第16話

「姫、姫。」

朦朧とする意識の中に、微かな呼び声が聞こえてきた。

 それでもすっかり疲れ切っていた体では、中々目覚めることが出来なかった。そこで莢子はその声を聞きながら、何度も意識が落ちたり浮かんだりを繰り返していた。

 それをどれ位の間繰り返していたのかも分からない。けれど、ようやく目を開けられるようになった頃には、感覚的に昼も近いのではと思われた。ところが、辺りはやはり夜のように暗く、薄っすらとした明かりが灯されていた。

「お目覚めですか、姫。」

 途端に意識がはっきりして、ガバリと身を起こした。彼女自身まだ頓着していなかったが、初めに寝ていた寝所に戻っていた。

 ほんのりとした微かな明かりが灯されているようだ。この明かりがなければ左右も分からない程の闇の中だったかもしれない。

「声を立ててはなりません。」

蚊の羽音のように小さいのに、よく耳に届く、そのような声。直ぐ様注意されて、莢子は起きたてながらも気を引き締めた。

 必要以上に驚かされたのは、その声が男性のものだったことだ。それも煙の彼ではなく、ご主人様であるあの男のものでもない。だからこそ余計に緊張して辺りを見回したのだが、どこにも姿が見当たらなかった。

「失礼ながら、こちらでございます。」

 薄暗い部屋の中、言われて右を見、左を見る。どこにもいない。勘違いだったかと、もう一度身を横たえた。その瞬間、目の前に何かが見えた。(ミミズ…。)

と思ったが、もっと体付きがしっかりしている。何と、ヘビだっ。とても小さなヘビが布団の脇にいるではないか。

 その意外な登場に、莢子はもう一度飛び起きた。幸い声は立てなかったが、事前の注意があったからではなく、単に驚きが過ぎて喉元に留まっただけである。

「驚かせてしまい、申し訳ありません。」

 何故かヘビは顔を背けるように後ろを向いている。体自体は莢子の方を向いているから、余計に疑問が湧く。薄暗いのではっきりとは言えないが、白い色のようだ。その全長、十五センチというところだろうか。

 どのように話しているのか、声は人のものだ。これも鬼や妖怪の類いだからだろうか。

「良い時にお目覚めです。」

何時から声を掛けられていたかも分からないのに、ヘビはそのような世辞を言った。

「今は御殿中が寝静まっていますので、好機です。この隙に来ていただきたい所があります。そこで、煙が待っています。」

 煙、彼のことだっ。

 莢子の目は輝いた。きっと約束の境に行くのだ。一人で右往左往していたが、何だ、案内を寄越してくれる用意があったのか。しかも案内係がヘビだとは。

 驚くやら脱力するやら、起きたてにかなりの精神的負担ではあったものの、彼女はにわかに高揚した。意志を示す為に立ち上がる。

「あっ、お待ちくださいっ。」

顔を背けたままのヘビは慌てた。

「何か…、上に、羽織るものはないのですか。」

 彼女はこれにも気付いていなかったが、上衣も袴も脱がされており、肌襦袢のような白い小袖だけになっていた。

 そういえば、とようやく思い出す。ご飯に呼ばれ、階段を上がっていたはずだ。我慢していたのに、寝てしまったのだ。

 老婆があのまま運んでくれたに違いない。折角のご飯を無駄にしてしまった。申し訳ない。

 辺りを見回してみたが、元から何もない部屋。布団の上にも何もない。掛け布団を体に巻いて行くのは変だし、何より動き辛い。

 莢子は自分の姿を眺めてみた。確かに今までの装いに比べれば、只の単衣ひとえだ。しかし、誰に見せる訳でもないし、第一、今から人目を盗んで行動しなければならないのだろうし、身軽な方が良い。温泉宿に泊まった浴衣姿だと思えば、何も違和感はない。

「えっと、このままで大丈夫です、けど。」

 彼女が立ち上がって布団から抜け出したので、ヘビはまた慌てて声を掛けた。

「し、仕方がない…。わ、分かりました。お待ちください。失礼ながら、お体に上がらせていただきたいのですが…。」

 見下ろせば暗闇の中、見失ってしまいそうなほど小さい。相変わらず後ろを向いているヘビに、莢子はしゃがんで手を伸ばした。噛まれそうにもない蛇など、怖くもなんともない。

「わっ。」 

急に掬い上げられたヘビが小さな声を立てた。

「し、失礼しました。」

と、恥ずかしそうな声色が聞こえてくる。

 彼自身、ここに羽織れそうなものが何もないことは確認済みだ。ここではその日に着ていた着物を掛けて寝るのだが、彼女は違う様で、柔らかそうな厚みのある布を掛けていた。秘密裏に行動しなければならない為、仕女を呼んで着物を持って来させるわけにもいかない。彼は諦めると、「では、失礼します」と再度言い、彼女の手を抜けて、腕から肩へと上った。

「驚いて声を上げた私がお願いするのもなんですが、出来るだけ静かに参りましょう。」

「分かりました。」

 莢子は第一の幕へと向かおうとしたが、待ったが掛かった。新たな注意事項を告げられる。

「あのとばりは、全て御殿のぬしによる結界です。その気があれば、ですが、出入りの全てを把握することも可能です。幾ら相手が眠りに就いているとは言え、何時気付かれてしまうか分かりませんので、こののちは速やかに行動します。」

 これら全ての仕切りという仕切り、壁という壁にあった幕に、そのような訳があったとは。どこにでも掛かっていたのは、セキュリティの面から見て、必要だったということだ。

 と、言うことは、この寝室は、まるでレーザーセンサーが張り巡らされた、金庫のような場所……。

 大事にされていると言えば聞こえは良いが、監視されていると言えば怖くなる。今から逃げ出そうとしている者にとっては、鳥籠でしかない。

 ヘビは続ける。

「あの出入り口の向こうには仕女がおります。あちらを潜って出ましょう。」

 目が寄るようにして見ても、肩の小さなヘビを捉えるのは難しい。それでも何となくヘビの頭がどちらを向いているのか分かる。この四角いテントから出る際に潜った方、つまり布団の足元の先を見ているのだろう。そこで莢子は枕を背にして左側の、より遠い方の隅に向かって足を進めた。

 帳の前で腰を落とす。どうか見つかりませんように。莢子は固唾を飲むと決意する。直接触れたら警報が鳴りそうで、筒袖を引っ張って腕を縮め、手を隠した。反対の手も同じようにすると、着物の袖で布をそっと持ち上げた。

 あっと。すっかり忘れていたが段差があった。うっかり落ちそうでヒヤリとしたが、すんでで留まることが出来た。

 頭を潜らせると、四つ這いになって抜けて行く。忠告に従ってなるべく物音を立てず、速やかに掻い潜れるように努める。それでも物音一つしない空間に、畳に擦れる着物の音だけが立つものだから、怖くて仕方がない。足音一つしないここの人達に比べ、何と煩いのだろう。

 叱られるか、呆れられるか、それを怖々待つような気持ちで、潜り抜けた莢子は立ち上がった。

「その調子です。」

 ところがまた世辞を言われたので、莢子は尚更身が縮まる思いがした。

 足の裏に集中し、忍びながらも早足で、次の帳の側に向かって斜めに突き進む。寝所の出入り口の方へと振り返れば、確かに何時もの側女達が正座のまま目を瞑って待機していた。

 薄暗いので確かとは言えないが、老婆がいない際に先頭を任される側女がいる。起きているのではないかというくらい、背筋も真っ直ぐに居住まいが正されている。もう一方の側女も同じだ。

 莢子は二人が目を開けるのではないかと、心臓が口から飛び出すかのように緊張が高まっていくのを感じた。

「この時間帯の化怪ばけの眠りは深いとは言え、大きな声を出せば気付かれてしまいます。この後も要所に彼女達が控えておりますので、お気を付けください。」

 何か聞き慣れない言葉を聞いた気がするが、動揺の為に構えない。確かにまだ夜なのだろう。しかも、きっと自分の体内時計はかなり狂っていて、何度寝ても、何度起きても、数時間しか経っていなかったのかもしれない。それで、今はまだ夜中なのだ。

 彼女らにとっても眠る時なのだろう。もしかすると逆に寝過ぎてしまって、丸一日経った夜なのかもしれない。

 息を殺すも、ドクドクとする鼓動が彼女らを起こしてしまうのではないか。莢子は逃げる犯人になった気分で、部屋の脇を進んでいく。

 背を向ければ向ける程、距離が離れれば離れる程、経験したことのないような、鬼から逃げるような感覚に襲われる。衣擦れの音をなるべく立てずに、速やかにと考え、着物の裾を分けて持ち上げた。生きた心地もせずに、膝を丸出しにして走るように、次の帳に向かった。

「こちらは出入り口から行きましょう。」

 裏側に誰もいないことを見越しているのだろう。莢子は緊張から息を切らせつつ、出入り口に進んだ。

 先程と同じように素手を隠して帷を分ける。立ったまま潜れる分、そして分かれた布である分、体を滑り込ませるのも速やかだ。先程の段差のお陰で、此方にも段差があると思い出せていたので、踏み外すことはなかった。

 背後で帳が下がると、目を開けないでと願う側女の視線が切れたことで、莢子は酷く安堵した。

 その後は順調に進むことが出来た。それでも最後の境界の前に立つと、また緊張が押し寄せてきた。帳の裏にある引き戸が、最後の難関かもしれない。戸の裏には別の女人達がいるからだ。就寝時間と言え、側女達のようにいるかもしれない。

 幕を潜った莢子だったが、両手を使って戸を開けなければならないため、帳は彼女の体に触れっぱなしだ。絹布はそうして、彼女の頭から三角に分かれて、背の中央三分の一程を露わにしていた。

 莢子は時間をかけて、ゆっくり開けていく。大変滑りの良い、上質な戸ではあったが、そのスッとした音さえ今は大きい。眉間に力を入れて、歯を食いしばりながら引いていく。何とか体を滑り込ませられるだけ開けると、横向きに侵入した。

 廊下にはやはり別の女人らが座っていた。ここでも緊張は最高潮だ。耳から激しい鼓動音が漏れている。控女達は僅かに頭を傾げ、座りながら眠っていた。

 この廊下も仄明るい。静かで、本当に屋敷中が寝入っているようだ。

 それにしてもこの職場は、勤務しながら寝るしかないのだろうか。交代制でなければ体がもたないだろうに。いや、控女等は交代しているのかもしれないが、顔を覚えていないので分からない。ここの人たちは同じ化粧で判別がつきにくい。

「そちらを左です。」

 ヘビに言われるまでもなく、莢子は頷きながら五の条に向かって足を進めた。

 帳を開けるたび手を使うので、裾を持ち上げ直さなければならない。その度に肩のヘビは居心地悪そうな気配を発してくる。お行儀が悪いと思われているのかもしれない。だが、気配を出来るだけ殺すには、お転婆だと思われても仕方がなかった。

 突き当りに見える階段に滑り込むように身を投じれば、あれ程落下の恐怖を感じた所だったのに、ひと心地着くようだった。

「道を覚えているのですね。」

 頷くことでそれに答えると、ヘビは自身についての話を始めた。

「実のところ、私は先程あなたがだいに来てくださったお陰で忍び込めたのです。助かりました。どのようにして気付かれずにあなたの傍に行けるだろうかと思案しておりましたから。とばりに触れれば気付かれてしまいますからね。」

 そう言った己の言葉に気付くことがあったのだろう、こう付け足した。

「ああ、私の場合、あなたとは違って囚われ人ですから。許可のない階の結界に触れると、特別な反応が起きてしまうのです。」

 階段を下りながら、新しい単語を頭の中で繰り返す。囚われ人。また不穏な言葉を聞いたものだ。それについて尋ねてみたかったが、話の腰を折ってしまうので、今は控えなければならないだろう。

「あの時、あなたが急なことを言ってくださったお陰で、御領内が乱れました。私共のいる境でも珍しく召人めしびとが慌てており、その隙を突いてだいに上がったのです。そこに姫が来られるようだと噂していましたから、待っていました。」

 ヘビは続ける。

「そうして人払いの指示に来ていたあなた付きの側女を追い、最終的にあなたの裾の内側に取り付いたという次第です。」

 幾つかの新単語を拾いながら耳を傾けていれば、成程。自分の我儘が思わぬところで一役買っていたらしい。が、ちょっと待て。これを聞くに、あのトイレのドタバタを半分は見られていたということにはならないだろうか。半分なら良いが、何時取り付いたかが肝心だ。

 踊り場で急に動きを止めた莢子に、ヘビが声を掛けた。

「どうかしましたか。」

「あ、あの…。」

 言葉を濁す莢子だが、ヘビは相手が話すまで待ってくれるようだ。莢子は羞恥に悶えたくなったが、意を決して尋ねた。

「まさか、トイレで脱ぎ着している時に、付いたんじゃありませんよね。」

 トイレという単語が通じないことをすっかり忘れていた彼女だったが、「脱ぎ着」という言葉に察したのだろう、ヘビは慌てたように返した。

「も、勿論ですっ。」

 力強く答えられ、莢子はそれを信じた方が自分にとっても良いと思い、この件については更に追及することはなかった。ところが、実際ヘビが取り付いた次第は、彼女の危惧した通りとも言えた。

 彼は仕女達が厠に組み立てようとしている落ち着きのない時に、自動水洗代わりの川の中程に先ずは滑り込んだ。そこから厠内へと侵入し、莢子が来て、彼女が上衣を脱いだ時点で直ぐ様その中に隠れた。そして用を足した彼女が着物を着直したので、そのまま上衣の裾の内側に取り付いていられたという次第であった。

 だから莢子が憂慮していたように、トイレ事情は見られていなかったが、質問の言葉通りで言うのなら、ヘビの回答は嘘だった。だがヘビを擁護すれば、本当に何も見ていない。何も聞いていないかについては、そういうことにしておく。

 お互いの間に気まずい空気が流れたものの、気を取り直して先に目を向ける。

「階下に見張り番が居ります。慎重に。」

 トイレの行き来の際にはいなかったが、確かにいる。夜だからだろうか、見張り番が二人、階段の下で左右に分かれて立っている。珍しく映るほど、こちらに来て主人以外の男性達だ。

 その装いは明るい色味の上着に、茶のような色の下履きで、それこそ莢子の目には、少年時代の牛若丸が着ていたとして描かれるようなズボンの形だと見えた。

 彼らが立っている両端には、昼にはなかった雪洞ぼんぼりも点いている。その周囲だけはしっかりとした視界が得られるようだった。

 その明かりに照らし出された階段下の見張り達は、器用にも立ったまま眠りこけている。普段余程平穏なのだろう、護衛の任に就いている割に緊張感がまるで無い。首が左や前に傾いているので、起きてはいないと判断出来るほどだ。

「彼らの居眠りは何時ものことです。これだけ結界が張られた屋敷に忍び込む者など、滅多にいませんから。」

 いやいや。莢子はその滅多な事例を既に知っていた。そういえば、その話もヘビの王子だった。そして今使いとして現れたのもヘビである…。けれど、連れて行かれて会うことになっている人は、だ。ただの偶然だろうか。 

 それに、もしこのヘビが当事者なら、自虐的になる今のような言い方はしないのではないだろうか。

 それはさておき、例え奇襲を受けたとしても、問題なく鎮圧出来る力があるとは言え、見張りが眠っていては役に立たない。そう思いながらも、莢子は有難く彼らの脇を抜けてクルリと身を返した。見張りの間を擦り抜ける時の恐怖と言ったらない。

 更に下へと続く新たな階段に入っていく。薄暗さが足元を危うくしていたが、却ってその暗さが高所の恐怖を幾分軽減させてくれていた。おまけに今は緊張と高揚と恐怖とがない交ぜで、とにかく調子が上がっている。  

 だから莢子は手摺さえしっかりと握っていれば、今はこの階段も一気に下りられるとの自信があった。

 時計回りの行程を繰り返すこと暫く。どの階にも同じ装いをした括袴くくりばかま姿の見張り番がいることが分かった。おまけにその誰もが一様に居眠りしていることも分かった。

 厠を求めてだいに行く道中、彼らの一人も見かけなかった。もしか本当は昼にも任に当たっていたにもかかわらず、警備の者まで外させていたのだとしたら…。側女と呼ばれる彼女達の権威の凄さに、莢子は圧倒されるようだった。

 息が切れてきたが、何時見つかるかと思えば、足を止めることも出来ない。唯一助かることと言えば、踊り場までの段数が長いので、同じ方向に回り続けていたとしても、どうにか目を回さずに済んでいることくらいだろうか。

 それでも数をこなしていけば、やはり疲労から足がもつれそうになってくる。段を意識し過ぎて、とうとう錯覚から足を踏み外しそうになってしまった。

「お気を付けて。」

ヘビが静かに声を掛けてくれる。

 莢子は頷いて肩を上下させると、気を入れ直して再び段を下り始めた。次に見えていた階に到着すると、彼は言った。

「ここは御前領ごぜんりょうぐうという階です。御領内ごりょうないで働く、召人めしびとの住まいがあります。」

 最初にトイレに案内されたあの階だ。使用人の住まいの階層だったのか。ということは、あの白髪の老婆もこの階に住んでいるのだろうか。

 そう思えば、慣れたことで弱まっていた緊張感が一気に増す。莢子はどこよりも気合を入れてこの階層を後にし、下り切る決意をした。

「後少しですよ。」

 ヘビの声に押されるように駆け下りると、遂にだいまで来た。そこでまた注意を受けた。

「ここからは更に物音を立てないようにしてください。ゆっくり参りましょう、けいの監視は多いですから。」

 固唾を飲んで首を縦に振る。そして許されなかった境への階段へと、とうとう莢子は足を踏み入れることになった。

 下からはそれまでとは違って雪洞ではない明かりが漏れている。昼時のように煌々とはしておらず、明け方のように微かだ。

 闇に紛れるような訳にはいかない。見えない老婆の圧迫から逃れられたと思ったが、再び緊張感はいや増していく。禁じられた地だとも思えば最悪感すら抱いた。

 それでもこの世界から逃げ出す足掛かりを手に入れるべく、後戻りも、立ち止まることもしない。莢子は決めっぱなしの覚悟をまた決めて、一層息さえ止めるような気持ちで、一つずつ確実に段を下り始めた。

 人の気配にだけ細心の注意を払って、どうにか踊り場まで来られた。ここでまたも注意が入る。

「この階段を下りた先にも、中央に詰所つめしょがあります。そこには我々外民を監視すべく、官吏が常駐しています。階段下の見張りも含め、この階だけは居眠りせずに頑張っていますので、一層身を潜めて参りましょう。」

 御殿内のことを良く知っているヘビだ。彼はこの階の見張りだけは居眠りしているのを見たことがなかった。

 そう、通常ならば外民もまた就寝している時間帯。だが彼らの寝所がある階ともあって、御領内だけで言えば、警備はそれなりにされている。

 それでもヘビには、御領内の警備を何度も確かめられる機会があったということだ。この小さななりが役に立っているのだろう。

 彼の言葉を聞き、またも難関にぶつかったと、莢子の足は止まってしまった。息を弾ませながら、階段が二つ折りとなる踊り場の角から顔を覗かせる。確かにこれまでとは違って、背中しか見えない見張り番の頭は、しゃんと起きているらしかった。

 幾ら息を潜めても、起きている人の前を通り過ぎれば気付かれない訳がない。これは絶対に無理だという気持ちを込めて、向き切らない視線を肩のヘビに向ける。

 彼の頭はしゃんと上がっていたものの、全身で彼女の肩の形状に沿って張り付いている。頭上からの視線を読み取って、前を向いたままこのように返した。

「大丈夫です。今から彼らの気を引くことが起こりますので、見張りが階段の傍を離れた隙に、下りてしまいましょう。」

 何と出来たヘビだろう。ただ呼びに来ただけではなく、手も打ってあったとは。しかし、そうでなければ危険な行動など起こさないというものだ。今から何が起こるか分からないが、暫く様子を窺おう。

 けれど、莢子の予想に反して、それは何故かタイミング良く、直ぐにやってきた。

 実のところ、ヘビの正体は、ある人物の分身だった。別けた体で見ていることも、本体は知ることが出来る。その分身が今から来ることになっている仲間にも付いており、お互いに意思の疎通を図っていたのだ。

 今まで隠れていたのだろう、五の条の端から階段の右脇を抜け、一人の男性が中央に向かって進んで行くのが見えた。何を思ったのか、わざわざ見張りに見つかるように出て行こうとする。

 いや、やはり見つからないようにしたいのか、足音は忍ばせている。それとも、この世界の人達は、誰も足音を立てないのだろうか。それでも策だと聞いていた為か、その姿からは下手な演技のように、どこかわざとらしさを感じなくもない。

 対する見張りにしても、このような時間帯に、やはり意外だったのだろう。階段に向かって右端に立っていた見張りは、現れた男がその横を堂々と通り過ぎても、直ぐには対応できないようだった。

「ま、待てっ。」

 ようやく彼は理解が行って、追い掛けながら慌てて呼び止めた。すると、不審な男性の方も如何にも吃驚したように、ピタリとその動きを止めた。

「その着物、外民ではないかっ。何故この様な時刻に起きているのだっ。」

 詰問した方とは別の見張り番が、剣のつかに手を掛けながら彼に近寄って行く。すると必然的に段下ががら空きに、更に全体的に左側に隙が出来ることになった。

 これが好機なのだろうか。身を踊り出そうとする莢子。だが、待ったの声が掛けられた。

「中央の詰所に監視番の官吏かんりがいます。まだ様子を見ましょう。」

 監視番と見張り番は似た名称だが、勿論役割が違う。監視番の職場は階の中央で、主に外民を監督、管理する。どちらかと言えば就寝時間帯こそが彼らの重要な勤務時間だ。御殿が寝静まる間、外民が不審な行動をしないかを見守るため、交代制で中央に詰めている。

 一方、見張り番の職場は、御殿内の各危険個所で、与えられた配置場所に立って、警護する。万一のことがあれば、迅速な行動が求められる。

 そして今、それが起こってしまった。寝静まった時間帯、見張りが行う尋問の声は思うよりこの階全体に響いている。階段から離れていたにも拘らず、その声に釣られたのだろう、中央から新たに一人の監視番がやってきた。それを見るとヘビが言った。

「動向を窺ってきます。」

 言うや肩からスルスルと下りてしまう。官吏達の手前、もう一つの分身は仲間の衣内に隠れており、視界が得られないからだ。薄明かりの中、その小さな姿は、少し離れただけで見失いそうだった。

 一人残された莢子は落ち着かないながらも、成り行きを見守り続けているしかない。意識を階下に向け直せば、見張り番二人に挟まれたあの男性は、どうやら申し開きをしているようだった。

「すみません。寝入ってしまうつもりはなかったのですが、倉から鼠のような物音がしたので、夢中になって探していたら、時も忘れてしまいまして。いやあ、何時の間にか、そのまま眠ってしまっていたようです。自分でも驚きです。」

 どうしてだろう、彼の声はどこか楽しげだ。詰所の方から合流したての官吏が詰問を代わった。

「外民が何故外に出ている。何かを企んでいるのではあるまいな。」

 脅されても、召人三人に囲まれても、外民の男性は少しも悪びれない。

「とんでもありません。見張り番の方にもお伝えしましたが、本当に倉から鼠のような音がしたのです。探し疲れ、いつの間にか眠りこけてしまったのに、その音で起こされた位ですから。」

 これを聞いて、見張りよりも位の高い官吏が愚痴を漏らした。

「点呼番は何をしていたのだ。一人抜けていることにも気付かずに務めを終わらせるとは、けしからんっ。」

そう呟く。

 莢子はおや、と思った。一人と言ったが、煙の彼に会うのだから、二人抜けていることに気付いていないのでは、と。後で知ったらどうなるだろうという彼女の心配を余所に、下では話が進んでいく。

 官吏が外民の男に尋ねている。

「して、その音とやらはどこからするのだ。」

「はい。十四じゅうしの境の方から。」

 相手はこれを信じ切れない様子だったが、今はこの階を任されている立場上、責任外のことだったが確認せずには終われないということもあるらしい。

「念の為、案内せよ。」

そう命じて、外民に先導させようとした。

 ところが彼は食い下がるように、こう進言した。

「監視番様。見張り番の御二人にも来ていただけないものでしょうか。その方が鼠も発見し易いと思われます。何しろ広い上に、物も多いですからね。」

 そう諭されて、官吏は少し悩むそぶりを見せた。だが、このような時間帯に階段を使う者はいないだろうという読みと、中央の詰所には自分以外の召人がいるという思いから油断した。

 一刻も事態を収拾させたかった彼は、「お前達も来い」と命令して、外民の考えを受け入れてしまった。

 官吏に顎で促されれば、外民の彼は「ご案内します」と、素直に頭を下げた。それから三人を連れて、階段から離れて行った。

「他にも官吏は詰め所に残っていますが、出てくる様子はありません。今の内です。」

何時の間に戻っていたのだろう。ヘビの声だ。

 手摺に預けていた莢子の手から、肩に戻る。彼女は慌てて頷いた。ソロリソロリと、全折れ階段のもう半分に足を踏み入れていく。

 念願の境に足が着く、その前にまたも声を掛けられた。

「下りた通路を中央に向かいます。」

 先程そちらには他の役人がいると言っていなかっただろうか。敢えてそこに近付くのは何故だろう。だが、言われるがまま従うしかない。

 通路へと進入した莢子は視界の奥、つまりこの階の中心に、カウンターがあるのを見た。何かの案内場のような作りだ。その形は八角だったが、大きさは風雅の間に比べれば二分の一程度だ。

 カウンターの上に設置された枠組みにカーテンが取り付けられている。言葉は洋風でも、物は和風だ。それらもやはり几帳のような作りで、机上に置かれた幾本もの足によって、支えられている。仕事中の現在、布は上に巻かれて帯で閉じられていた。二つか三つを除き、それらは全外民が働いている昼に下げられるのだ。

 トイレの為に洗濯場に行く時に目にしたものとよく似ている。きっとあの中はこのような仕事場になっていて、人払いをしていなければ、同じように幕が上がっていたに違いない。

 カウンター内は見通すことが出来、他の官吏の背が見える。詰所だとヘビは言ったが、受付風だとは思わなかった。まるで役所のようだ。

 遠目から見ていた莢子には分からなかったが、八角形に合わさっているカウンターの内部、その中点に当たる部分には、同じ八角形をした黒塗りの欄干が設けられている。

 八角と言っても、一辺ずつ間隔を空けて、つまり四辺分は繋がっていない。では何のために欄干が設けられているのかと言えば、その内側にぽっかりと空いた、大きな、真っ黒い穴のためであった。

 詰所には六人の官吏がいた。八角の一辺につき数人が座れるようになっているのだが、今は一人ずつしかいない。カウンターテーブルの下、つまり官吏達の足回りは作り付の書類棚になっている。皆外を向いて仕事をするらしい。

 階段付近で騒ぎがあったばかりの時は、さすがに彼らの視線を集めていたが、一人に任せておけば大事無いと思ったのだろう、今は机に向かって黙々としている。

 莢子達は丸見えの状態で、彼らの方に向かって歩いていたが、カウンターまでは遠い。通路正面に当たる一辺に座っていた官吏も計略により不在だ。誰一人として頭を上げる気配すらもなく、書類仕事に戻った事務的な音だけが時折聞こえてくる。

「あちらを右です。」

 彼女にすればカウンター側に近付くにつれ緊張感を増していたが、何も中央にまで行くということではなかったらしい。先に言って欲しかったと脱力する莢子は、言われた通り右手側に現れた脇道、つまりに入った。

 そこは召し人達のトイレがあった通路にそっくりだった。真っ直ぐで、左右の壁には帳の部分、つまり入口があり、どちらも手前と奥に二つずつあるようだ。

「右手前から入ります。ここです。」

 どこでも入口は同じ作りだが、ここの布に色味はない。手で退けなければならないので、莢子は持ち上げていた裾を下ろした。何時ものように袖を指先に掛けて素肌を隠す。

 素早く布を分けてみれば、引き戸がなくてちょっと驚いた。しかし、こちらの方が好都合だ。そのまま中に飛び込めば、通路から差し込む仄かな明かりが室内を浮かび上がらせた。

 大会議室かと思われるような、机と椅子がズラリと並んでいる。目新しい部屋の様子が広がっていた。

 通路を挟んで向かい側は外民用の厠になっている。中央から始めれば、詰所があり、厠があり、そして莢子が入ったこの部屋という順番だ。

 ここにある机は長机も長机で、一台につき片側二十脚は並ベられるような長さがある。それらが縦横の乱れなく、部屋一杯にきちんと配置されている。一体何百人収容できるのだろうか。

 帳が閉じていく。室内は明かりもなく真っ暗だ。闇に呑まれて行く。

「煙は奥にいます。」

 今までとは種類の違う、強い緊張感が胸を貫いた。だが部屋は広く、真っ暗だ。居ると言われた人影を、直ぐには見分けることが出来ない。それでも肩口のヘビに先導されるまま、机との間に出来た道を奥へと進んでいった。

 期待感に胸が高鳴る。随分久しぶりな気もする。だが、彼と約束した、三日内の対面だ。

 当初は屋敷の迷路の様な作りと広さに圧倒され、無理かと思われた。だが、煙の彼の手引きにより、このような機会が巡って来た。何と言っても彼は、莢子が日常に戻る為の鍵なのだ。どうしても会いたかった。

 これから何が明かされるのだろうか。ここには知りたかった答えがあると言っていた。何を教えてくれるというのだろうか。

 どこも薄暗かったので、闇に目は慣れていたが、それでも奥にいるという人影はよく分からない。尚も奥へと近付くと、ようやくその輪郭が闇と区別することが出来た。

 家に帰れたわけではないのに、感無量だ。きちんと、約束を果たせたのだ。

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