第19話

「これが、お求めになった過去でございます。」

 もう一つの読み聞かせが終わった。圧倒されて、莢子は言葉も出せず、身動きすら忘れてしまった。まるでドラマチックな映画のようだった。彼女の脳裏に側女の言葉が思い返された。

 一番危険な下民はと聞けば、彼女は答えた。ヘビの王子だろうか、と。彼による奇襲のあらましを語った側女は言った。王子は愚かで浅はかな人物だ、と。けれどその一方で、莢子は彼が高潔な思想を持っていると感じていた。

 実際は想像していたような奴隷解放という話ではなかった。それでも、妹を一途に思う兄弟愛に溢れていた。その尊さは比べられるものではない。

 また、他国人の奴隷化についても、国同士の侵してはいけない掟だと聞いていたが、どうやら保身を図っただけの風習なのかもしれないとも思えた。

 側女の話と似ている物語。あの無謀なヘビとやらは、煙の彼のことだったのだろうか。

 ヘビの王子。クモの王。比喩や、象徴ではなかったのだろうか。化け、とは化け物、やはり鬼なのだろうか。よく分からない。よく分からないが、確かなことは、謎のどれかには答えが与えられたということだ。

 自失するように考えに耽る莢子に向かい、煙の彼が一層静かに話しかけた。

「これが私の過去だ。そして、これが私の、今の姿だ。」

 暗闇の中、仄かに浮かび上がるのは燐紛か。

 その淡い灯りに気を引かれて、彼女の視線が移っていく。浮かび上がった人影は、蛍火に包まれているかのように美しい。幻想的なその姿は、まるで夕日を背にして見詰めたあの時の、窓の中の彼だった。

 いや、全く違う。その髪は長くライオンのたてがみのように広がっており、灰のように白い。肌も燃え尽きたようにくすんで白い。目の虹彩も白い。

 その上、炭で擦ったような炎の痕が、剥き出しの手や顔に残っているのが見えた。きっと、全身も同じなのだろう。

「肉体を纏っているように見えるだろうが、ただの幻影だ。君が私に触れたように感じたとしても、私の魄が纏っている煙に触れているに過ぎない。その煙こそが今の私の姿で、人に化けようとすれば、まずこの姿になってしまう。そして…。」

 彼が言うや、再び姿がフッと変わった。それこそが夕日の中で見た、燐紛輝く彼だった。

「君を驚かせまいと、こうして以前の姿に似せて、更に化けていたのだ。それでも気を抜けば、このように火の粉が散る。」

 莢子は納得した。彼が煙に変わる訳、彼の体に散りばめられた燐紛の訳。煙こそが今の本来の姿で、美しい鱗粉は、焼かれた際の火の粉だったのだ。

「知りたいか。」

 それは、遠い昔に聞いたような言葉のようだ。だが、始まりとなった呪文。

(いいや、もう大丈夫だ。もう知った。私が解きたかった謎が分かった。私が解きたかったのは、あなたの正体だった。確かに私は、解いてほしい謎を持っていた。)

 莢子は納得していた。だから首を横に振った。それなのに、彼の言葉は何故か終わらなかった。

「いや、君にはまだ謎がある。尋ねてくれ。求めた君は知るだろう。」

 彼女はもう一度首を振った。欲しかった答えは全て持っている。これ以上は要らない。

「私に、謎はない…。」

 今度は彼が首を横に振った。

「教えてあげよう。私が、何故君に会いに行ったのかを。」

 脳裏に蘇る夏の宵。王は煙を仲介人に選んだと言った。選ばれただけのはずなのに、まるで自らの意思であったかのように聞こえた。謎、確かに、その差異は謎だ……。

「どうして……。」

 莢子の促しに、彼は満足したように頷き、明かした。

「私を、蜘蛛から解放してもらうためだ。」

そして、次こそは己が手で仲間を救う。

 彼女は耳を疑った。知りたかった答えは、全く想像していなかったものだった。否、予想など、そもそも出来るはずがない。彼が与えた答えは、彼女の謎を超えたものだったのだから。その動揺を知ってか、彼は加えた。

「情に訴える卑怯な方法だとは承知している。それでも、機会は今しかない。……君は、その力を持っている。」

 最後の一文は到底信じられなかったが、成程、結婚を出しにして、解放を迫ることなら出来るかもしれない、と思いつく。

 そうか、そういう作戦を、初めから立てていたのだ。最初から、利用しようと、思っていたのだ…。

 急速に気持ちが沈んでいく。だが、映画を観終わった後のように感化されていた莢子は、心が大きく揺さぶられていた。きっと、後数秒遅かったら、裏切られたような気持ちを抱えながらも、彼の話を根拠もなく承諾してしまっていたに違いない。

「私の貴い思い出を、よくもけがしてくれたね。」

しかし、それは来た。

 その場にいた一同に緊張が走った。入口の方から音もなく、にわかにやって来たのは、御殿のあるじだった。

 とは言え、それがまだ離れたところからの声だったので、莢子は身を震わせただけで悲鳴は上げずに済んでいた。

 来ると分かっていたのだろうか。煙の彼は少しも動じていないように、冷静に返した。

「彼女の過去だ。巻き込まれた事態の根本を知る権利がある。そもそも、彼女が求めた謎の本質は、これにある。私が仲介人ならば、私にはそれを彼女に与える権利がある。また、それを認めることが、貴台の筋だ。」

 相手に恐れも感じないように、悪びれもしない。莢子はまた知る。煙に初めから風格があったのは、やはり王子だったからなのだ、と。この彼は、やはりあのヘビの王子なのだ、と。

 御殿の主はこれに対して、きっぱりと告げた。

「契約に至った謎だったとしても、其方までが知る必要はなかった。」

 それから不敵な笑みを口の端に浮かべ、言った。

「この方に命を救われて以来、己を律して相応しくあろうと努めてきたが、これ程の怒りに燃えたのは久方ぶりだ。そう、屋形を燃やされたあの時以来か。」

 口調は落ち着いているものの、確かに憤りが隠されていることが感じられる。時読の話は本当だったと証明された。小学校の時に助けたというクモが、この、王様だったのだ。莢子は二人の間に立ち、一層の緊張から身を固くした。確かに口から心臓が飛び出しそうとは、よく言ったものだ。

 主は時読に向かっても苦言を漏らす。

「お前も勝手をしたね。裏切られた気分だよ。」

 老人は飄々としてこれに返した。

「ほほほ。これは異なことを仰る。爺めは誰の味方でもありませぬ。囚われた身の故、ただここにるまでのこと。読めと言われれば読むのが爺めの定め。それが何で、相手が誰かは、今も昔も問いませぬ。」

 主は呆れるように言った。

「食えない男だ。」

 それから、まるでその場には誰もいなくなってしまったように、莢子の背にだけ目を向けた。

 彼女は恐れて振り返ることも出来ない。一方、闇の中だからであろうか、王は何時の間にか驚くほど急速に、彼女の側に寄っていた。

 既に彼はその背後に立っており、そして莢子の肩から煙の上衣を外していた。気付けば、彼女は肩に別の何かを掛けられていた。その不意なことに、おやと思うや否や、彼女は横抱きにされてしまった。

「きゃっ。」

突然の浮遊感に声を上げる。優しい声を降り注いだのは、王だった。

「このような姿で人前へ出てはいけないよ。さあ、部屋に戻って、今暫し休みなさい。」

言いながら踵を返す。背から掛けられたものとは、女物の着物のようだった。

 彼女はその腕の中から後にする部屋の奥を顧みた。影絵の時と同じ姿の煙が、火の粉を身に纏って輝いている。

「あの男に気を呑まれてしまったのかい。困った方だ。」

眉尻を下げて寂しそうに頬笑みながら、御殿の主が莢子に言う。

 その声に即座に意識を戻して、下から彼を見上げた。優しく微笑まれている。怒っていない。何故……。

 それからはこの場にいる誰もが声を発さなかった。莢子は主に連れられて部屋を出て行く。煙が掛けてくれた囚われ人の上衣は、床の上に捨てられていた。

 官吏を騙した煙の仲間はどうなったのだろう。そして、煙の彼と老人はこの後どうなってしまうのだろう。

 けれど境内はいずれもきちんと管理されているように静かなままだった。部屋を出た途端、昼の明かりが灯されたが、明度は弱かった。

 男は莢子を抱いて階段を上がって行く。そこには両端に立つ見張り番の姿。騒動を収め、戻ってきたようだ。彼らは恭しく頭を下げたが、男はそれに返すこともなく過ぎて行く。

 階段を滑るように上がって行くこと暫く、不意に彼が話しかけてきた。

「あなたは、命の恩人だ。あなたの存在によって、私は変わった。出逢った時から、結ばれることを願ってきた。」

 あの話を聞く限り、命の恩人とは大層だ。クモは十分、自分で逃げられていただろう。何故かは分からないけれど、却ってそれを邪魔したくらいではなかったか。けれど、莢子はそれを口にはしなかった。

 暫く間が空いた後、男は再び言葉を紡いだ。

「あなただからこそ、正式な契約に拘った。契約の成立、それは人と化怪との絶対的な婚媾とされてきたからだ。あなたと、揺るぎなく結び固められたかった。」

 何という強烈な告白だろう。相手の想いの深さに見合わない己に、莢子の身が震える程だ。

「それは確かに成立した……。だがあなたは、真に受け入れてはいなかったのだな……。それならば、何故……、誘いを受け入れたのだ。」

 ギクリとする質問。相手の顔が見られない。王は堪えていたが、表情にその悲痛さが滲んでいた。

「あなたの、謎とは……。」

彼は続けたかった。莢子が求めているのは、囚われ人の蛇だけだったのかと。

「そ……、それ、は……。」

よもや煙に惹かれて誘いに乗ったなど、言えるはずもない。

 彼女が口ごもっていると、ややあって、王の方が言葉を継いでくれた。それは既に彼女の想いを見抜いていた彼が、その真実を告げられるのを恐れたからに違いない。

「それでも、応えてくれたこの契約を、私は解かない。」

 はっきりした決意は、莢子の優柔不断な気持ちを切り捨てる。彼の立場が明確なことが、何故か却って、彼女をホッとさせた。

 それから暫くの後、王はこう加え、それきり口を開かなかった。

「あなたには、済まない。」

胸に刺さる言葉だった。

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