第18話

 老人の読み聞かせが終わった。それでも彼女は夢から覚めないように、我を忘れていた。様々な考えが頭に浮かんでいる。

 全く忘れ去っていた過去。狩られる兎のようなあの時の恐怖。余りに恐ろしかったので、無理に忘れてしまったのだろうか。他人事のように明かされた、全ての原因。

 翠が予防注射だと指摘した痕は、クモが残したものだった。けれどこの痕を、御殿の主は求婚の印だと言った。つまりあれは、クモからの求愛の印だったというわけだ。

 小学生の時に偶然助けることになったクモの王。この痕を残したクモの王。求婚の印だと言った御殿の主。自分と結婚しようとしている、あのひとは…。鬼ではなく……。

「君に聞いてもらいたい過去が、もう一つある。」

 その声に我を取り戻し、莢子の考えは強制的に打ち切られてしまった。煙の彼に目を向ければ、今度は老人に対し口を開くところだった。

「私が蜘蛛の王に囚われた過去を、聞かせてくれ。」

 すると、老人は先程と同じように奇妙な変化を見せた。それが終わると静かに告げる。

「読んだ時をお聞かせしましょう。」

 同じ口上で始まったそれは、莢子の心を深く打つものだった。


 お伽話の始まりは、既にここ、御殿でのことだった。

 その日、数人の仲間を連れて、囚われた妹を救う為に御殿に乗り込んでいた。

 奇襲など、卑怯な手段だと分かっていた。出来るなら避けたかったが、この世界で異例とも言える解放申請書を蜘蛛側に何度も送った末、聞き届けられなかった故の、苦渋の決断だった。外交問題も甚だしい非常識なこと、人数は四人のみ、成功率を上げるには止むを得なかった。

 当然国は動いてくれない。異種族に囚われても、それは暗黙の掟により、見捨てなければならない命だ。だが、妹を諦められない。それは余りにも味方により仕組まれたような、納得のいかない不幸であったから。

 不審感を抱きながら、何もない振りをして、不遇の妹を忘れ去ることなど出来なかった。国に恥を被らせない為には、自分が国を捨てるしかなかった。

 蜘蛛らの寝静まる時を待ち、御殿内に忍び込む。

 囚われ人は御殿の最も内部に、専用の囲いがあるらしかった。だが、それまでに集めた情報によれば、特有の力を持っている者は御領外にあるそこではなく、御領内の別の所で管理されているようだった。妹にはそれがあった。

 仲間の分身が御殿内を探索した結果、御領内にいる妹を探し当てることが出来た。彼を通じて彼女の力を借りることが出来た。

 今もその能力により仲間の全員が他者に化けて、妖力を隠している。そうでなければ潜んで行動することなど出来なかっただろう。

 準備は整い、決行の時が来た。身を潜めて侵入を図る。幾ら壁に囲まれた都であろうと、見張りがいようと、関係ない。鬼火に乗れば、監視の手薄な場所から忍び込むことは容易い。

 仲間からの情報通り、御領に侵入する。不思議なことに、この都は重厚な正門の割に、内部は驚くほど手薄だった。鬼火を扱える者なら、屋外から幾らでも入り込めてしまう。正規の出入り口以外は、どこも薄い布が下がっているだけだったからだ。

 明暗の地と呼ばれるけい。それまでに幾つか潜り抜けて来た幕が結界だったとは、この時誰も、妹さえも知らなかった。

 この階の中央には監視番がいるのは分かっていたが、彼らの所に妹が閉じ込められている部屋の鍵がある。だが、既に仲間の分身が、その鍵を上手く手に入れ、飲み込んでいた。作戦は呆気ないくらい、どれも順調だった。

 中央を避け、を通りながら、妹のいる場所へと向かう。あと少しと言うところ。

 だが、監視番の詰め所には、上層から使いがやってきていた。彼の指令を受けて、監視番らが持ち場から離れ、辺りを調べる為に一斉に動き出す。

 にわかに立った騒ぎが聞こえてくる。目的の場所に着けば、仲間の分身が口から鍵を吐き出した。

 急いで部屋の戸を開ける。と同時、中から妹が飛び出てきた。彼女には既に別の分身を付けていた。

 抱き合って無事を喜び合ったのも束の間、この時には御殿中が騒ぎになっており、侵入者を捕らえようと、境内けいないに警吏が攻め寄せつつあった。

 周囲は異常な緊張感に包まれていた。戸は開いていたが、囚われの身である他の者達は逃げ出さない。逃げ出しても拘束紋が居場所を知らせ、再び捕らえられてしまうことを知っているからだ。

 蜘蛛は他者に対して拘束する力を持っている。解放されるには、自分を捕らえた者を殺さねばならない。進んで解放してくれる特異な者などいないからだ。

 それが分かっていても妹を連れ出す。相手に有利なこの国さえ出てしまえば、迎え撃つのもまだ易いだろう。第一、国を出てまでも捕らえた者を捕まえに来るとも限らないのだ。

 少人数ながら仲間に加わってくれた者は、いずれも精鋭だ。集まりつつある未だ統制の取れ切っていない警吏には劣るはずもない。

 この御殿は室と室の間が橋で繋がれており、そこは都合の良いことに屋外だ。侵入したと同じ、一番近い橋へと向かう。

 暫くの間囚われていたとはいえ、妹もまたとばりと呼ばれた幕が結界だとは知らなかった。その幕を潜らねば、橋には出られない。

 だが、既に道は相手側によって罠が張られていた。橋に飛び出た途端、帳の裏に隠されていた蜘蛛の網が見えた。思うに、帳に接触した箇所から鑑みて、屋外に通ずる危険個所の全てに、同様の巣を張っておいたのだろう。

 被害を抑えようと咄嗟に止まろうとしたが、後方の勢いにより見事に引っかかってしまった。

「曲者めっ。」

 頭上から声が飛ぶ。待ち構えていた警吏らだ。ざっと見、十人ほどいる。仲間の内、背後の妹を左右から守っていた二人は、それぞれ半身の一部にしか網に引っ掛かっていなかった。

 彼ら二人は貼りついた服を裂き、妹の力、つまり化けの皮を引き剥がすことで自由の身となることが出来る。だから捕まえようと襲い来る警吏らにも、迅速に対応することが出来た。

 二人が戦っている内に、先頭を切った自分も網から逃れなければならない。だが全身しっかりと蜘蛛の網に接着してしまっている。手足も自由にならない。そこで背後に控えている無事な妹に、術を解くように言った。彼女は網にかかったままの、先に自由となった二人に与えていた皮諸共、力を解いた。化けの皮が霞のように消えていく。だが、蜘蛛の糸に絡み付いた皮だけは、妖力が干渉しているのだろう、一部が残ってしまった。

 髪一本に至るまで皮で隠していた妖力が漏れる。一重分の隙間を得た。素早く身を引き、先の二人と同じように、未だ貼りついたままの衣を、武装していた剣で裂く。ようやく自由の身を取り戻した頃には、警吏らは仲間の二人によって全て片付いていた。

 だが直ぐに応援が来るだろう。他者に化けられる妹の力を知られるのは危険だ。一部だろうとその痕跡を残しておくことは出来ない。どうする。

 ハッと閃いた。この橋は屋外にあるため、両脇の透かし塀には灯篭が取り付けられている。その一つから行灯あんどん皿を取り出して、網に投げつけた。

 一瞬にして火が回る。その爆発的とも言って良い、予想外の火力に後退る。行灯皿に入っていた油が橋の上に落ち、燃え盛る。この時はただ、その油が炎の威力を

苛烈なものにしたのだと思っていた。

 妹の力の痕跡は消し去れた。炎が飛び火する前に、鬼火車でこの国から退却しよう。橋から抜け出たその時だった。

「成程。不躾な賊が貴殿だったとは、意外だね。気配を潜めるすべが見事じゃないか。色良い返事がもらえないからと言って、乗り込んでくるとはね。」

 蜘蛛の王だ。自ら出向くとは、こちらも想定外だ。背後には見るからに手強そうな部下を連れている。王はチラリと炎に目を向けた。

 こちらの要求を告げると、交互に言い合いが始まった。

「妹を捕らえた者はどこか。私に差し出せ。その者を殺せば、穏やかに立ち去ろう。」

 王の視線が戻る。火は橋全体に回ったようだ。熱気が届く。

「何度も言うが、虫固有の力による他種族捕縛は不可侵だ。誰もが知っているところだが。」

 賊を捕らえようとしてやってきたはずの部下らが慌ただしい。一部の者は消火作業に切り替えたようだった。

「それは詭弁だ。拘束力など元からない。種族間の争いを恐れて、臆病にも見過ごしているに過ぎない。」

「貴殿は賢いと聞いていたが、肉親を前にしては盲目となるか。」

 炎は勢いを増し、隣の建物に移っていく。

「笑止。はぐなればこそ、見える真価がある。」

「うむ。国を捨てたか、潔し。ならば私が相手をしよう。勝てば要求を呑んでも良い。蜘蛛の王がいちにして、豊栄とよさぬしが参る。」

 蜘蛛の王は満足げに言ったものの、こちらに対する怒りが立ち上っているのが分かった。不可解なことに、それは賊が乗り込んできたことでも、捕縛者の解放に対する怒りでもないようだった。

「貴台の名乗り、有難く頂戴いたす。礼を失して申し訳ないが、こちらには名乗る名もない。」

 礼儀を重んじて王は名乗りをあげてくれたが、名乗り返しはしなかった。奇襲をしかけた身では、正当な決闘を受ける資格はないのだから。

 そして、戦いが始まった。

 双方鬼火に乗り、攻防を繰り広げる一方で、仲間もまた同様にして、彼の部下と戦う。王とはいい勝負であったが、妹が懸かっている捨て身の分、こちらが押し始めた。だが、この時王は屋形についた火を抑えるために、力を分散させていたのだ。

 部下の一人がそうしたあるじを案じたのだろう、咄嗟に手を打ってきた。彼の怒鳴り声が割り込んでくる。

「動くなっ。おのが妹を見よっ。」

 それは妹を捕らえし者。仲間は彼女を背に庇いながら戦っていたが、拘束の力を放たれれば防ぎようもない。苦しみに悶える妹が見えた。

 息の根を止めてやるっ。その殺気を対峙する王に読まれてしまった。こちらが妹を捕らえし者に向かって体重を前に移したか否か、王が放った網に阻止されてしまった。

 だからと言って、飛び出そうとした勢いを無かったことには出来なかった。網は鬼火にも掛かっている。

 行動不能になったように、落下する。落ちる先に待つのは、燎原りょうげんの火のような大量の熱。屋形の火の中に飲み込まれてしまう。

 己の身が焼けて分かったのは、この烈火の燃料となったのが、行灯皿の油ではなく、蜘蛛の網であったこと。

 体に貼り付いた網が、灼熱に変わっていく。溶けた飴のような炎を拭うことが出来ない。肉体が焼ける。ここで終わるのか。

 妖力で肉体を保っている我ら化怪ばけ。炎もまた、蜘蛛の王の妖力を燃料にしていたからだろうか、燃える肉体の有機部分は驚くほど速やかに炭と化し、灰と化していった。

 仲間が駆けつけても、打つ手がない。何より炎が行く手を遮っている。仲間が絶望し、叫んでいる。事は為せなかった。済まない。一手間違えたのだ。

 御殿の乾燥した良質な木は、火の勢いを加速する。落ちた私は、炎の海と一つとなった。

 化怪の命の源であるぱく。言い換えれば、妖力を留めていた肉体そのもの。この器が焼けてしまえば、個を成さず、離散して自我を失ってしまう。それつまり、死だ。

 個人を形作っていた魄が流れ出し、覚束無くなっていく。残された仲間を思う。意識が、薄れていく……。

 …まだ、いや、まだだ。魄となっても、決心を果たす。

 立ち上る煙。微粒子の集合体に、霧散しようとする魄を繋ぎ留める。己の器は、煙となった。

 炎の海原から、突如現れた黒い生き物。昇竜のようなそれは、煙で出来た蛇だ。

 蛇は妹を目指して駆け昇っていく。蜘蛛の王が歓声を上げた。

「煙となっても尚化けるかっ。その姿こそまさしく化怪の真骨頂よっ。」

 あだと妹。妹は既に拘束を解かれ、苦しんではいないようだった。二人の一驚を喫した顔が迫る。誰も動かない。仇を討ち、妹を救う。今、呑み込んでくれる。

 刹那。蛇の首に現れたのは拘束紋。くすんだ煙の中に浮かび上がる汚れなき光。蜘蛛の王が言った。

「貴殿を捕らえてやろう。さすれば妹と共に居られるだろう。」

 願いは叶わず、妹は救えなかった。共に来た仲間も、主導者の焼失に動揺する間に、蜘蛛らによって捕縛されてしまった。

 この一件は、落着した。

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