第17話

 彼はカウンターらしきコの字型の、テーブルの向こう側にいた。近付けば近付く程、彼が莢子の接近を見守っていたのだということが分かる。彼にすれば、ここに彼女が入った初めから、それを分っていたのだろう。

 ようやくその表情さえ見えるかという頃、莢子の耳元で鳴ったのは、ヘビとは違った声だった。

「無事に来られたようで、何よりだ。」

 すると、それまで肩に乗っていたヘビも彼女に言った。

「では、私はこれで。帰りにまた部屋までご案内します。」

 そう挨拶するや、莢子が顔を向けるより早く、その姿はもう肩になかった。彼女は慌てて足元も探ったが、この暗さ、見つけることは出来なかった。

「一人で部屋には戻さないから、安心すると良い。」

 懐かしささえ感じる、彼の声だ。莢子は顔を向け直し、声の主に一層近寄った。

「日は、残り二日だ。君には、これから聞いてもらいたいものがある。」

 一歩一歩の近寄る歩みと共に、けれど大きさの変わらない彼の説明が耳に聞こえる。

 危惧したように、繰り返し床に就いている内に、丸一日経ってしまっていたらしい。その事実に莢子は少しだけ愕然とした。何せ三日の内の大切な一日を、トイレ問題だけで終わらせてしまったのだから。

 羞恥のような思考に囚われていた彼女は、一瞬で我に返った。その耳に、彼の声が驚くべきことを告げた。

「それは、君の過去だ。」

 私の、過去…。今まで何の話をしていたのかさえ、思い出せない唐突さ。

「過去を聞けば、この事態を引き起こした原因を知るだろう。」

 家に帰る方法では、なかった。多少期待外れではあったものの、提示されたものは確かに知りたかった答えの一つに違いない。

 それにしても、過去を「聞く」、とは……。

 彼は続いてこのように求めてきた。

「私が聞かせたかった、その全てを聞いた後、君には決めてもらいたいことがある。それを今は言わないが、後で分かる。」

 どこかで聞いたような科白に、またも気が逸れる。不意にした気配は、直ぐ傍にあった。煙が正面に立っており、自分の上衣を脱いでいた。莢子の脇に寄ると、それを肩に掛けてくれた。

 急な接近に戸惑う。前を合わせるように彼がするので、莢子は自分でもそのようにして上衣を受け取った。寒そうにでも思われたのだろうか。だが、莢子とは違って袖のない肌着のような姿となった彼の方こそ、寒そうに見える。上衣は丈が短かったので、お尻辺りまでしか隠れなかった。

「時読を紹介しよう。」

 このような拍子だったからこそ、余計に驚いた。全く気付いていなかったもう一人、別の人物がそこにいた。

 ギョッとすると同時、莢子は先程の監視番が咎めていた件を思い出した。見逃したのは一人どころか計三人だった。叱られる点呼番に、束の間同情が湧いた。

 暗闇の中、目を向ければ老人らしき人影がそこにはあった。髭の伸びた顔。細面の、まるで仙人のような雰囲気を持っている。彼女の不躾な視線と目を合わせた老人は、静かに初対面の挨拶をした。

「お初にお目に掛かります。時読と呼ばれる、過去しか読めない爺めにございます。」

 物腰柔らかく、恭しく腰を折る。その様は中国の時代劇で見るようなお辞儀姿を思わせた。

 煙の彼は補足する。

「彼は人の記憶から過去を読み、それを語って聞かせてくれる力を持っている。それゆえ、時読と渾名(あだな)されている。彼には今から、君の過去を読んでもらう。」

 言われてあんぐりと口を開けてしまったのは、知られたくないものまで見られてしまうのではないかという心配からだ。それを察したのか、煙の彼は説明してくれた。

「心配はない。彼は君が告げたものしか読むことが出来ない。だから君は彼にこう告げてくれ。蜘蛛の王と遇った、初めの時を聞かせてくれ、と。」

 クモの、王。一体何の話だろうか。

 その後の静寂が拘束力を持ち、莢子はそれに従うしかなかった。暫くぶりに立てた声は、掠れて上手く出なかった。彼女は喉を整えながら、再び口を開いた。

「く、クモの王と、初めて会った時を、聞かせてください…。」

 すると、老人がにわかに動き出し、両手を高く掲げながら目を見開いた。爛々とした、出目金の様に飛び出した気味の悪い目。その異様な大きさ。

 その変化に莢子の身が恐れから引いた。耳元で声がする。「案ずることはない。そのまま動かないでくれ」、と。

 その言葉に釘づけになった彼女の体の表面から、風を感じるようだった。つまり、何かが吸われていく気がする。相手を見れば、老人の腹は膨らんでいくようだ。

 見開いた目も異様だったが、膨らんでいくその腹も異様だ。まるでカエルではないか。

 これ以上何が起こるのだろうかと震えるような面持ちでいた莢子だったが、以外にも老人の腹は途端にスッと萎み、目も引っ込み、事態は呆気なく終息してしまった。

 拍子抜けした彼女を余所に、目の前の老人は冷静に告げ始めた。

「読んだ時をお聞かせしましょう。」

 先程のあれだけで、人の記憶から過去など読めるものなのだろうか。第一クモの王とやらに会った記憶など、莢子にはてんでないのだ。

 彼女の不信を無視するように、老人の語りは先へ行く。

「その出逢いは、ある初夏のことでありました。」

 闇の中で繰り広げられ始めた物語。老人のしわがれた声だけが密やかに聞こえてくる。それが一層辺りの静寂を際立たせていくようだ。

 何時しか信用のないこのお伽話に、だが莢子はのめり込んでいった。その静けささえ、気にもならなくなる程に。

 何でもこの話は、莢子がまだ八つの頃、学び舎、つまり小学校と思われる付近で起きた出来事のようだった。視点は勿論このお伽話の主役である、莢子だ。

彼は彼女が見ているように語ったが、次のような内容だった。

 男の子達が何かを騒ぎ立てながら、面白がっている場に蜂合わせてしまった。何事かと様子を窺ってみるに、皆口々に「お化けだ」とか、「クモだ」とか声を上げていることが分かった。

 気になってその騒ぎの中心に向かってみれば、遠巻きに立つ男の子達の輪の中に、確かに一匹のクモが見えた。

 騒ぐのも頷ける。それは有り得ないほど、実に巨大な茶色のクモだったのだから。

 良く知りもしないのにタランチュラよりも大きいはずだと、単純な思考で思った。地面に立つ男の子の足よりも大きい。

 男の子達がはやし立てている。「やっつけちゃえ」、「退治しろ」、「お前が行けよ」、「襲われたらどうしよう」。

 その内に誰かが石を持って来て、クモに投げつけ始めた。それは良いと、一様に辺りを探って石を集め出す。けれど、そうして囲いが崩れた隙に、クモは素早く逃げ出した。

「追いかけろ」、「捕まえろ」、「絶対に逃がすな」。男の子達は正義感に押されたつもりで、いきり立ち、追いかけた。

 突然のことに、その内の一人にぶつかって倒れてしまった。地面に尻餅を突きながら、走り去る男の子達の後ろ姿を見ていた。けれど、思い立って立ち上がる。きっと、蜘蛛の行く末が気になったからだ。彼らの後を追いかける。

 クモが校舎裏にある山の中に逃げ込んだらしい。視界が狭まった男の子達は標的を見失ってしまったが、それでも躍起になってしつこく捜索を続けていた。

 その中に加わって探し出す。それはただの好奇心だったのか、自分でも分からない。だが、男の子達が中々見つけられなかったクモは、案外簡単に見つけられてしまった。

 いや、そうではない。逃げてしまえばいいものを、自ら姿を現したかのように、クモは視線の高さにまで降りてきていた。

 吊り下がった逆さのクモ。そのようなはずないのに、目と目が合ったように思った。不思議な時間が流れていく。只静かに、お互いを見合っていた。

「いたか」、と少し離れた先から声がした。ハッとなって振り返る。木々の間から男の子の姿が覗いた。

 近くに来てしまう。慌ててクモへと向き直せば、何故か逃げもせず、まだそこにいた。

「早く木の上に隠れてっ。見つかっちゃう。」

声を潜めて促すも、どうしてだろう、クモは動かない。まさか死んでしまった訳ではあるまい。

 草を分ける足音が近付いてくる。突発的に決意して、ポケットに手を突っ込み、ハンカチを取り出した。それで目の前のクモを包み込む。

 瞬間、痛みで顔をしかめてしまった。クモの鋭い牙が、手に刺さったようだった。

 ハンカチは小さくて、クモの全体をとても包み切れるものではなかった。それでも構わない、クモを抱えて走り出す。

 その足音に気付いたのだろう、男の子の一人が声を上げた。名字を呼ばれる。

 逃げる姿で知られてしまった。「怪しいぞ。お化けを持って逃げるつもりだ」と、仲間に対する警告の声が上がった。

 一斉に男の子達が集まってくる。次の標的は自分だ。捕まったらどうなるのだろう。恐怖と闘いながら、逃げた。

 背後から石を投げつけられている音がする。それでも必死に山を駆け、遂にある藪の中に身を潜めた。

「どこだ」、「どこに行った」、「隠れてもムダだぞ」、「お化けを渡せ」。様々な脅しが辺りに響いている。息を潜めて、恐怖が去るのを待つしかなかった。

 男の子達は近くの藪をガサガサと探っていたが、幸い見つけ出されることはなかった。それでも辺りを執拗に探し続け、その場から離れてくれることはないようだった。

 それでも息を潜め三十分以上。何の手掛かりもないことに、彼らの熱意も冷めてしまったらしい。ようやく諦め、面白くなさそうに帰って行った。

 けれど山の外で見張っているのではないかと恐れて、それから暫くの間、藪から出ることが出来なかった。ここにいるのはクモと自分、それだけだ。

 つと、クモが身じろぎをするように自ら動いた。かと思うや、半袖から覗くむき出しの肩口に、鋭い痛みが走った。その反動でクモを腕の中から落としてしまった。

 まるで裏切られたような状況に、唖然とする莢子は、クモから自分の肩口へと、そろり視線を移した。針を刺してしまったかのような、小さな血が丸を作っている。それを中心に、赤く細い模様が皮膚の内に浮かび上がっているようにも見えた。

 莢子は再びクモを見つめ、クモも莢子をじっと見ているかのようだった。けれどこの邂逅は終わりを告げ、クモは行ってしまった。莢子は一人、肩を押さえながらそれをいつまでも見送るかのように、佇んでいた。


「これが、お求めになった過去でございます。」

 莢子は知らなかった。肩に現れた文様が、化けた蜘蛛が寄越した求愛の印だったとは。

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