第22話

 起こされたのは、莢子にすれば数秒、あるいは数分の後だった。それほど居眠りしたつもりはなかったのだが、御殿にすればそろそろ起床の時間になるらしいとのこと。もしかすると数時間寝ていたのかもしれない。

 そこで提案されたのは、以前にも聞いた湯浴みであった。

「ここより一つ下の階、天空領、くうの階に、姫様専用の湯殿がございます。大変美しい所でございますれば、姫様の御慰みにもなるかと存じます。」

 どうも手持無沙汰だと思われているのかもしれない。けれど実際、時間を潰せるのなら、是非そうしたい。その上お風呂に入れるのだから、気分が一新するのは間違いない。莢子は快諾した。

 風呂に行くというのに、一旦寝所に戻り、着物を着替えさせられた。それでも民の前に出た時よりは随分簡素だ。王の言葉を思い出せば、寝間着のままでは出歩けないということなのだろう。

 準備が整い、移動する。一行は何時ものように上の手から中の手、下の手へと移り、環状に出ると右に折れた。そして初めの分岐を右に折れる。四の条だ。御殿の主と共に、姫である莢子をお披露目するために通った廊下である。

 本当は専用の厠を作ってもらった「左の捨て間」から四の条へ出られるのだが、ショートカットはしないということなのだろう。これもまた作法の一環なのかもしれない。

 突き当りにある階段を一階層分下りて天空領へと入っていく。今回もまた人払いをしているのだろうか、階段下にいる見張り番の姿がない。それとも、夜間のみ勤務するのだろうか。

 空の階の四の条から、中央へと向かう。この階層の中心にあるのは「秋の間」だ。上層の「風雅の間」の半分程の広さである。一行は環条まで来ると、右に折れた。

 右手にある四のしのくうと呼ばれる室に差し掛かると、その中央正面に向かった後、一行の歩みは止まった。ここには予め控え女が待機していた。

 物言わぬ控女は戸に対して横向きに跪座し直すと、僅かに上半身を伸ばして己の手が届く長さ分、戸を引き開けた。その裏側に垂れていた帳が覗く。空色の美しい色合いだ。控女は手を突いて更に後退すると、同じようにして入り口を広げた。

 莢子の背後にいた二人の側女が前方に出てくる。お馴染みの様子で帳を分けた。すると、莢子を先に入室させるために、先導役の側女が脇に控えた。

 莢子の目前に、新しい空間が姿を現した。その脇で目を伏せた側女が恭しく告げる。

「水の棚でございます。」

 莢子から感嘆の声が上がった。彼女の足は列から離れて、心の赴くままに向かっていく。側女はもう先導はしなかった。ただ彼女の後に付き従っていく。

 『棚』の説明は聞いていたが、現物を目の前にして、告げられた名の意味を理解する。ただ、洗濯場のように四方に壁がない訳ではなかった。壁がないのは、正面だけだ。否、正しく言えば左右にもなかった。それでも両隣の室の壁が見えていたため、あたかもこの棚自体に三方の壁があるように見えていた。

 それでも、元からの広さと、奥に行くほど左右に広がっていく空間と、突き当りがないという構造上、入り口付近の莢子の目からすれば完全に屋外だった。そして今は昼のように明るい。にも拘らずこの空間の外、つまり正面奥に見える棚外は、真っ暗闇だった。

 その明暗の差が激し過ぎて、暗闇は底知れないものに映り、いささかゾッとする。急に足元が空く感覚がして、この空間自体が浮かんでいるようにも錯覚した。まるで孤島が夜空に浮かんでいるかのようだ。いや、宇宙に浮かぶ船のデッキに立っているのだろうか。しかも、この船は楽園を乗せている。

 水の棚と紹介されたが、目に付くのは見事な岩場だ。白亜の丸みを帯びた岩が一面に広がっている。大小様々な岩が各々の形を生み出しながら、この空間に変化をもたらし、それは見事なほど感動的な場を造り上げていた。

 左右を見渡せば、隣の区画の壁が目に入る。急に屋内なのだという現実感が増す。壁だけはどこもそれほど変わらない。壁で囲われているということは、両隣はそれこそ『囲い』と呼ばれる区画なのだろう。もし左右とも棚だったなら、壁は設置されていないはずだから。

 振り返って入り口側も確認しようと思ったが、背後で付き従っている側女の姿が視界に入り、直ぐに止めた。だが、そちらには入口用に壁があるのは通って来たから知っている。

 それよりも、はしゃぐところを全部見られていた。当然か、常に側に突き従ってくれているのだから。莢子は急に羞恥心が湧き、自分を誤魔化そうと何気なく天井を見上げた。

 十メートル位離れているのだろうか。彼女には良く分からなかったが、上空には一面の板張りが見えた。勿論ここは棚なので、この階の天井ではない。ということは、それは上の階、つまり天領閣の床裏だ。

 奥の方に目を走らせれば、上階の床裏が途中で終わっていた。つまり、この階は上層よりも広いということになる。この棚の奥に行けば、空が見えるということだ。

 あんぐりと口を開けたままの彼女は、だが、再び急にうら寒くなってきた。何処をどう見ても、上階を支える柱がないことに気付いたからである。木造の建築物にそのようなことが可能なのだろうか。

 莢子は御殿の主と行った、最上階の展望台を思い出した。夜の闇の中だったのでそれほど頓着せずにいたが、記憶の中を辿っても、やはり支柱を目にした覚えがなかった。鬼や妖怪の住む世界なので、現実の常識は当てはまらないとでも言うのだろうか。

 知らずゴクリと喉が鳴る。彼女は目の前の疑問から目を逸らし、夢を楽しむことにした。

 岩の森とも言えるような集合体の中に、通路らしき平たい部分が続いている。初めは道となるそこを大人しく進んでいたのだが、羞恥心を忘れることにしたのか、夢中になったからなのか、莢子は再びはしゃぎ出していた。彼女は不意に袴の裾を持ち上げると、道から逸れて周囲の岩を上り出してしまった。

 普通お姫様がこのような無茶をすれば、それこそお付きの者から苦言を呈されそうではあったが、何故か側女らはそれを静かに見守っている。無機質的なその顔からは、好感情を読み取るのは難しいが、冷視されてはいないだろう。

 岩の上から辺りを見回した莢子は、また声を上げた。何と言う美しさなのだろう。岩のそこかしこの隙間から水が流れ入っており、泉のように、あるいは水盆のように溜まっていたのが分かったのだ。また場所によっては上から下へと流れ落ちて、滝のように水の壁を作ってもいる。それらの水の青いこと、澄んでいること、清らかなこと。

 まるで初めて出店を見た子供のように、次から次に目を楽しませていた彼女の視界に、ふと岩の壁で出来た、ある空間が飛び込んできた。それが一等幼心をくすぐって、彼女はそちらへと身を躍らせた。

 ここは落ち窪んでおり、まるで小さな秘密の部屋のようだった。すっぽりと身を隠せば、洞窟の内部に入ったような心地よい閉塞感。底の中央には隙間から入り込んだ水が溜まっている。一方の隙間から一方の隙間へと水は循環していたが、何と、その中に魚が棲んでいた。

「わあっ、魚がいるっ。」

童心に返ったように、はしゃいだ声が響いた。

「左様でございます。見目楽しいようにとの、我が君からの御配慮でございます。」

頭上から声がしたが、その姿は見えない。貴人に対して上から声を掛けるのが憚られたのだろう。そういった礼法も知らず、莢子は顔を戻して水中を観察した。

 魚は緑色をしている小魚で、水底には綺麗な小石が沈んでいる。見ればエビやカニなども見つかった。何て綺麗なんだろう。溜息が出る。ここが自分の部屋なら、入り浸っていたいくらいだ。

 ずっと眺めていても良かったが、他の場所も気になった。何せこれでまだ出だしの部分なのだ。この先に何があるか分からない。莢子は穴から這い出し、心の向くまま、目に着くところを見て回った。

 ある水盆のような窪みを覗いてみれば、こちらにいたのは、まさかの金魚だった。小さなガラスの浮きも浮いており、小さなハスの葉の様な水草も浮いている。

 またある大き目の水溜りを覗いてみれば、銀色の小魚が群れを成して漂っていた。底に敷かれたように沈む石が桃色の珊瑚の様で、時折小魚達はその色を体に移したように変化した。

 時には道を、時には岩から岩へと飛び移る。もう夢中になって奥へと進んだが、そこで見つけたのはプールの様な場所だった。

 広く平たい石敷きの上に、水が綺麗に張っている。近寄って更に観察してみれば、底を埋める岩板は所々広く丸く落ち窪んでおり、まるで風呂窯のようになっていることも分かった。ここまでとは違い、熱気がある。

 足を浸けてみたい。けれど、それには袴の裾だけでなく、上衣の裾も持ち上げなければ濡れてしまうだろう。莢子が一寸迷っていると、後ろから声が掛かった。

「姫様、こちらが湯船でございます。お召し替えもご用意いたしておりますれば、さっそくお浸かりになられますか。」

 側女の差し向けた手の先を見てみれば、岩の上に確かに着替えがある。それにタオルらしき手拭も見える。事前に用意していたのだろうか。道理で誰もが手ぶらだったわけである。

 莢子自身風呂に行くというのに、それらのことはすっかり頭になかった。何でも身の回りのことをされ過ぎて、気が緩んでいたのかもしれない。

 とは言え、用意されているのだから有難く使わせていただこう。莢子は頷き、脱ぎにかかろうと上衣に手を掛けた。けれど、ふと気になった。彼女達はどうするのだろうか、と。

「あの、皆で一緒に入りましょうか。」

そう大衆風呂の感覚で誘えば、とんでもないと返されてしまった。それどころか彼女だけを脱がしにかかろうとする。

 莢子は慌てた。民の前に出た時とは違い、今度は風呂だ。次こそ下着も綺麗に脱がされてしまうだろう。それはいけない。彼女は側女達の手から逃げ出した。

 上衣の一枚は彼女がするりと身を返したことで脱げてしまった。それ位に滑らかなのだ。その上軽いので、岩から岩に飛び移ったとしても少しも邪魔にならなかった。

「あの、私、自分でします。これだけは本当に、お風呂は一人で入りたいです。ううん、皆一緒に入ってくれるなら逆にいいんです。」

 トイレからの文化の違いがある。しどろもどろになったが、莢子は更に押すことにした。

「私の所では、お風呂のことも自分でするものなんです。だから手伝わなくても、何も悪いことじゃないんです。分かってもらえるでしょうか。」

 表情筋が引きつる思いで切に訴えて見たところ、側女達も中々慣れて来たらしい。「お望とあれば、致し方ございません」と言って、引き下がってくれた。

 それでも道具の使い方の伝授は忘れない。隅の岩に用意してあった着替えの方から、それらを持ってくる。一つは手拭で、一つは石鹸代わりの乳香と呼ばれるもの、もう一つは大判の布、くるみと言われたが、つまりタオルだった。

「それでは、お目の届かない所で控えさせていただきます。」

 その姿がすっかり去ってしまった後、莢子は胸を撫で下ろし、湯に浸かった。

 足を差し入れた時の気持ち良さと言ったらなかった。けれど、お湯自体の温度はぬるいという印象だ。見た目が冷水のようだったので、熱っぽいだけでも見た目とのギャップに体が緩んでいく。

 湯を焚いているのではなく、どうやらここの石敷きが温かいらしい。それによって水に熱が加えられているようだと分かった。また水はここでも常に少しずつ循環しているようだった。

 ここ一体の基本水位は膝辺りしかないのだが、所々に出来ている窪みに入れば、五右衛門風呂のように全身を浸からせることが出来る。彼女は一番手前にあった穴に入ることにした。

 ふう、と溜息をついて目を瞑る。まるで温水プールの様ではないか。長く浸かっていれば逆に体は冷えて来そうに思ったが、岩がじんわりと温かく、湯たんぽの中に入っている心地なのだから、杞憂だろう。その上、石の表面が肌には良い刺激になって、殊の外気持ちが良い。

 十分温水を楽しんだ後、一旦上がって、準備された道具を使って体を洗ってみることにした。

 与えられた乳香は乳液の様にとろみがあり、オーガニック製品のように大変良い香りがする。匂いだけで全身が活性化するようだ。

 言われた通りに直接肌に滑らせてみる。すると、余りにつるつるするので、油かしらと思ってしまった。けれど、そのままお湯に入って流して良いと言われている。

 そこで全身に馴染ませてからお湯に戻れば、不思議なことに油のように肌をつるつるにした液体は、水と交わってスッと溶けてしまった。

 とろみの出た髪も寝そべるようにしてお湯につけた。指通りが良くなった髪が湯に浮かぶだけでも心地が良い。今までの騒動や緊張からすっかり解放され、何もかも洗い流せたかのようだ。全身がほぐれていく。

 結局、この湯だけでたっぷり二時間は楽しんでしまった。時を忘れて味わった後、いざ上がって見れば、ハタと気が付いた。用意された衣服の中に、下着の替えが、無いっ。

 それはそうかもしれない。この世界と莢子の世界では、下着に対する考えや作りがまるっきり違いそうだ。彼女は考えた挙句、使用済みのものを乳香で洗い、取りあえず岩の上に干しておくことにした。

 それでも直ぐに乾く訳ではない。とりあえず、包みで体を拭いた後、素肌のままこちらでの下着となる小袖だけを着込んだ。それから側女に呼び掛ける。

 ひと声掛けただけで速やかに現れた。主人の姿を見て、直ぐに着付けにかかろうとしたが、莢子に待ったを掛けられた。

 下着の件を聞けば、やはりここでは誰も使用しないものだと判明する。大体今着ている小袖が下着なのだそうで、それ以外は素肌に身に着けるものはないとのことだった。

 それを念頭に思い返せば、煙や王が自分の上着を肩に掛けてくれた意味がありありと分かってきた。莢子にすれば浴衣と変わりなかったのだが、相手の思考を汲むと、どうしても羞恥心が湧いてしまった。

 今の心許ない姿では当然だ。これで人前に出ろと言われたら、スカスカな身体が危なっかしくて歩くのすら気を使ってしまうだろう。時読の許に行く時、よくもまあ裾を捲し上げて走ったものである。見られていたのはヘビだけで本当に良かった。けれど、しゃべるヘビだ。とんだ行儀の悪い娘だと思っていたかもしれない。

 成程、ヘビが「上に羽織るものは」と聞いたはず。御殿の王が「このような格好で」と言った訳だ。何てことだろう。

 今更ながらに顔を赤くする莢子は、下着が乾くまでこの心許なさを受け入れることにした。小袖の着付け直しから後のことは、全て側女達に任せることにする。髪に別の乳香を付けられながら、莢子は今こそ本当に穴の中に暫く入っていたい気分だった。

 すっかり整えられてから、側女が尋ねた。

「湯のお加減はいかがでございましたか。」

 莢子は恥の谷から我を取り戻し、これに元気よく答えた。

「とっっっても、気持ち良かったですっ。」

「それは宜しゅうございました。」

と、返してくれても、側女のテンションは何時もそれほど上下しない。

 それでも莢子は、この棚で受けた感動について捲し立てた。一通り過ぎ去った後、相変わらず落ち着いたままの側女はこのように告げた。

「こちらの水の棚は、我が君が姫様の為にと、特に御心を込めて準備された場所でございます。されば今頂戴したお言葉を我が君がお聞きになられれば、その喜びは如何程かと、僭越ながら想像させていただくものでございます。」

 魚も、この場所も、私の為に…、心を込めて……。

 莢子は辺りをもう一度見渡した。別世界にいるような神秘的な場所。それが美しければ美しい程、壮大であればある程、彼女の心は切なさに痛むようであった。

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