第24話

 さて、莢子が中の手に戻ってみれば、先程あった本は全て片付けられており、跡形もなかった。

「本、片付けちゃったのね。」

独り言のように漏らしてしまったのだが、先輩はしっかりと答えてくれた。

「申し訳ございません。今一度お持ちいたしましょうか。」

 迷惑が掛かるから迷ったが、出掛けるまでにまだ暫くあると言われては、後ろ髪が引かれてしまう。王からは仮眠を勧められたが、こちらに来てからというもの、気を失ったことも含め、何故か寝てばかりいる。食後だからまた眠くはなるかもしれないが、どうだろう。

 もう直ぐで人間界に戻れるばかりか、逃げ出そうとしている身。こう緊張してきていては寝られもしない。何かで気を紛らわしていないと耐えられないような思いになって、莢子はしぶしぶ頼むことにした。

「では、先程お読みになられていたものの、他の巻をお持ちいたしましょうか。」

 ああ、あの挿絵のある本か。そう思い出していると先輩の声が。

「それとも、同じ本をお持ちいたしましょうか。」

 それは先程、穴が開くほど目を通してしまった。だから続きの方を頼もうとしたのだが、先輩がこう続けたので驚いてしまった。

「我が君が描かれておりましたので、姫様も大層熱く御覧になっておられた御様子。微笑ましい限りにございました。」

 耳を疑った。あのキャラクター一覧の中に、あの王様がっ。けれど一体どのようにデフォルメしたのか、それらしい人物はどこにもいなかったはずである。余りに気になった莢子は不覚にも頼んでしまった。

「さっきと同じ本が見たいですっ。」

 それでも忘れずに他巻も頼んでおいた。王様探しが終わったら用はない。直ぐに別の巻で時間を潰そうと考えたからである。

 ところが先輩には全く別に捉えられてしまった。彼女は感想を述べる。

「やはり左様にございますか。他の巻もお求めになられて、お恥ずかしいのでございますね。そのようにお隠しになられることなどございませんのに。」

 直ぐ様反論しようと思ったが、先輩の行動は早かった。「直ぐにお持ちいたします」と言う言葉通り、その姿はもうない。何と気合の入ったことか、自ら取りに行ったらしい。

 莢子は暫く呆気に取られていたが、羞恥心から身を伏せて呻いた。それを聞き付けた後輩が幕の後ろから、「姫様、如何なされましたか」と聞いてくるので、それすらも出せなくなってしまった。


「姫様、お持ちいたしました。失礼しても宜しいでしょうか。」

 本当にあっという間で、自分なら環条にまで辿り着けていただろうかと莢子は驚いてしまった。許されて入室した先輩の手には、ざっと見、またも五、六冊あった。

「先程の列王名鑑、全六巻でございます。」

 何と、全部持って来たらしい。そこからも先輩の気合が垣間見え、莢子は声もなく何度も頷いた。

 列王名鑑とは、この異界の中でも注目される古今東西の王が載せられている人物図鑑の様なものである。数年に一度刷新されるのだが、「古」と言っても、死んだ者が載せられている訳ではない。命が長いので、古くても生きている者が多数いる。これは生きている王達の人名録である。

 巻数は王の力の序列ともなっており、第一巻に載ることは、中でも大変栄誉あることだった。

 彼女の後ろから、別の側女が机を持って入って来た。すっかり寝ころんでしまうところだった。だらしなく雑誌を読む体で、何時もの習慣が出かかっていた莢子は、それを見て困ったなと思った。

「あの、机まで持って来てもらって申し訳ないんですけど、お布団のあった所で休みながら見せてもらってもいいですか。」

 ところがどうも常識外れだったらしく、先輩は珍しく躊躇った。勿論、表情には現れない。

とこで、でございますか。我が君からの仰せもございましたので、既に整えてございますが…。どうぞ姫様のお心のままに。」

 つまり、またお行儀が悪いと思われたということだ。莢子は紅潮しそうになる頬をこらえるため、言ってしまったものを取り消す余力はなかった。

 先輩は主人の内情に頓着せず、「此れ」と、キビキビした態度で後輩を呼び付ける。彼女らは速やかにやって来て、上の手の幕を開けてくれた。莢子が振り向いて見ると、確かに寝床には先程までは無かった布団が敷かれてあった。

 リラックスするにはやっぱりこれだ。撤回しなくて良かった。現金にも莢子は一転、いそいそと喜んで中に入った。

 後ろからついて入った先輩が、布団の脇に本を置いてくれた。座して告げる。

「全巻をご覧になられれば、外交の際にもお役立ちかと存じます。では、お時間になりましたらお呼びいたしますので、それまで御ゆるりとお過ごしください。」

 幕が下げられ一人きりになった莢子は、遠慮せずにドサリと布団に寝転んだ。そして直ぐさま束になった冊子の中から先程の巻を探した。

 多分一巻目から順に重ねられているのだろう。表紙の色が巻毎に違う。どうやら御殿の王が載っていたのは四巻目だったらしい。探し物ゲームをする気持ちで息巻いてそれを引き抜くと、勢い良く捲った。

 一番初めに描かれた人物像。

「……。」

 う~ん。難しい顔をして考えるが、どこをどう見ても似つかない。何と言ってもこの人物には立派な髭がある。顔もいかめしい。ひっくり返して見てみようか。馬鹿なことを思ったが、止めておいた。

 では、と言って次々にめくってみるのだが、どれもしっくりこない。それでもページに指を一本ずつ差し挟み、数人選んで目星を付けておく。全て選んだ後、もう一度確認した。

 一人目は細面で柳眉をした美男子だ。顔形は違うにも拘らず、全体の雰囲気を評価するならば、この人かもしれないという可能性で選んだ。垂れ目がちではないので決めかねてしまう。とは言え、そのような細部さえ忠実に描写されているのかは大変怪しいところである。

 二人目は賢そうな雰囲気のある、けれども武官の様な凛々しい人物だ。

 これも全体から挙げるなら当てはめてしまえと思えたのだが、太い三つ編みの長い髪を持っている上に、何時もニコニコしているあの王とは雰囲気も違うかなと思われた。これもまあ、人物図鑑に描くということで、力強い表情にしているだけなのかもしれなかったが。

 何せ墨で描かれた人物像は、どれも誇張されているような気がするので、とにかく曖昧なのだ。忠実な人相書とは違って、大衆の興味を引くように多少脚色がなされているのかもしれない。とはいえ、動きもあって、見る分には格好良い。

 それでも敢えて選んだ中のもう一人は、王というには年若く、まるで少年の様に勢いのある姿で描かれていた人物だった。髪が八方に跳ねており、飾りだろうか、細い紐が首の後ろから出ている。元気溌剌そうな印象で、悪戯っ子に見えなくもない。描かれた表情のせいか、目が垂れているとか細かい所は良く分からなかった。 

 そして最後の一人も、同じように年若い姿で描かれているにも拘らず、皮肉めいた表情にされている悪賢そうな人物だった。四巻の最後のページに描かれている。

 白黒なので、色味も良く分からない。だがこの人物の髪の色は真っ黒には塗られていなかった。毛の先に行くにつれ、炭の濃淡が薄まっているように見える。髪形もおかっぱのようだし、やはり全く違うだろうか。引き締まったというよりも細身に見えたが、若さのせいかもしれなかった。

 二人とも年齢の問題で引っかかったし、特に最後の人物は、はっきり言って極悪人にしか見えない。とてもじゃないが一致しない。だが、容姿で言えば綺麗な部類に描かれていたので、一応選んでおくことにした。

 後で答え合わせをしてみたい。けれどそれを聞いたら、王様とは知らずに見ていたことが先輩に明るみになってしまう。悩んだ莢子は、事情を知らないあの老婆にそっと聞いてみよう、と落着した。

 それから巻を戻って、一巻から目を通すことにした。莢子はこの名鑑の順列の意味を知らない。だから一巻目に載っている一番初めの人物が、この異界の頂点に立つ皇神すべらがみであることを知らなかった。

 絵の中の彼は、玉座に座していた。皇神の威厳を表す術がなかったのだろうか、感情が読み取れない表情で描かれている。只静かに、座して前を向いている。お爺さんでもなければ、小父さんでもない。青年然としている。それが却って不気味でもあった。

 しかし、彼に対する説明書きは、姿絵の裏の一枚に収まっていた。四巻に載せられた王達の方が多い。だから莢子は一巻目から積まれた名鑑のこの一巻こそが、一番勢力や功労の少ない王、あるいは古く、歴史的に顕著な功績のみが載せられている王なのだと思ってしまった。

 実のところ、数年毎に刷新される度、前回載せた内容を踏襲するのではなく、その数年の間に起きた新しい出来事のみを記すことになっていた。そして振興の王で、その勢いがあればあるほど記事は増え、盤石の王であればあるほど、定例の記事以外載せる内容がなくなっていく。

 だから異界の王たる皇神は、一ページしか記されていなかった。そもそも彼は最早伝説級で、行動が下々に知られることもない。故にここに記された情報は、ほとんど変化のない、名目上書き込まれただけの議事録のようなものだった。

 そのような一巻目だが、特に一ページ目から数ページに渡っては、不思議なことに似たような雰囲気の人物が多かった。

 そして二巻目を手に取ったのだが、何と、表紙をめくるなり初めての女性が描かれているのを発見した。やはり華には少し興奮してしまう。

 だがこの華は可憐ではなく、大柄で美しいけれども妖しい雰囲気の女性で描かれていた。そのうえ豊満な体つきになっていたので、目を合わせた男性は即死だろうな、と感じた。

 三巻目からは更に女性の数がちらほらと見えた。表題を思い返し、ではこれらの女性達も王様なのか、と感心した。

 名鑑に載るくらいに有名なのだから、誰もがこの御殿の王のように立派な人なのだろう。そう思えども、今度は直ぐに否定する。描かれ方が悪いのか、忠実にした結果なのか、余り良くない印象の表情が幾つもあったのを思い出したからである。

 煙の彼は載っていないのかしら。そのように気付いたが、ヘビのなら、王様事典には載らないかと、この考えも却下した。

 何時しか安心感を求めて布団に潜りながら、くだらないことをあれやこれやと考えていると、満たされたお腹もこなれてきて、眠気が差してきた。案外図太かったのだなと、己を顧みる。言われた通り仮眠しておくかと目を閉じたら、それっきりだった。


 呼ばれている…。呼ばれているのに、眠過ぎて。答えたか、答えなかったか。深い眠気に引き込まれて、欲求のままに眠りに落ちる。

 呼ばれている。呼ばれているような気がする。…はい。…はい。今、起きます。

でも、駄目だ。眠くて目を開けられない。莢子はまた眠りに落ちた。

 夢の中で声がする。…はい。もう起きます。…分かりました。大丈夫です。何に対して、何を答えているのだっけ。

 この遣り取りを何度繰り返していたのだろうか。けれど、朦朧とする意識で行われたこれらのことは、彼女にとってはどれも夢のことに過ぎず、全く覚えてはいなかった。

「姫様、後生でございます。もう時間がございません。お目覚めください。」

 その声の近いこと。莢子は突然、ハッと目を開けた。同時に跳ね起きる。無意識によるかのような反射だった。

 シャンと立ち上がったその姿を見て、先輩が安堵の声を漏らした。が、表情は常に崩れない。

「姫様っ。ありがとうございますっ。」

 起きただけでお礼を言われてしまった。珍しく声を荒げてまで。

「皆の者構わぬ、ここで掛かれっ。」

まるで戦闘の合図だったが、それに応えてわらわらと女人達が奥の手に湧き出した。

 何時かの様に各々手に道具を携え、配置する。先輩はその中で軍師の様に指揮を執り、それに応えて側女達が莢子の用意を整え始めた。

 着たまま眠っていた上衣を剥がされ、袴も下ろされる。そこから別の袴に履き替え、今までにない綺麗な腰帯を着けられた。

 日本の着物とは違った帯で、どちらかと言えば子供の浴衣に用いられるような、透け感があるものだ。シルクのように艶がある。それを色違いで三重に締められ、腹で花の様に飾り結びにされた。

 それから別の上衣を一から被せられていく。最初から数えていた訳ではなかったが、それでも五枚は重ねられたように莢子は思った。やはり元が軽いので、それでも苦にはならないようだ。

 出来上がりを述べるなら、袴姿にうちきの五枚重ねといった感じ。裾はくるぶし程度。柔らかで透け感のある兵児帯へこおびのような帯が、大輪の花の如くお腹で咲いている。どこかの時代に似ているようで、どこにもない衣装だった。

 着替えが終わったのだろうか、莢子は次に座らせられた。どうやら化粧を施されるらしい。

 全ては右女の指示通りに行われたが、まずはあの乳香のようなものを布に浸して、顔を拭かれるようだ。それが終わるとマッサージが始まった。まだ寝ぼけている莢子の頭でも、いや、だからこそかなり気持ちが良いそれは、手にも施された。

 これはまた寝るなと、彼女がウトウトしていたその時である。突然、中の手の幕が開閉されたような音が立ち、騒がしくなった。右女に向かって声が掛けられる。

「右女様、我らが君のお渡りにございます。」

控えめだけれど、緊張感のある声だった。

 先輩は更に気合を入れたと分かる声で、後輩たちにげきを飛ばした。

「私が出てお相手いたします。その隙に姫様を完璧に仕上げなさい。」

「ははっ。」

一同は答えつつも手は止めない。

 莢子の背後では、「同時に髪を行え」、「急げ、けれど決して手は抜くなかれ」と、命じる声が飛び交っている。

 莢子は前から化粧を、後ろから再び乳香のようなものを髪にも撫で付けられながら、櫛で梳かれ出した。

 一方、中の手に出て、奥の手のとばりを死守するように待ち受けているのは先輩右女だ。気合は少しも衰えていない。

「これは我が君。おん自ら御越しとは、お待たせいたしておりましょうか。」

 主が中の手に入室すれば、彼女は半身を返した何時もの姿勢で挨拶をした。

「いや、どちらかと言えば、私に我慢が足りなかったのだ。支度の邪魔はしないが、気持ちがはやってな。」

「左様でございましたか。安心いたしました。姫様は今しばらく掛かるかと存じますれば、どちらかでお待ちになられますか。」

「そうか……。では下の手、あるいは右の捨間うのすてまで待つとするか。」

と、言った王だったが、帳の脇に置かれた冊子に何気なく目が留まった。

 それは奥の手にあった例の名鑑だったが、支度の邪魔になるので運び出されたものである。この度は莢子の許可を取っていない内は、書庫に返されることはないらしかった。

「あれは、列王名鑑か。」

「左様でございます。姫様のご要望で全巻お持ちいたしておりました。」

「ほう。それは熱心なことだ。」

王は感心して言った。外交も妻の務めと心得てのことかと心嬉しくなる。

 右女はこの機を逃さなかった。王の機嫌を何とか取って、時間を引き延ばさねばと考えたのである。そこで、見た目は真実であるけれども、誤った見解をしているとは知らない例の件、それをさかなにしてしまった。彼女には珍しく力説する。

「はい。それは勿論でございます。やはり我が君が描かれております、特に第四巻でございますれば、それは熱心に、時が経つのもお忘れの御様子で、御覧になられておられました。」

 莢子は中からこれを聞き、大層慌てた。誤解ですっ。

 その気持ちが彼女を途中で立ち上がらせてしまった。化粧は済んでおり、ねんごろに髪を梳かれていただけだったので、構わないだろうとの判断もあった。

「ああ、姫様っ。」

そのような叫び声を聞きながら、莢子は奥の手の帳を自らで開けた。

「っ。」

瞬間、誰もが硬直した。

 違うのっ。開口一番そう叫ぶ筈だった莢子の思考は停止した。目の前の不思議に当てられてしまったからである。

 見開いた彼女の目が瞬きすら忘れている。その目の中に映っているもの……。

 それは、高校生くらいの青年だった。莢子よりは確かに年上に見える、が。

 やや長めの髪が逆立つかのように、後ろに梳き流されている。その髪型だけで王とは印象が随分違い、男らしく、逞しい人に見えた。

 それが立派な服を着て、同じように驚きに呑まれた表情で莢子を見返している。どうしたのだろう。その頬は赤く、まるで照れるようなことが起きたばかりだという顔だ。頬に赤みが差すなどと、妖怪にも赤い血が通っているとでも言うのだろうか。

 王様では、ない……。パチクリと瞬きが始まると、彼女の思考は戻ってきた。キョロキョロと辺りに目を遣ったが、それらしい人物と言ったら、目の前の彼しかいない。垂れたような目元、どことなく王に似ているような気もしてきた。弟だろうか……。

 相手も徐々に思考力が戻って来たのだろう。動揺からなのか、不意にパッと視線を逸した。

 顔を横に向けた際に、ちらりと覗いた襟足。そこだけが長く、三つ編みで纏められている。細い組紐かと思った。

 王様を探していた莢子がそれに気付いた瞬間、隣にいた先輩が何時になく声を高くして割り込んできた。

「姫様っ。まだお支度が残っております。ささ、あちらに。」

手まで触れて、莢子の体を回転させる。実に珍しい光景だ。常時なら、不敬だからと決して執らない行動に違いない。

 一体何を慌てているのだろう。莢子は合点がいかない。いや、時間は押しているようだから、当然の対応に違いないかと思い直した。

 強制的に部屋に戻されれば、今度は後輩が慌てていた。

「姫様、まだ百の髪梳きの途中でございます。結ってもおりません。今暫し御辛抱ください。」

 また元の位置に戻されて、腰を下ろされる。

「あの、さっきの人だけど、王様の弟でしょうか。」

一人だけ呑気に心のまま尋ねれば、

「姫様、お支度が終わるまで口をお開きなってはなりません。舌を噛んでしまわれます。」

 え、そんなものなの。疑問だったが、髪梳きが終わったらしく、今度は纏められて束にされると持ち上げられた。右に左に揺さぶられる頭。莢子は納得して固く口を閉じた。

 それにしても、何時の間に弟さんが来られていたのだろう。幕を開けるまでは王様の声だと思っていた。似て聞こえただけで、初めから弟さんだったのだろうか。兄弟という身分だから、先輩達も「我が君」と、王様にするのと同じように呼んでいたのだろうか。

 …だよね。王様が自ら呼びに来るはずもないか。

 そう思えるようになった頃には、先程見た人物は、すっかり弟で決定していた。

身内になる兄の嫁がどうしても気になったに違いない。

「姫様、終わりましてございます。お疲れ様でございました。」

 呼び掛けられて我に返る。お疲れだったのは側女たちの方だろうに。嵐が過ぎ去った莢子は手を添えられて立ち上がった。先導されて秩序正しく幕を越えれば、弟の姿はすっかりなかった。

「お美しゅうございます。」

 やはり世辞を言われたので、先輩に向かって微笑んでおく。莢子は懲りもせず先程のことを尋ねた。

「あの、さっきの、弟さんは…。」

 先輩は、ちょっとの間を開けたものの、何でもなかったようにこう答えた。

「暫くお待ちでしたが、戻られてございます。」

「そう。」

 言葉を続けたかったが、矢継ぎ早に先輩から先を促されてしまった。

「我が君がお待ちでございます。ささ、姫様。」

 何時もの陣形を組んで歩き出す一行。何事もなく環条手前の下の間しものまにまで出た。歩みはそこで一旦止まり、先輩が告げた。

「我が君が来られますまで、こちらでお待ちください。」

 それは幕の手前だった。後輩が部屋の隅に置かれてあった椅子を持ってきた。けれど、先輩に手を取られてそれに座るか座らない内に、帳の裏側にある引き戸が引かれた音がした。

 莢子は再び立たせられた。後輩が先んじて帳を割く。環条の向こうに見える風雅の間の入口。対面しているその戸も同じように、別の控女によって開かれていた。

 そちら側の、もう一組の側女らが風で揺らぐ帳を分けた。その向こうに現れた、御殿の主。

 何時もの王様だ。当然のことながら、彼の着物は弟とは色が違った。

 髪型一つで随分違う印象になるものだ。二人共、色は銅のような暗い赤だったが、無造作に搔き上げたような弟の髪形は、男らしい豪傑さを与えて見えたなと莢子は思い出した。

 彼は襟足だけが腰までと長く、一本に細く結ってあった。一緒に遊んでくれる頼もしいお兄さん…、否、団長、という印象だっただろうか。

 一方、王には洗練された落ち着きがあり、温厚柔和、柳の如き佇まい…、は軟弱か。何時もの優しそうな目元を細めて、莢子に微笑みかけてくる。王の前に誰も先導者がいないのは、御殿内を把握しているぬしには必要ないからなのだろう。

 彼女も遠巻きから微笑み返したが、先導を始めた先輩に遮られてしまった。それでも互いに引き合わされると、側女は後ろに下がった。

いずれのあなたも、麗しいな。」

男の開口一番だ。

 真っ向からこのようなことを言われては、素直に紅潮してしまう。それを誤魔化すように質問した。

「あ、あの、さっき、弟さんが、部屋まで来られてたんですよ。」

 気まずくて相手の顔は見られなかったので、肩を並べたまま歩み続ける。妙な間が空いたが、王がこれに返した。

「……そうか。あなたには紹介していなかったね。驚いただろう。」

「いえ、あの、はい。さすが兄弟、似ていますね。」

「……うむ。まあ、そうであろうな。」

「私、ちゃんとご挨拶も出来なくて、すみません。一緒に行かれるんでしょうか。」

「ああ、いや、今回は行かない。あれも神出鬼没だからな。あなたが気に病むことはない。また見かけるやもしれないが、気にしないでおくれ。」

 今度紹介してください。と、何気なく相槌を打ちそうになり、莢子は慌てて口を噤んだ。今後の付き合いなど考えてはいないのに、家族を紹介してくれなどと、言えるはずもない。

 こうして話に区切りが付いたところで、莢子は急に思い立った。何も考えずに歩いてきたけれど、これって、どうして風雅の間の中を進んでいるのだろうか、と。

 慌てて声を掛ける。

「あの、外に出るんじゃなかったんですか。どうして下りないんです。」

聞けば、相手は朗らかに笑ってこのように答えた。

「安心しなさい。至天閣から出るのだよ。」

「えっ。」

意味が分からなかった。あの展望台から、どうやって出るというのだろう。まさか、気球とか……。

 有り得ない発想が浮かんだが、その時が来れば分かるだろうと、彼女もそのままにしておいた。

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