第23話

 ここ空の階には他にも素敵な場所があるのだと言われたが、大人しく部屋に戻ることにした。寝室の隣にある大きな庭に戻り、暇を潰しても良かったのだが、気分が乗らずに奥の部屋に引きこもった。王の気持ちを裏切ろうとしているのに、彼から与えてもらったものを楽しむのは卑怯だと感じたからである。

 体は柔らかくほぐれているのに、心は凝り固まって非常に重い。その重みに負けるようにして、莢子は畳の上に身を預けた。

 そう。戻ってみれば、布団は取り払われていた。いつも気を失って寝てばかりいた莢子は知らなかったが、敷きっぱなしではなかったようである。

 実のところ、活動時に籠る部屋としては、今側女が控えている二番目の部屋、中の手が相応しい。けれど知る筈もない莢子は当然のように一番奥、上の手に向かった。だから、てっきりまた寝るのかと思った側女が「寝具をご用意いたしましょうか」と尋ねたのだが、手数を掛けるのさえ厭われていたので、それを断り、今に至ったわけである。

 すっかり何もなくなってしまった部屋で寝転んでいれば、思い出されたのは親友の顔だった。翠が側にいたら、今の状況について何時間でも話すだろう。あのお世話焼きの声が聞きたい。無性に顔が見たくなれば、心細さから不覚にも一筋涙を零してしまった。

 たかだが何日か前のことなのに、翠の母に送ってもらった夜のことが何年も前のことのように思い出される。冗談だと真に受けなかったが、夜の神社には本当に近寄ってはいけなかった。

「夢解き姫、知らないの」と、翠が言った。きっと地元では誰もが知っている昔話だろう。

 思えば、翠は上手く例えていたものだ。夢ではなかったが、謎を解くというところ、虫が人であるところ、黄泉の国ではなかったが、多分妖怪の国であろうところ。連れ去られて行くところ。結構似ている……。

 そうだ。契約は古のものだと言っていた。それが記されているような本はないのだろうか。それを読めば、何か分かるかもしれない。

 それは良い。さっそく持って来てもらおうと、莢子の目が輝いた。が、いざ口を開けて止まってしまう。また面倒を言って甘えることにならないだろうか。

 けれど、このままうだうだ考えているのは余りにも暇だ。その辛さに負けて、もう一度口を開けてみる。それからまた思い止まる。暫くそれを繰り返した。

 すると、中の気配を察したのだろうか、外で待機している側女の方から声を掛けてくれた。

「姫様、何か書物でもお持ちいたしましょうか。」

ドキリ。何と、心まで読めるのかっ。

 その甘い誘いに、もう餌の音を聞きつけて耳をそば立てる犬の気分だ。莢子はあっさりと負けてしまい、「お願いします」と返してしまった。

「あの、あの、私が結んだ婚約の、昔の仕来りが書かれているような本はありませんか。」

「勿論ございます。」

あるのかっ。

 当然だ。手に入れられるだけの文献を、王が探し漁ったのだから。

「是非お願いしますっ。」

「承りました。では、私の方でその他にも何冊か見繕ってお持ちいたします。」

 側女からの返答の後、数分後には幕の向こう側が騒がしくなった。と言っても大きな物音が立った訳ではない。人影が見え、気配が騒がしくなったのだ。

「姫様、整ってございます。御幎みとばりをお開けしても宜しいでしょうか。」

 その声にいささか緊張したが、勿論承諾する。天の岩屋が開けられたように、久しぶりに幕が開けられた。

 先にある室を見れば、文机のように小さな机と、その横に何冊かの冊子が置かれてあった。

 招かれるままに中の手に出る。案内されて座布団の上に座れば、さっそく側女が一冊差し出してくれた。

「お求めの文献、成龍記でございます。」

 名前からファンタジックで嬉しくなり、一も二もなく受け取って開けたけれど、そこでハタと手を止める。美しい文字だとは分かるけれども、到底読めるものではない…、ということだけが分かった。

 一面漢字の羅列で、草書も草書、読める文字もかろうじてあるけれど、文としてはどう読むのか全く分からない。これが全て漢字だとしても、習い立ての漢文の知識では歯牙にもかからないだろう。何処をめくってもお経のようにしか見えない。

(そりゃあ、そうよね。こういうこともあるわよね。)

 現実を目の当たりにして己の浅はかさを呪う。何故読めると思ったのだろうか。第一、妖怪の国だ。文字も同じとは限らないのに。

 読んでもらおうと思いついたが、一から十まで頼りっぱなしの我が身が情けなくて、ここでもまた立ち往生してしまった。

 けれど察しのいい側女は、主人にもう一冊を差し出した。

「こちらは大衆向けに読み易いよう、成龍記を物語調にしたものでございます。」

 ありがたいっ。即座に今手にしていた本を机の脇に置き、新しい書を手に取る。表紙には漢字で「境渡抄」と書いてあった。が、莢子が読めたのは、かろうじて「境」の一文字だけだった。

 ただそれだけだったが、文字が人間と同じもので、一つ読めたことに奮い立ち、期待を込めて頁をめくる。ウッ、と息を呑んだ。漢字ばかりのようだった先程のものに比べれば、画数は断然少ない。じっくり見れば、何せ平仮名だ。読めるような気もする。

 だが、流暢な崩し文字の上に言葉遣いも昔だろうから、やはり何と書いてあるのかが分からない。最早文字にも見えない気がしてきた。例え読めたとしても、古語辞典でもなければ解釈できないに違いない。

「……こ、これは後にして、他にもどんなものがあるか、見てみようかなぁ。」

独り言ちて、パタンと閉じた。

 折角持ってきてくれたのだからと言い訳しつつ、他の本に目を向ければまだ五冊ほどあった。

「では、こちらをどうぞ。」

 側女が差し出してくれたものを受け取ったが、彼女自身も何冊も重なっている一番上のものを手に取っただけだろう。

 藍色に近い紫の外装をしている。あるのはどれも和綴じ本なので、閉じ紐が外側に見えている。そしてこれは紐の色が金色だった。高尚な本だと見た。

 表題には「列王名鑑」と打ってあった。莢子が読めた文字はない。

「列王名鑑でございます。」

 すかさず側女の説明が入る。成程、言われればその字だと分かってくる。歴代の王様でも記録してある名簿かなと、察することが出来た。

 道理で高級感のある見た目な訳だ、と莢子は思ったが、それは違う。実のところ大衆向けにも出版されており、そちらの装丁は大分安価なものになっている。

 どちらにしても、これも難しいのだろう。全く期待していなかったのだが、開けば何と、これには挿絵が載っていた。

 これは有りがたい。絵があれば、文字が分からなくても楽しめるではないか。その一心だけでこの本を時間潰しにすると決めてしまった。

 今まで見てきた冊子はどれもいた紙で出来ており、表紙は厚手で、全体にごわごわしている。文字は全て墨で書かれた手書きだったが、この差し絵は版画かもしれなかった。

 面白そうだからこれにすると伝えれば、側女は邪魔にならぬようにと背後へ控えた。莢子は手に持っていた本を机の上に乗せて、初めから丁寧に見ていくことにした。

 どうやら挿絵は一定間隔で載っているらしい。王様の名簿というよりも、何やらアニメなどのキャラクター紹介の本の様だ。筆頭に書かれている大きめの文字が多分それぞれの名前なのだろう。

 一キャラクターに付き一見開きの場合もあれば、数ページに渡るものもある。けれど墨で描かれた迫力のある人物像らは、一体誰を表したものなのか。かなりの誇張が見て取れるその絵姿は、まるで水滸伝の人物百図に説明書きが加えられた本を思わせた。

「姫様、そちらは他の巻もございますので、お好みでしたらお持ちいたしましょうか。」

 背後から控えめな声を掛けられる。

「ありがとう。でも、また今度でいいです。」

これ以上手間を掛けさせたくなくて、裏腹なことを口にする。

 一度目を通すと、まだ紹介されていなかった別の冊子を手に取った。だが、それらも文字ばかりで、眺めるにも辛い。仕方なく、莢子は列王名鑑ただ一冊を何順かしながら、時間の限り殊更にじっくりと見詰めた。


 暫く時は経ち、もうこの一冊では時間を持たせるのも辛いなと思われていた頃、莢子の前の部屋から帳越しに声が掛けられた。

「失礼いたします。お食事の準備が整ってございますので、お知らせいたします。」

聞き初めの声だった。

 答えたのは何時もの側女だ。

「分かりました。下がって宜しい。」

 幕の向こうから人影が遠退くと、彼女は莢子に向かって声を掛けた。

「姫様、如何致しましょう。お食事になさいますか。」

 それは願ってもない。お風呂に入ってからというもの、心は塞いでいたが体の方は元気だった。けれど、だからと言って素直に受けてもよいものだろうか……。

 その沈黙がしっかりと迷いを表していた。そこに側女の一押が。

「姫様がお出でにならなければ、我が君もお食事をとられないでしょう。元から食されることが少ないお方ですから。」

 情と罪悪感に訴えるとは、やるではないか。お陰で莢子もそれなら仕方がないなと免罪符をもらい、食事に向かうことが出来た。


 向かった場所は同じ階の中央にある、あの六角形の庭の様な大庭園、「風雅の間」だった。

 この階の中心となるその間の周囲を、ぐるりと回る廊下のことを「環条」と呼ぶ。一方、真っ直ぐに伸びた廊下は「条」と呼ぶ。それはくうから戻る時に側女が教えてくれた知識だ。

 ここ風雅の間でも、莢子への説明は終わらない。何時もなら一々立ち止まって説明しているところだが、歩きながらで良いとの許可を得た側女は、案内しながら様々なものを説明している。

「こちらは木階登廊きざはしとうろうでございます。その先には天空の、そして主眼しゅがんの間がございます天輪てんりんへと繋がってございます。」

 それはこの室に入った途端に圧倒的な存在感を放つ、あの大階段についてだった。莢子も漢字を目にしながら説明を聞いたら、完全に理解できたかもしれない。彼女は分かった振りをして、相槌を打った。

 一行は階段の脇を通り過ぎて行く。

「あちらは一の大路と申しまして、我が君を初め、私共も専ら使用する通路になってございます。」

 このようにして次に紹介してくれたのは、朱色の欄干に囲まれた箇所だった。丁度大階段の裏にあり、風雅の間の中心に位置している。

 大路と言った割に、遠目からでは欄干で囲われていることしか判らない。ここでも八角が基調らしく、その内の対角に×を描く四辺だけに欄干が設置されていた。

 そちらに向かっているわけではないが、距離が近付くにつれ、どうやら中心には穴が開いているようだと判る。危ないので欄干で囲っているのだろうが、それが一部だけにしかないとは…。

 矛盾した様子に心が囚われて歩みが遅れていたからだろうか、側女が声を掛けた。

「ご覧になられますか。」

 興味本位で頷いてしまった莢子は、側女に案内されて近付いていく。彼女の背から一度チラリと顔を覗かせたが、穴は大きく、また深そうであると分かってきた。

「危のうございますので、私より前にお出になられずにご覧ください。」

 立ち止まった側女に近寄り、その肩口から堂々と顔を出す。思わず息を呑んだ。穴は筒状で、思ったより巨大だった。まるで落とし穴ではないか。

(え……。通路って、言ったよね。これが……。)

 単純な疑問だったが、余りに信じられなくて、どうして尋ねたら良いのやら。近目から窺っていても、穴の全貌は分からない。そうだ。もしかして、エレベーターの様に円筒形の乗り物が上下するのかもしれない。何と未来的な。

 それが閃いた莢子は自分を落ち着かせることが出来た。とは言え、天井を見ても吊り上げるような線がどこにも見えないのは何故だろう。

 ハッ。その時、莢子は全く別のことを発見した。

(柱が、ないっ。やっぱりないっ。ここにもないっ。ないっ。)

 彼女は大階段が空中に浮いているかの如く、何の支えもない状態で設置されていることを確実に知った。

 怖いのに変わりはないだろうが、自分の足で上らなくて本当に良かったとも思うし、階段の下にいるこの状態は良くないとも思う。

「あ、あの……」

口ごもっている莢子に、「はい、なんなりと」と、物腰柔らかな返答。

「この階段は、落ちない……。」

衝撃と不安が大き過ぎて、やはり何と尋ねて良いのかも分からない。けれど側女は主人の言葉を肯定的に捉えた。

「はい。この御殿が崩れるようなことがなければ、決して落ちることはございません。」

 太鼓判なら安心だと思った莢子だったが、よくよく考えてみれば、この答えは何の問題も解決していないことに気付いた。

 彼女からしてみれば、至る所に柱のない御殿の造り自体を怪しんでいる。それを引き合いに出されても、何の保証にもならないのだ。

 主人の沈黙を勘違いした側女は伺った。

「建築以外でこの木階登廊きざはしとうろうに足を踏み入れましたのは、昨日が初めてでございましたが、何か不備でもございましたでしょうか。」

「え、王様も。」

思わず尋ねる。

 何でも王の主寝室の一つに含まれる中の手、それを天臨間てんりんのまと呼ぶそうだったが、そこから天空の路へは直接出入り出来るらしい。だからこそ、王さえこの大階段は使ったことがなかったのだろう。天臨間との連結部分がどこにあったのか気付きもしなかった。

 話がひと段落つくと、莢子は一刻も早くこの危機感を呼ぶ場を逃れようと、先を促した。だが、側女が目指した場所は、どちらにしても残念なことに階段下に変わりはなかった。

 先程の大穴「一の大路」がこの広間の中心に位置している。そこから奥の壁との丁度中間に、畳敷きの広い台座が置かれてあった。当の食事は、その上に用意されているらしい。

 通常ならば、そこには樹の幹を輪切りにして作られた座卓がある。庭を眺めながら一服できるように設置された休憩所だ。今は取り除かれており、代わりに小豆色に金縁の美しい膳が二つ、畳の上に用意されていた。

 王たる彼はまだいない。気まずい別れをした後だったので、ちょっとホッとする。莢子は案内されるがまま台座に上がった。

 何時も置かれている座卓に合わせた座布団も無くなっており、今は膳に合わせたフカフカの座布団が置かれている。彼女は奥の壁に向かう位置で座るように言われたが、それは勿論下座だった。

 目の前には、もう一つの膳がある。対面して食べなければならないらしい。はっきり言って食べ辛い。しかも話しかけるにはいささか遠い。一緒に食べる意味があるのだろうかと問いたくなったが、こちらの習慣かと思えば、口も出し難い。

 頭上の大階段にハラハラしつつ、フカフカの座布団に覚束ない様子で座った莢子は膳に目を落とした。思わず頓狂な声を出すところだった。お膳が全て空なのだ。道理でいい匂いの一つもしなかったはずである。

 全ての器に蓋はなく、膳と同じ色で塗られている。どれも大きさや深さが微妙に違う。王様が来ていないことを思えば、料理もまた後から運ばれてくるのかもしれない。

 そして待つこと数分。台座の端に控えていた側女が言った。因みにそこに座っているのは例の先導役の右女一人だけで、後の二人は下で控えている。

 莢子は先輩と後輩の立場の差があるのだろうという思い付きから、上に座った側女のことを先輩と呼ぶことに決めた。勿論心の中だけである。本当は「右女うめ」という役職名が彼女にはあった。だが、王がその名を口にしたのは一度だけであったので、莢子は全く覚えていなかった。

「姫様、我が君のお渡りでございます。」

 今し方名付けたばかりの「先輩」から突然話を振られ、ビクリと緊張する。相手の顔が見られない。それが態度に出たように、莢子は事前に教えられていた作法を執り始めた。

 まず正座の状態で正面から半身を返し、折り目正しく腰を曲げ、両手を突いて伏し目がちにする。

 とは言え、莢子は平伏しなくてもよいらしく、背を倒した角度は僅かに十五度ほどだった。その他の作法にしても、伝統的な日本のものとは異なっていたが、彼女は知る由もない。

 足音は無くとも、柔らかな衣擦れの音が、彼の接近を教えてくれている。半身を返した莢子の目の端に影が掛かった。すると声が上から降ってきた。

「こちらの作法を学んだのかい。あなたに礼を執られると心苦しい。だが、慣れてくれるに越したことはない。とても嬉しいよ。」

 柔らかな声だった。全く責めのない、思いやりが滲んだ声。そう評価された彼女は本当に少しだけ、彼の気持ちに報えたような気がした。

「では、始めようか。」

 声が掛かれば、莢子は先輩の助言により体を戻す。彼女が近寄り、主人の衣の裾を直した。

 同時に、王と莢子との間を割くような一団が、にわかに侵入した。驚いて目を向ければ、女人が四人がかりで大きな膳を運んで来たところだった。彼女らの装いは、側女が羽織っている上衣と色が違った。

 横一メートル程の黒塗り台を静かに置くと、彼女らは目を伏せて引き下がって行く。中央に置かれたその上には、大小様々な皿や椀が所狭しと並べられていた。その上に色取り取りの華やかな食事が乗せられている。どうやら好きなものを取って食べる形式のようだ。成程、この台を置くために王との間が空いていたのか。

 場が全て整ったのだろう。王からの開始の声ももらっている。王付きの側女が「我が君、どれをお取りいたしましょうか」と伺った。同じように莢子にも声が掛けられる。

「姫様、あちらの中からお好みの物をお取りいたしますので、仰ってください。」

 さりとて何が何の料理なのか分からない。その僅かな躊躇いを読んでくれる出来た側女は助言する。

「甘いものや、辛いもの、油気のある物、口当たりの良いものなど、お好みを仰っていただけましたら、僭越ながら私の方でご用意させていただくことも出来ます。」

この気配りが有難い。

 男の方は既に何やら注文しているようだったが、莢子の方は彼女にお任せすることにした。

「あの、とりあえず、あっさりした物からお願いします。」

 見た目はどれもおいしそうだが、妖怪の国と思っている。素材が何かは分からない。初めにもらった食事の様な、穀物や野菜で出来ていそうな料理なら安心だ。

「畏まりましてございます。幾種類かを少量ずつお持ちいたしますので、お気に召す物がございましたら、お代りをお持ちいたしましょう。」

 ここまで良くしてもらったら、先輩と言わず、お母さんと慕ってしまいそうだ。だが、彼女は母親よりも格段に若そうに見えた。

 運ばれるのを待つ間、彼女が目の前に移動した分、どうしても先輩の行動を観察してしまう。何やら王の側女と密やかに遣り取りをしているらしいが、目の前だというのにその内容は分からなかった。

 何時の間にか下に控えていた後輩側女ら二人も上がって来ており、先輩が取り分ける食事を莢子の許に運ぶ手伝いをし始めた。

 小さな椀に可愛らしく盛られた一口サイズの料理が並んでいく。一つの皿に二種類というものもあり、全部で五種類あった。

 すると、今度は後輩らが台座の隅に控え、先輩は莢子のやや右後ろで待機するようだった。

「姫様、こちらは我が君よりのお勧めでございます。」

 五つの料理の内、手の先で指示されたものに目を留める。見た目は黄色い団子のようだった。それに青い葉の一片が添えられている。莢子は勧められるまま、それから口にしてみることにした。

 箸で摘まむと、団子と言うよりもウズラの卵の様な感触だった。食べたことのないものだから、少しだけ勇気がいる。それでも思い切った方がいいだろうと、パクリと一口にした。

 舌に乗せた時には潰して練った穀類のような甘みを感じたが、噛んでみると吃驚。蕩けた飴の様なものが中から出て来た。それがまた、出汁の利いた上品な味がする。くっ付いてきた青い葉と共に咀嚼すれば、爽やかな香味が相まって、すっきりとした口当たりに変化した。

「おいしい。」

溜息の様に漏れた。

「それは宜しゅうございました。御所望くだされば、またお持ちいたします。」

 莢子はこの一口目ですっかり夢中になってしまい、恐れを忘れて次の椀、次の椀と試してしまった。

 そのどれもが驚くほど美味しい。懐かしい味がしたり、未知の味だったり、柑橘系の味がしたり。一口で終わってしまうので、あっという間に目の前から消えてしまう。

「次は何に致しましょうか。」

そう尋ねられて、今度はしっかりした味のものを頼むことにした。

 だが、莢子がそれを言い終わらない内に、ふと思い出したように王を顧みた。すると、しっかりと目が合ってしまった。

 途端に莢子の頬に朱が差したのは、相手が実に嬉しそうな顔でニコニコと微笑んでいたからである。もしや子供のように食べていたのをずっと見られていたのだろうか。当初の疑いを忘れ、がっついて食べてしまったことが恥ずかしく、彼女は俯いてしまった。

「食事を共にしてくれる人がいるというのは、実に幸せなことだと分かったよ。」

優しい声が掛けられる。

 俯き加減の彼女の視界で、おやと気に掛かったのは、王の膳に盛られた料理のことだった。慰めに注がれた言葉の割に、彼の椀にはどれも残っていたのである。

「あの、王様は、食べないんですか。」

恥ずかしさ紛れに、おずおずと尋ねる。まるで先生から叱られる生徒の体だ。

「うむ。食べるよ。されど、今はあなたを見ている方が、腹は膨れそうだ。」

言って朗らかに笑った。

 その笑顔が心に痛い。聞かなければ良かったと、恐縮する莢子。己の食べっ振りがはしたなかったに違いない。恥じ入ってしまえば、注文しかけていた先が続け難い。

 そうやってすっかり縮こまってしまったものだから、男はまた一つ笑い声を立てた。それから側女に何やらと声を掛けた。

 主人の命に従って、中央の膳へと進んでくる。すると莢子付きの先輩もまた、空いた椀を持つと同じように前へ出た。台を挟んで二人が遣り取りしている。先輩は戻ってくると、手の椀を膳に乗せた。

「そちらも食べてみるといい。」

と、男の声が勧める。

「姫様、お召し上がりください。」

先輩からも勧められれば、ようやく莢子の箸は動き出した。

 次の料理は見るからに肉系のものだった。正方形に形成されている。汁けがあるが、ソースが掛かっているのでは無さそうで、煮込み料理と思われる。豚の角煮にも見える艶。牛かもしれない。それにしてはやけに赤く、と言って、焼方がレアだという訳でもないようだった。

 表面の質感は、この素材がしっかり煮込まれていることを証明している。それなのに煮汁も赤い。赤ワインなら良いのだが、血だったらどうしよう。そこが少し怖かった。

 箸で持ってみたところ、やはり角煮の様にプルンとしている。先程がっつくのは止めようと思ったが、これこそ思い切りがなければ口に出来ないだろう。莢子は「えい」と一口に頬張った。

 しまった。咀嚼するスペースが、口にない。だが、実に美味い。舌に乗った肉の味が実に良い。

 煮込まれた割に艶やかな舌触り。杞憂だったらしく、血の匂いは全くしない。後はこれを、如何に噛み砕くか…。

 ほごほごと口内で肉の移動を試みるも、その余裕がない。かと言って吐き出すわけにもいかない。王様が正面から見詰めていると思うと、汗が出てくる。泣きそうになった莢子は、せめて舌で押し潰せないかと力を込めてみた。

 出来たっ。出来たどころか、肉はその力だけでほぐれた。解れたどころか、肉の中身は柔らかな粘性状のものだった。ゼラチンだろうか。

 全く臭くない。だが、やはり初めて食べる味がする。脂っこさがなく、淡泊な魚のような気もするくらいだ。

 中のゼリーはチキンストックの様でもあるが、何と言うのだろう、香辛料が入った刺激的な味がしてきた。口の中全体としては、まるでタイカレーかスパイススープの様になってしまう。その食欲を刺激する味と言ったら。

 莢子は敗北感に打ちひしがれながら、「おひしひでふ(美味しいです)…」と言うしかなかった。

 もう、気にせずに食べよう。開き直って、ご飯ものはないかと尋ねた。炊き込みのようなものもあるらしかったが、白飯寄りのものを頼んだ。

 中央で先輩が働いているので、対面からの男の視線を交わし易い。それにより少しだけ話しかけ易く感じた莢子は勇気を得て、王に向かって声を掛けてみることにした。

「王様も、食べてくださいね。」

「ああ、食べるよ。」

 実に楽し気な、けれど同じような返事が返ってきた。だが、今度はちゃんと食べ始めてくれるらしい。ようやく王の視線は食事に向けられた。

 食事中、特に会話はなかったが、莢子は大階段の下だということも忘れるくらい、料理を楽しんだ。最後に甘い物をしっかりと頂いて、この場はお開きとなった。

 別れ際に声を掛けられる。

「出掛けるまでには、まだ暫くある。仮眠をとってから準備するといい。」

「はい。」

素直に返事をすると、相手は鷹揚に頷いて言った。

「では、また後で。」

「姫様。」

 先輩から促されて、莢子は慌てて習い立ての礼をまた執った。だから相手の顔は見えなかったはずなのに、彼が微笑んでいるのが分かった。


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