聞き覚えのない声が聞こえてきたので、杉ちゃんたちは、はあと顔を見合わせた。
「一体誰だろう。」
と、杉ちゃんたちが、そういっていると、
「警察ですが、一寸お尋ねしたいんですがね。あの、こちらに、口のきけない、石破良太さんという男性はいますよね。」
「ああいるけどどうしたの?ようがあるなら入ってきてくれ。」
聞き覚えのない声はそういうことを言っているので、杉ちゃんがそう返した。
「そうですか。じゃあ入らせていただきます。」
と、いいながら警察官が二人入ってくる。そして、驚いている石破さんの顔を見て、強引に言った。
「石破良太さんですね。あの、先日起きた、殺人事件の事でちょっと教えてほしいことが在りますので、署まで来ていただけますかね?」
「ちょっと待て!」
と杉ちゃんがデカい声で言った。
「いきなり誰かにお話を伺うというのは、警察と言っても強引すぎます。事件の事をちゃんと教えていただけないでしょうか。」
「ええ、三日前、富士市内の公園の中で女性が死んでいるのが見つかりました。凶器らしきものはありませんでしたが、女性は、後頭部を強打しているので、殺人事件として捜査しています。それでですね、こちらにいる、石破良太さんが、被害者の女性、石野冴子さんと一緒にいたところを、近隣の住民が目撃していたようですから、その時の話しをお伺いしたいと思いましてね。」
と、警察官は杉ちゃんの質問に答える。
「石破さん、ここにいても、意味がないでしょうから、署まで行きましょうか。」
別の警察官はそういうことを言った。石破さんは、手を動かして、何か話しているのだが。
「そんな動きをしてもわかりませんよ。署に行ったら、ちゃんと筆談で話してもらいますからね。」
警察官は、そういうことを言うが、
「ええ。私は確かに、公園に行きました。でも、彼女を殺害には至っておりませんと言っています。」
と、水穂さんが通訳した。いつ、彼は手話の知識を得たのかは不明であるが、水穂さんには、そういう知識もあるらしい。
「そうですか。それなら、あなた、通訳をお願いします。じゃあ、聞きますよ。あなたはなぜ、公園に行ったんですかね?」
と、警察が聞くと、石破さんはまた、手を動かした。耳が遠いということではないが、言葉が言えないので、理解のある人であれば、こういう手段でしゃべっていると浩二は説明した。
「公園に行ったのは、石野冴子さんの娘さんである、石野和江さんが、うちの息子にけがをさせたので、もうこういうことをしないように注意をしてほしいと訴えるために行きました、と言っています。」
水穂さんは、石破さんの動きを忠実に通訳する。
「石破さん、石野和江さんと、あなたの息子さんである、石破雄太くんはどういう関係だったんですかね。」
と、警察官が聞くと、
「単なる、クラスメイトですよ。同じ小学校に通っている、同級生です。」
と浩二がそう説明した。
「息子さんというのは、どういうひとだったんですか?」
花村さんが浩二に聞くと、
「ええ、とても親思いで、しっかりした子供さんでした。性格的には地味であまり目立たない子でしたけど、お父さんがピアノをやっているというところから、自分もピアノをやってみたいと思っていたようです。」
と、浩二はそう説明した。
「それで、石破雄太くんが、石野和江さんに怪我をさせられたということは確かなんでしょうか?」
と、警察官が言った。石破さんはまた何か手を動かしている。
「はい。私は、担任の先生にしか話を聞いていませんが、うちの雄太は、私がしゃべれないことを、和江さんにいろいろ言われていたようで。其れで、雄太が、和江さんに向っていったそうなんです。其れで、和江さんが反撃して、雄太を箒でたたいたとか。其れで、うちの雄太がけがをしたと聞いているのですが、でも。」
水穂さんは石破さんの話しを通訳した。しかし、大分疲れてしまった顔つきをしているので、
「水穂さん、疲れたならもう休みましょう。」
と、花村さんが言った。
「失礼ですけど、病人の前で長話をするのはやめていただけませんか。そのあと通訳が必要なら、私がします。」
「おう。僕が、水穂さんを寝かしつけておくから、花村さんは、石破さんを手伝ってあげてね。」
直ぐに杉ちゃんが付け加える。
「じゃあ石破さん、行きましょう。」
警察官たちは、石破さんを無理やり立たせて、部屋を出て行ってしまった。花村さんも、通訳をお願いしたいということで、石破さんと一緒に出て言ってしまった。
「驚きました。石破さんが、そんな事件に関与していたとは。」
と、浩二は、大きなため息をつく。
「まあ、人には、話しておきたい秘密なるものがあるんだろうけど。石破さんの場合、割と秘密が露呈しやすいのかもしれない。」
と、杉ちゃんは腕組みをした。
「でも石破さんは、ああいう風に自分の意志を伝えるのには、それを理解してくれる人でないと、出来ませんよ。ですから、彼が単独で、殺人をするということはないと思います。だって、誰もが手話を理解しているというと、そうではないでしょう?」
浩二は、思わず、気が立ってしまって、そういってしまったが、
「まあ確かにそうだけどねえ。意思が通じなくて、殺人をしたのかもしれないよな。それは十分あり得る話だぜ。」
と、杉ちゃんに言われて、浩二はすぐに意欲をなくしてしまった。と同時に、水穂さんがせき込み始めたので、杉ちゃんは、ちょっとごめんなと言って、急いで水穂さんを布団に寝かせてやり、かけ布団をかけてやった。
そういうわけで、石破さんの訪問はおかしなものになってしまったが、この事件はすぐに、マスコミの知るところになった。浩二が、家に帰って、テレビをつけてみると、ニュース番組をやっていた。疲れた顔をしたアナウンサーがこういうことを言っていた。
「次のニュースです。静岡県富士市の公園内で、女性が殺害されているのが見つかった事件で、警察は
、この女性の娘さんの同級生の父親である男性から、事情を聴いています。しかし、この男性が、言葉をまったく話せないことから捜査は難航を極めており、女性を殺害した動機が見えてこないという展開になっています、、、。」
偉い人たちが、そのアナウンサーの発言について、何か意見を述べているが、浩二はこれ以上見たくなくて、テレビを消した。絶対に石破さんではないはずだ。あの人はラフマニノフの鐘をああいう風に弾いてしまうほどの演奏技術と感性がある人だ。だから、絶対に犯罪者にはならない。確かに、言葉がしゃべれないので、何か不自由になってしまうこともあるだろう。でも、彼が意思が通じないあまり、殺人を犯すなんてことは、きっとない。
浩二は、そう頭の中で考えながら、その日を終えた。
その翌日。いつも通り、杉ちゃんは、水穂さんにご飯をたべさせていた。なんとなく、浩二はぼやぼやした気持ちがあって、製鉄所に来訪していた。杉ちゃんが、一生懸命水穂さんにこれをたべろとご飯をたべさせているのを眺めながら、そのぼやぼやが何だろうかと考えていた。絶対、石破さんは、犯人ではない。だって水穂さんの前で、ラフマニノフの鐘を弾いたんだから。
「今日はなんでここに来たの?」
と、杉ちゃんが言う。浩二は、話してしまおうと思った。でも、杉ちゃんは、石破さんは黒だと思っているようで、
「あの口の聞けない男の事を考えているんだろ?でも、ああいうひとは、口がきけない分、逆上してぅて事もあり得ないことじゃないよ。」
というので、浩二は余計につらい気持ちがわいてきてしまうのである。
「こんにちは。」
と、花村さんがやってきた。
「ああ。花村さん、こんにちは。」
と、杉ちゃんも浩二も急いで挨拶する。花村さんは、部屋に入ってきて、すぐに畳の上に座った。
「花村さん、昨日の事件はどうだった?」
と杉ちゃんが聞くと、
「ええ、どうしても彼女を殺すような動機がなくて、釈放されました。確かに、雄太くんが、石野和江さんにけがをさせられたのは、事実ですよ。彼が公園にいたことは確かに近所のひとに目撃されてはいたそうです。でも、別の住人が、五時の鐘が鳴った時に、女性の叫び声がしたという証言をしたそうでして。それで、石破さんが、公園で目撃されたのは、五時より前だったと裏が取れたのです。」
と、花村さんは淡々と答える。
「そうだったんですか。僕も、それを聞いて安心しました。多分きっと、何かの間違いだとは思ってましたよ。石破さんは、あんな演奏をするんですもの、人を平気で殺害するような人じゃありませんよ。」
と、浩二は、大きなため息をついた。
「良かったね。浩二君。」
杉ちゃんが彼にいう。
「でも、もしかしたら、彼に容疑を警察は押し付けようとするかもしれません。そういう障害が在ったり、経済的に不利だったりすると、そういうひとに、押し付けて、解決ということにしようということになりますからね。其れは、僕も何回か、聞いたことが在りますし。」
と、水穂さんが一寸不安そうに言った。
「まあ確かにそういうケースも昔ならあったかもしれませんね。でも、今の警察は、すくなくとも、そういうことはしないと思いますよ。日本人と言われる以外の人もたくさん日本にいる時代でしょ。だから、そこを覚えておけば、石破さんは大丈夫だと思います。」
と、花村さんが水穂さんにそういったため、水穂さんは黙ったが、でも何か不安そうな表情だった。
「まあ、日本の警察というか、そういうところを信じてみるんだな。そういうところ、馬鹿にするやつは、たぶんいないってな。」
杉ちゃんだけがカラカラと笑っていた。すると同時に、花村さんのスマートフォンが勢いよく音を立ててなる。
「はい、花村です。ああ、はい、わかりました。それでは、石破さんではなかったんですね。ありがとうございました。警察の方が、しっかりと捜査してくれたおかげで、石破さんが、変なレッテルを張られることはなく済みそうです。ええ。そんなことをされたら、可愛そうですからね。周りのひとにも、文句を言われていることを、しっかり理解してくださいませ。」
花村さんはそういって電話を切り、
「あの公園の事件の犯人、捕まったようですよ。なんでも、石破さんが公園を出た後、直ぐに石野さんに注意をしようとして、公園にいったそうです。そこで石野さんと口論になって、犯行に及んだということです。」
と、説明した。
「つまり、犯人は誰だったのかなあ。」
と、杉ちゃんが聞くと、
「ええ、石破雄太くんと、石野和江さんの担任教師でした。和江さんが雄太くんに嫌がらせをしていたということで、親御さんに直接注意をしに、公園に行ったそうで、口論の弾みに突き飛ばしてしまったとか。」
と、花村さんは答えた。
「ああよかった。それでは、石破さんではなかったということですね。僕もなんだか肩の力が抜けてしまったような気がしました。ありがとうございます。」
浩二は、やっと体を縛り付けていたものが取れたような気がして、大きなため息をついた。
「よかったね。浩二君。門下生が、何かに巻き込まれるとつらいよね。」
杉ちゃんはそういうと、
「ええ。確かに手を差し伸べてやることも、何かしてやることもできないのですが、やっぱり、人間である以上つながっているわけですから、なんだかほっと致しました。本当に今回は、つらい思いをしました。」
と、浩二は半分涙を浮かべている。
「だって、ラフマニノフの鐘をあんなにうまく弾きこなす人ですもの。きっと何かの間違いだと僕は思ってましたよ。」
そう言っている浩二に、花村さんと水穂さんは、良かったですねえ、とだけ言って、若い人らしいなという顔をした。若い人だからこそ、こういう風に、感情表現ができてしまうのだ。其れは、ある意味うらやましい事だった。
お寺の梵鐘が、いつの間にかゴーンという音を鳴らしていた。ラフマニノフの鐘とは、えらい違いだった。
鐘が鳴ります 増田朋美 @masubuchi4996
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