第20話

 結局、最後まで横抱きにされたまま部屋に戻されてしまった。

 奥の間までの幕を開けてくれた何時もの側女らがいたものの、あの老婆はいなかった。男は莢子を布団に下ろした後、こう声を掛けた。まるで何もなかったかのように、すっかり元の穏やかさだ。

「牛の刻、あなたの世界では夜が深まった時、御両親への挨拶のために伺おうと思っている。婚儀前の方がよいであろう。

 御殿が起き出すには、今からまだ二時ふたとき程あるが、それまで余り羽目を外さないでいるのだよ。」

 手の掛かる妹に語るようではないか。彼は頬笑みながら続ける。その優しさが胸に痛い。

「所用で共に過ごしてはあげられないが、詰まらなかったら外にいる右女うめを呼ぶといい。景色の良い囲いや棚に案内してもらえば、心も幾分晴れるだろう。」

 やることがあるという言葉から、莢子に不穏な考えが過った。慌てて訴える。

「あの、誰も、叱らないであげてくださいっ。」

 自分が境に行くのを止められなかったから、きっと今から側女や見張り番達が、罰せられるに違いないのだ。

 これを聞くと彼は寂しそうに笑いながら返した。「誰も」というのが誰を指しているのか、彼と莢子との思考はずれていた。

「そう出来れば苦労はないが、規律というものがあるからね。それを自ら乱しては、人を統べることは出来ない。」

「だけど」

 それでも食い下がろうとする彼女の言葉を遮るように、彼はその髪に手を伸ばし、そっと触れた。

「あなたが誰を想っていようと、あなたを妻にもらおうとする、私の強引さを嫌うかい。」

 脈絡のない問。意表を突かれ莢子は戸惑った。このように聞かれても、目の前の王をどう思っているのか正直言って分からなかった。

 第一、随分年上なのだ。莢子の恋愛対象の範疇外だ。まるで実習に来る先生と結婚はどうかと聞かれているようだったが、その年齢層をそういった目で見たことはない。

 それを言えば、煙の彼の方が年は近く、先輩ならば恋愛対象に入ってくるだろう。いや、彼らの場合、見た目は当てにならないのかもしれない。

 それでも嫌っていないことだけは確かだったので、その言葉に対してのみ首を振って見せた。にも拘らず、男は安心したように微笑むと、名残惜しそうに彼女の髪から手を離し、立ち上がった。

「では、後で。次こそは共に食事をしよう。人は三食、食べるのだろう。」

返事は聞かずに、笑みを絶やさないまま踵を返す。

「出る」と言わずとも、裏に控えていた側女らが幕を開けた。彼はその間を潜り、行ってしまった。


 さて、昼夜が逆転してしまったようなこちらの生活に、一日で慣れるはずもない。御殿はまだ眠りの時間だ。

 それでも王の出入りに仕えた側女らは、幕の向こうでまだ起きているだろう。けれど、これからの休息時間を邪魔するだろうから、王から言われたように声を掛けることも憚られてしまう。

 さりとて、ここで一人、缶詰め状態で何をしたらよいのやら。莢子は仕方なく、言われた通りに休んでおくことにした。

 頭が一杯だから、丁度良かったかもしれない。布団に体を投げ出し、伏せる。余りに濃厚な時間を過ごしてしまった為に、悶々としている。沢山のことを思い返しては考え、思い返しては、を繰り返す。

 煙がヘビで、王様がクモで、二人共お化けで、ここは鬼か妖怪の世界で、自分はお化けの花嫁になりそうで。

 煙は王様から解放してほしくて、自分にはそれが出来るみたいで、だから初めから利用するつもりで優しかっただけで。

 だから一体、どちら側につけばいいのか、自分は何がしたいのか。いや、それだけははっきりしている。元の世界に戻るのだ。日常を取り戻すのだ。

 そうして布団の上に寝転がって、ああだこうだ考えながら何度も寝返りを打った。その音が耳障りだったのだろうか、幕の向こうから声が掛かった。

「御無礼をお許しください。姫様、起きておられますでしょうか。」

その声はトイレに連れて行ってくれた、頼れる彼女、何時もの側女だ。

 莢子はガバリと身を起して答えた。

「はい。起きています。」

 すると、「そちらに失礼しても宜しいでしょうか」と聞かれたので、「どうぞ」と答えた。

 一人が幕を開け、彼女が入ってくる。その手には黒塗りの御膳が。良い匂いが漂ってくる。

 次こそは一緒に食べようと言っていたのに、どういうことだろう。そう思ったが、疑問は側女が直ぐに解決してくれた。

「我が君より、姫様にお食事をとのことで、お持ちいたしました。朝餉あさげにはまだ暫くございますので、人間であられる姫様には、お辛かろうとのことでございます。」

 何と気配りのある優しい人だろうか。これ程気遣われているというのに、こちらはここから逃げ出して、何時もの生活に戻ることばかりを考えている。

 胸が痛い。優しくされる程、傷が深くなっていく。余り後ろめたくならないように、持って来てもらった食事には、手を付けない方がいいのだろうか。

「こちらで宜しゅうございますか。」

 それでも莢子が頷けば、布団の脇に御膳が置かれた。用意されたのは品の良い、軽めの食事だった。

 実に健康的な日本の伝統料理のようである。精進料理と言ったところだろうか。何も食べていない分、とても美味しそうに見える。

「姫様はお疲れでしょうから、軽めのものに致しました。お気に召さないようでしたら、直ぐに別の物をご用意いたしますので、何なりと仰ってください。」

 本来なら、寝所で食べたりはしない。だが、病気で臥せっているのと同じように主人を気遣い、右女はこちらに食事を運んだ。

 そこまでの配慮は分からない莢子でも、きめの細かい心配りに胸がジンとした。確かに精神的に大変疲れている。食べ物の匂いがこれ程安堵感をもたらすとは思ってもみなかった。 

 向けられた気持ちを捨てるのは辛い。そうでなくとも今すぐ食べて癒されたい。彼女は食べないという選択肢の方を捨てた。

「では、わたくしは外で控えております。」

 用事のみで出て行こうとする彼女を、莢子は引き留めた。それから心配事について尋ねた。

「あの、私が勝手なことしちゃったから、叱られなかったですか。」

 おずおずと聞けば、相手は少し考え巡らしているようで、それから珍しく言い難そうに答えた。

「御安心ください。お叱りは受けません。」

 良い答えを聞いたのに、何故言い難そうにしたのかが不思議だ。それにいやにはっきりとしている。それらの理由は次の言葉から分かった。

「これを打ち開けて良いものか判断が付きかねますが、実のところ我が君は、蛇の皇子が恐れ多くも姫様の寝室に侵入していた件から、全て御存じだったのでございます。」

「えっ。」

 ヘビの王子だと言った。ということは、彼の仲間のあのヘビではなく、煙の方…。だとすれば、

「それって……、ここに来たばかりの、一番初めの、時。」

聞けば、そうだと答えられた。

 予想外の結論。莢子の仮定から話は随分と遡り、側女は詳細を語り始めた。右女は主人より高い位置に居続けるのがはばかられ、許可を取った後、座した。

「姫様をこちらに向かえる仲介人を選出する際、多くの者が手を挙げました。あの者は恐れ多くも外民の分際で、それを願って官吏に直訴したのでございます。」

 彼女が語る話を聞いていれば、初日に生じた幾つかの疑問、王と老婆の会話を消化出来そうだ。

「勿論あの者が選ばれるなど、誰も思いは致しませんでした。ですが我が君は、あの者を選ばれたのでございます。」

 その理由は至極単純で、彼の能力を買ってのことだったそうである。蛇の国でも他国でも一目置かれる存在だったらしい。先のクモの王との戦いぶりを聞けば、納得するには十分だ。彼にはやり遂げようとする強い熱意がある。

「公にはその理由を挙げてございましたが、我が君には、深いお考えがあったのでございます。」

 それほど熱心に自分を売ってきたからには、何か思惑があるに違いない。その理由は元より明らかだったが、くすぶる火の粉は早めに鎮めた方が良い。今度こそ御殿全体を焼きかねないとも限らない。不安要素を無くし、万全の状態で婚儀を迎えたい。その為にも、望む様に泳がしてみようとした、とのことであった。

 だからこそ、莢子が気を失って運ばれた初日、彼女の寝所に煙が侵入したことも、暫くそのままにしておかれたらしいのだ。

「今も姫様を利用せんとする蛇に、我が君の苦悩は如何程でございましょう。あの時も御帳に触れた蛇に気付かれた我が君は、大女おおめ様と共に密かに忍耐なされておられたのでございます。」

 オオメ、とは誰のことなのか。察するに、側女のような役職を持った女性を指しているに違いない。使用人の中でも位が高そうなこの女性が敬っている様子から、あの白髪の老女かもしれない。

「大切な姫様が反乱分子である外民と二人きりになられているのは、どれ程お辛かったことでしょう。」

 莢子は思い出した。老婆が気になることを言っていた。確か、「先の恥辱」、とか。まさかあの遣り取りを知られていたとは思わなかった。今なら老婆の言った意味が、少しは理解出来そうだ。

「されど企みを明らかにすべく、我が君はそれでも耐えられたのでございます。ですから今回のことも、我が君にとっては計略の内でございました。」

「じゃあ、私がここを出ていく時も、起きていたけど、寝ているふりをしてたんですね。」

「はい。申し訳ございません。」

 この話を聞けば、階段下にいた見張り番が居眠りをしていたのも、演技だったのかもしれないと思えてきた。

 側女として常に仕えてくれている彼女達とは違い、交代制だと言っていた。もしか安全で気を抜いていたからだとしても、境以外の全員が寝ていたのだから、今にして思えば可笑しな話である。

 だが、呼びに来た小さなヘビは、見張り番は何時も寝ているように言っていた。この予想が正しいのかは分からない。

 しかし成程。王様が何時もタイミングよく現れる訳が分かった。御殿中に幕という結界が張られていて、常に動きを把握されていたのだ。

 この数時間で余りに多くのことが明るみになった。けれども知れば知る程、難関が厚くなっていくような気がするのはどうしてなのだろう。

 それでも両親への挨拶の為に元の世界に戻してくれるという今夜が、逃げ出す最大のチャンスなのかもしれない。

 それは、良く尽くしてくれる目の前の彼女をも裏切ることになるだろう。今の内からなるべく情を移さないように、親しくならないでいた方がお互いの為なのかもしれない。

 そうした主人の心中を知らず、相手は仕えようと懸命だ。話は終わったとばかりに、次のような甘い提案を持ちかけてきた。

「姫様。御両親様へ御挨拶に窺う前に、お支度として湯浴みをいたしましょう。」

 お風呂かっ。ご飯にお風呂、高級旅館に泊まりに来たようだ。甘い誘惑が莢子の精神を堕落させていく。

「時間が差し迫ります前でしたら、何時でも結構でございます。お気の召すままに、どうぞお呼びになってください。」

 側女はしゃに立ち上がり、決して視線は上げなかった。最後まで伏し目がちで、更に頭を下げてから幕の向こうに出て行った。

 結局莢子は一人きりで、用意された御膳から食べた。その久しぶりに味わったと思えるような白米は、腹にも心にも、大層染み入った。

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