第15話
条の突き当たりに一つの幕があった。今までにない光景だ。側女達は何時ものようにそれを開けてくれる。その途端、外気を感じた。
現れた光景に、莢子は軽く息を呑んだ。御殿に来てからというもの、いつも新しい世界が開けるときには驚かされてきたが、何度経験してもやはり驚くしかない。
そこはちょっとした広場のようだった。扇型の空間といった印象だろうか。ワンホールのケーキを四等分にした形に似ている。けれど外周に当たる辺に丸みはないので、つまり台形のようだ。入って来た側が底辺であり上辺より短く、今から向かう奥が上辺であり底辺より長い。
一行はその上辺の丁度中点と対面する形で、この広場に踏み入った。それだから、莢子達が奥に行くほど、左右の距離は広がっていく。
ここはつまり、連結路、だろうか、あるいは、ちょっとした休憩場所だろうか。左右は板張りの
壁上に
細工の細かい上品な造りは似ていたが豪華ではなく、素朴な味わいのある黒塗りだ。飾り細工越しの火袋の灯りがやはり美しい。一定間隔で築地を彩っており、闇の中にあってこの広場を照らしていた。
これはどうも、展望台で見た橋に似ていると莢子は思った。上から見下ろした時、区画と区画を連結していた。
仰向けば、一階層上の橋の底が見える。不意に、前方空中で何かが煌めいたのに気が付いた。灯篭の明かりを返して現れる、白っぽい筋のような何か。細くはないかもしれないが、どれくらいの大きさなのかも、それが実際何なのかも、離れている上に暗くて良く分からない。
莢子の好奇心を余所に、一行の歩みは進んで行く。突き当りの壁には別の出入り口であろう幕が二つ垂れている。先導者は、左右の端に設けられた内の左端にある帳を抜けて行く気のようだった。
列は一方の端に吸い寄せられて行くものの、方向としては前方に向かうのを好いことに、先ほど気付いた上空の煌めくものが何かを見極めようと、莢子は仰向きながら進んでいく。その結果、闇夜の中、溶けた飴のようなものが上から流れ落ちていることが判った。成程、火の明かりはそれに反射していたのだ。
納得は出来ても、彼女が口を開けたままなのは別の疑問からだ。何故そこに垂れているのだろうか。また、上はどこからのものなのか。水だろうか、それにしては着水する音がない。分からないまま、一行は幕を潜っていった。
意識を行く先に戻せば、正面にまだ続く、細長い廊下。床が全て板敷きになっている。これも初めての発見だ。
寝ていた階の下、つまり天空領に下りた時には、廊下がそれまでとは違って、両端だけが板敷きに変わっていた。それはこの階でも同じだったのだが、この廊下からは違う。それを言えば、先程の橋も板敷きだったのだが、あちらは橋だと思っていたので、違和感がなかった。
その上、ここの通路では左側が腰高辺りの壁になっており、見上げた高い天井には幕が張られている。もしかすると莢子の寝所のように、ここも入れ子式の部屋なのだろうか。
鳩尾辺りまであるだろう左の壁の上には、カーテンのような幕が下りている。天井からではなく、壁の上に作られた枠組みから下がっている。それは高さが人の背丈よりもあり、間に支柱を何本か挟みながら、廊下の端から端までズラリと続いている。まるで窓に引かれたカーテンのようであり、結局その幕の後ろに何があるのかは隠されている。
対する右側の壁は、それまでの廊下と同じ造りといった印象だ。のっぺりと平たいだけの板張りではなく、化粧板が張られているように凹凸が出来ている。そして細い吹流しのような帷が、それまでと同じように一定間隔で下がっている。
一方、左側の幕の裏側には空間があることだけは察せる。だが、ここもやけにシンとしており、ここに至るまでだって誰一人として会わなかった。本来なら、どこにでも人がいたのだとしたら、人払いの指示は相当なものだ。けれど、今が夜だから人がいないのかもしれないと莢子は思った。
彼女達はこの廊下の突き当たりを、道に沿って左に折れた。その先は今渡ってきた廊下よりも長い。そして向かって右側の壁に、絹布の一部がくっついている所が二箇所あった。つまり入り口があるかもしれないということだ。
対する左側は、道を折れる前と同じで、下半分が壁、否、良く見てみれば机かもしれない、そして上半分が幕。天井との隙間から推測できるように、左にある大きな空間、つまりカーテンの内側は、一つの部屋として区切られているようだ。
一行は右側に二つあった内の、手前の入り口を潜るためにこの通路を折れた。
すると、その先にあったのは、これまた外界に開かれた橋だった。けれどこちらは変形した台形ではなく、橋らしい一直線の道だった。夜のような闇の中にあって、灯る燈篭は幻想的な美しさは変わらない。
莢子はここでもあることに気が取られた。今度は右背後、僅かだが、水音がする。先程前方上空に見た、あの溶けた飴のような水が流れているのだろう。
それに気を取られている内に、橋の終点に待ち受けている新たな帳を越えてしまった。すると、先程と同じような通路に出た。
きっとロの字の廊下に囲まれているのだろう、カウンターのような受付のような机。ここでも上下を半分に分けたような、全く一緒な造りをしている。中に何があるのだろうか、こちらでもやはり物音一つしない。
この区画に来て先程と違ったことと言えば、廊下を右手沿いに行くのではなくて、まず入ったなり左に折れたことだった。
突き当たりの角は右に折れているのみだ。その先を行った突き当たりもまた、右に折れるのみだ。つまり外周に沿って、ぐるりとこの区画を回っていることになる。そこに現れた直ぐ左手にある一つ目の帳を越える。先程の部屋とは真逆の行程ということだ。
莢子にとっては、御殿のどこもかしこも、同じ構造が繰り返されているようにしか見えない。寝所から風雅の間に行った最初の洗礼が少しトラウマになっている。今また同じ経験をするのではないかと予想すれば、眩暈がしそうだった。
既に道順など覚えていない。まるで迷路だ。この帳を越えても代わり映えがしなかったら、呆れてしまうだろうか、焦れてしまうだろうか。何処か祈るような気持ちで、垂れ絹が開かれるのを見届けた。
割かれた絹布。覗く風景。そこはもう予期しようもない、空想的な空間だった。
一本の橋が、夜の景色の中に、灯篭の灯りで浮かび上がっている。橋は、同じようにして浮かび上がる、広場へと架かっている。
その薄い大地が、どこかからの明かりに照らされて、闇夜の中で昼のように輝いている。塀だろうか。木製の低い壁のようなものが、敷地の手前側に並んでいた。
夢を見るような心地で、先導される莢子は橋を渡っていく。一歩一歩近づく度に、壮観な眺めが目一杯に入ってくる。一面を彩るかのような布は何だろう。風に閃いて絶え間なくそよいでいる。けれどこれは、どう見ても公園のような空間を彩るための装飾ではなくて、おそらく、否、きっと洗濯物だ。
竹製の物干し竿に掛けられて、昼の景色の中、夜風にはためいている。まるで子供の日の催し物に掲げられた、沢山の鯉のぼりのようでもあった。
前方にある公園のような、つまり屋外のような空間の何十メートルも離れた両隣を見れば、巨大な箱型の空間が左右に見える。つまり、今から足を踏み入れようとしている区画は床しかないので屋外かもしれないが、両隣は建物内、言い換えれば部屋になっているということなのだろう。
それらの区画と、この屋外の公園のような区画とは、これまでと同じで、行き来が出来るように数本の橋で繋がれているのが見えた。
仰向けば、上層の床裏だ。これほどの天井高、余り見ることはない光景だ。天井と言えば天井なのだが、何故か床裏にしか見えない。落ちてきたらと考えれば、肝が冷えるようだ。
そう、本当に何気なく、このようにして何気なく、辺りを確認していただけだった。そして今更、違和感を覚えた。
変だ。何かが違う。何時も目にしている風景と、何かが違う。どうして、……どうしてこの天井は、床裏みたいに見えるのだろうか。
そう、第一に壁で繋がっていない。第二に柱…、柱があるわけでもない。
この場所はどうだっただろう。橋に繋がる床。上は昼の景色で、下は夜の景色で。漏れる昼明かりが、床下を仄かに露わにしている。
ゾクッとする。ここも、上も、もしかすると、今まで渡ってきた橋も、支えがない。浮かんでいる。
莢子はハッと息を呑んだ。男に連れられて展望橋に行ったが、そこにも支柱はなかったのではないだろうか。あの時はずっと鬼火車に乗せられて浮いた状態だったから、橋が同じように浮いていたとしても注目もしなかった。
不安定な、土台のない屋外。頭上の巨大な床が落ちてくるのも恐怖だが、足元が落ちることを考えれば、もっと背筋が寒くなる。
違和感だらけの御殿。夜風に吹かれながら、昼の景色に立ち、屋外でありながら、一面の床板。まるで空中を板張りで埋め立てた、浮島のようだ。だが、この床が板敷きであるからこそ、今立っている場所もやはり外ではなくて、建物内部なのだと主張している。
信じられないことは、まだ他にもある。この部屋には、川が流れていたことだ。
緩やかなS字を描くように、右の端から区画の中央を通り、入口に立つ彼女らの方へと流れ、左へと曲がる。川はうねりを描いて流れる大河のような形を作り、この部屋の右端から左端へと流れている。この広間が公園のようだと思ったのはその為だ。そして川の両岸に、色取り取りの着物が整然と干してあった。
この時、莢子はまだ気付いていなかったが、入口側に敷地を区切る塀のように並んでいた壁は、棚であった。中にはたらいや棒のようなもの、洗濯板や洗剤のようなものなど必要なものがズラリと片付けられている。
流れに沿って川下に目を遣れば、布で四角く囲まれた小さな箱を見つけた。例のトイレは、あれなのだろう。女性が立っている。
仕切りは川の両岸に渡っていたので、布の下から水が流れ出るようになっている。そしてこの敷地の端から滝のようになって、正真正銘の外へと流れ落ちて行くらしかった。
川は一体どのような造りなっているのだろう。展望台から見た時には千メートル級の建物に感じたが、幾つか階段を下りただけで地上に近付いたとでも言うのだろうか。それで少しの高さなら水を汲み上げることが可能なのだろうか。
いや、そうではないだろう。周囲は暗かったから定かではないが、橋を渡る時、いずれも標高の高さを、その空気感を肌で感じていた。今ここに居てもそれは同じだ。
けれど、水を引き上げるポンプの音はどこからもしない。地上に近いなどと信じることは出来ないこの外気感にも拘らず、やはり水はどこかから汲み上がって来ており、流れを作っている。
「姫様、あちらに用意が整ってございます。」
前を行く側女の声に釣られて景色から目を離す。やはり川下のあれが即席のトイレだったらしい。そこに立っていたのは、きっと命じられて先に出た側女に違いない。
やはりこの短時間で準備するには難しかったのだろう。四方を囲んでいるのは板ではなく、前述の通り大きな御帳のようなものだ。
その時不意に、何の脈略もなく莢子は思った。改めて思った、思い返したと言っても良い。洗濯物がこれほど大量に閃いているというのに、誰もいないということを。
ここまでの道程、誰一人として出会わなかった。また行く道、行く道、すっかり静まり返っていた。それらは今自分が夜更けだからなのではなくて、命令が行き届いていたからではないだろうか。
何故ここに来て、今またこのことに注視したのかと言えば、遠く、部屋の片隅に、大きなたらいに入った洗濯物が沢山置いてあったからだ。
それは作業を中断して、邪魔にならない場所に集めた跡でしかない。きっと夜勤の者達なのだろう、何十人、何百人もが先程まで働いていたのだ。
この様な想像に達した莢子は、己を先導している女性の権威に目を瞠った。いや、権威があるのは姫という立場の方なのだろうか、それともやはり、あの王様の言葉の方なのだろうか。
どちらにしても自分の口から出た我が儘一つで、大変なことをしてしまったのに変わりはない。己の一言が何百人もの行動に影響を及ぼしてしまった。そのことに莢子は後悔と恐怖とを感じた。
先頭の側女が一足先に厠用の仕切りを潜って、中を確認する。残りの二人が帷を割いた状態を保っている。
再び姿を現した彼女は脇に控えた。厠の中は問題がなかったのだろう、莢子が通れるように道を開けたのだから。
「何分端にございます。ここは壁がございませんので、くれぐれもお気を付けください。」
「は、はい……。」
申し訳なさから委縮しつつも、ここまで来て、無かった事には出来ない。莢子は恐れる思いで側女たちの顔も見られず、俯きながら進んだ。
中に入ると、外から見たよりも大きい空間に感じられた。両岸に渡された布の下から川が流れ込んでいる。上に布はなく、明かりを反射する上階の床裏が抜けて見えている。
川は五、 六メートルという幅があり、板張りの床と同じ高さの水面だ。また、川上から川下まで全て岩板敷で護岸されている。川の端から三メートル程の幅がある石畳による岸は、洗濯番が着物などを広げ敷いて、棒で叩くなどして洗う場所となっていた。
トイレ代わりの壺は、その岩盤に設置された台の上にポツリと乗っていた。思ったよりも随分広い厠内を眺め回していると、外から側女が声を掛けてきた。
「姫様、不備はございませんでしょうか。至らぬ所がございましたら、何なりと御命じください。」
振り返ると、帳は既に閉じられていた。不備など、何もない。トイレットペーパーではなかったが、懐紙のようなものも畳んで壺の脇にちゃんと用意されていたし、ごみ捨て用の紙袋も置いてある。
とんでもないことをしでかしたと悔やんでいた莢子は、これらの行き届いたもてなしに殊更感動して返した。
「こんなにも良くしてくださって、本当に、本当にありがとうございますっ。我儘を沢山言っちゃって、本当にごめんなさいっ。」
感謝の念を拙い言葉でしか言い表すことが出来ないのが悔しい。
あまり表に出なかったが、珍しく側女は慌てた。
「とんでもございません。我ら如きにそのような御言葉、勿体のうございます。我が君に御叱りを頂いてしまいます。下々に対する謝罪などは今後一切なされませんように。」
断然たる進言も何のその、感動に呑まれている莢子はそれを打ち消すように返した。
「でも私、本当に感謝しているんです。この僅かな時間に、私が望んだ通りに叶えてくださって、どうお礼を返したらよいか。」
「その御言葉だけで身に余る光栄でございます。これからも誠心誠意仕えさせていただきとう存じます。それでは、私たちは離れた所で控えておりますので、御用の際は御呼びください。」
初めの厠で要求したことを覚えてくれている。莢子は彼女達への好感度が益々上がっていくのを感じながら、感無量で川の方に向き直した。
川下は直ぐそこだ。水がその端から流れ落ちて行くのが見えそうなくらいだ。外側から見たら滝のようになっているだろう。けれど、落下の音はほとんど立っていない。莢子の記憶の中の映像と結びつく。橋で見かけた飴のような水は、この川と同じような仕組みになっているのだと唐突に理解した。
流れ落ちていくところをはっきり目にしたかったが、壁がないからと注意されていたのを思い出し、今は用を済ませることにした。
ようやく取り掛かってみたものの、慣れぬ着物を脱ぐのに洋服の何倍もの時間を要す。着物を床に下ろす際、素直に感心したのは石畳の滑らかさだった。
護岸用の川渕に設けられた岩は、黒くごつごつとした自然の状態なのだが、床に敷かれた岩板は同じ材質でも鏡のように磨かれている。自分より少し離れたところの方が、よりはっきりと映り込んでいるのが見える。
袴も脱いでしまえば、浴衣のような姿になった。莢子は壺を取りに行く。個室にしてもらったとは言え、それでもかなり広くて落ち着かない。誰もいないというのにやっぱり恥ずかしい気持がした。
用を足した後、壺を川の水で洗い、余った紙で拭いてから台の上に戻した。手も別の紙で拭くと、紙袋に捨てる。袴を履き直しに掛かったが、脱ぐより慣れない。顔を赤くし、額に冷や汗をかきながら、どうにか終えられた。
ようやくホッと息を吐けた。結び目も不格好にはなったが、上衣を羽織れば誤魔化せるだろう。
己の姿に納得して幕を出ると、驚いたことに、あの白髪の老女が立っていた。アッと声を立てるより早く、老女は離れて控えていた側女の所から、実に速やかに莢子の許へとやってきた。
「姫様、御自分で出られてはなりません。私共が幕を開けますので、どうぞ御声掛けください。」
それから嘆かれてしまった。
「何でも、御召し物もご自分でなさりたいとか。御屋形様の御叱りを恐れて消え入りそうでございます。」
相変わらず頭をやや伏せ気味にして畏まり、目線は外されているが、漏らす苦言の威力は和らがない。
お説教はそれだけではなかったらしく、立て続けにこうも言われてしまった。
「よもやこのような所に御出でになられるとは存じてもみませんでした。詳細はこの者から聞きましたが、
言葉を重ねられる度、莢子の身が縮んでいく。ところが、お説教は彼女だけに留まらなかったので、その縮ませた肩がパッと直ってしまった。
「浅はかで危険な判断を下したこの者達をきつく罰しておきますが、姫様も主君の許可なく出歩かれるようなことは、今後どうか御控えなさってください。」
これを聞き、にわかに莢子はこの文頭に憤ってしまった。よもやこの怖い老女に反論するなどと、自分でも思ってもみなかった。
「この人達を、罰するですってっ。」
その言葉の強さに相手はハッとした。立場の違いを顧みて取り繕おうとしたが、その言葉を遮って莢子は続けた。
「この人達は私の一方的な我儘を嫌がらずに叶えてくださった恩人ですっ。お礼を言って当然の人に、罰だなんてっ。」
その途端、彼女は自分の勝手が他人に害まで及ぼしていることに気付いてしまった。憤りは急速冷却され、反動のように顔が紅潮していくのを感じる。急にしどろもどろになって、莢子の方が弁解し始める始末。
「あ、え、と、あの、ううん。私、が、私が、皆に迷惑を掛けてしまったから、あの、ごめんなさい。どうか、この人達は怒らないでくださいっ。
そ、それにっ、あの、ご主人様に、好きにしていいって、言われていたので、その、ごめんなさいっ。」
卑怯な手段だが、もうこうなっては、万事を解決してくれる無敵の印籠を掲げるしかない。どうにかこれで免罪出来ないだろうかと、頭を垂れ、目を固く瞑り、賭けの結果をビクビクしながら待つ。
ところが老女は、この印籠ばかりでなく、莢子の謝罪に恐れを成して固まっていた。何せ相手は主君が遜るような相手なのだ。このことが知られたら一大事になるに違いない。自分こそどのような御叱りを頂くか分かったものではない。彼女もまたその心中が表情には余り出なかったが、声は飛び上がるようだった。
「姫様っ。
老女は即座に平伏し、床に頭が着くほど下げた。そして続ける。
「どうか私めをお許しください。御言葉通りに、この者達には今回の責を問いませぬゆえ、平にご容赦くださるようお願い申し上げます。」
一身に許しを請う老婆の姿。表情の少ない側女達だったが、それでも目が見開かれていると分かる。このような上司は見たことがなかった。彼女達は己が仕える姫なる女主人が、どのように偉大であるのかを、当人の意思とは裏腹に今はっきりと知った。
同時に、その上司が平伏しているというのに、立っているわけにはいかないと、側女らは同じように膝を突いてその場に伏せた。
一方、莢子は老女の言葉に、頭を下げていた姿勢のまま、そっと目を開けた。上目遣いに相手を盗み見て驚いた。即座に自分も床に膝を突き、老女に手を伸べる。
「どうか頭を上げてくださいっ。強く言っちゃってごめんなさいっ。私も迷惑かけてるなって分かってたんですけど、でも、どうしても、こういうトイレが欲しかったんですっ。」
もう混乱する事態ばかりだ。何もかも収拾がつくというのなら、直ぐに泣ける。だが、泣きたくても泣いているわけにもいかない。
何より、この一連の騒動の切っ掛けは、如何せんトイレなのだ。そこに境にまで行きたいという思惑を込めてしまったのが、一層後ろめたい。今の自分は、我が儘姫に癇癪持ちが追加されたこと決定だと己を顧みつつ、発端となった事の小ささに莢子は虚しさを覚えた。
立ち上らせようと添えた彼女の手を、一層畏れるように老女は低頭したまま返す。それでも彼女の持つ威厳は、少しも失われていないようだった。
「滅相もございません。己の至らなさに消え入りそうでございます。姫様には御不便を御掛けし、謝罪の言葉も見つからぬ程に悔いております。この上は一刻も早く姫様の居室に同じものをご用意させていただきたいと存じます。」
莢子は驚くと共に、素直に喜んだ。
「本当ですかっ。ありがとうございますっ。」
けれど事の苦労を考えれば、諸手を上げてばかりもいられない。まさかこの規模、つまりこの区画を丸丸同じように用意する、などと言い出さないだろうか。
「だ、だけど、無理は言いません。今度からもここを使わせていただけたら、それでいいんです。」
何せこれまでに十分無理を言ってしまった。
やんわりと断った直後、彼女は言葉が足らなかったことに気が付いた。
「あ、人払いとかも、しなくて大丈夫なのでっ。」
しかし、老女達にも呑めない一線というものがある。
「恐れながら、御立場を顧みられますように切に御願いを申し上げます。姫様が御気になされることは何もございません。全てこちらにお任せください。」
これ以上は埒が明かない。譲り合いの平行線になるだろう。どちらにしても迷惑を掛けるなら、せめて今は彼女達の言葉を呑んでおく方が良さそうだ。
「……分かりました。お願いします。」
境に近い場所という利点もあり惜しまれる。だが、とにかく助けてくれた側女達が罰せられずに済んだのだから、それが一番だ。
一件落着した後、その場で着物を着つけし直されそうになったが、気恥ずかしいこともあり莢子は固辞した。
その後、老女を加えた一行は何時もの配置で、来た道を引き戻った。聞けば食事の準備が整ったとのことで、老女は莢子のことを探していたのかもしれない。
戻るということは、そう、あの階段を上らねばならないということだ。
下から見上げて、ウゲッと品のない喘ぎが口を突いて出そうになった。渋々上がり始めた莢子だったが、一階分も上がらない内に息を少々切らせてしまった。
すると、己の背後にその息切れを聞いた老女が鬼火車を出し、主君であるあの男のように彼女を運び出した。どうやら老女には側女にない権限、あるいは能力があるらしい。
お陰で莢子は難なくエスカレーター方式で階段を上ることが出来た。ただし、老婆は主君が運んでくれた時に比べると、ゆっくりと移動した。それは、彼のように姫の身を抱えることが許されていなかったからかもしれない。老女は莢子の手を軽く取りはしたが、脇に立っただけだった。
ところが、その速度と、ぐるぐると繰り返されるような行程と、道中の静けさが彼女に思わぬ効果をもたらし始めていた。きっと今までの騒動や緊張から疲労していたのだろう、眠気が差してきたのだ。
そう言えば、一体今は何時なのだろう。簡単に考えて、こちらの世界に来たのが七時頃だとして……。
けれど今までに一度は気を失い、一度は泣き寝入りをして、そして何時でも外の景色は夜のままだという条件を鑑みる。十分時間が経ったように思われるし、体内時計に従えば、夜中はとうに過ぎているに違いなかった。もうすぐ夜が明けるのかもしれない。
だがそうなると、先程の洗い場の夜勤だろう人達は別にして、自分に仕えてくれるこの女性達は、その高位の立場から見ても時間外労働に決まっている。ああ、何から何まで申し訳ない。私ももう寝るから、皆さんも寝ましょう…。
道々欠伸を噛み殺しながら、老女に付き添われて上がって行く莢子。立った状態のまま寝てしまう訳にはいかないが、思考は既にフニャフニャだ。これまでの心労が彼女を眠りへと強引に
先程の厠は、後一段で約束の境に行けた位置にあった。けれどこの行程を思えば、トイレはやはり部屋の近くに造ってもらった方が良い。絶対だ。
(これは、我が儘じゃない……。もう、寝る、寝てしまう……。これも、仕方がない……。)
行程から来る疲労感に、そのような甘い誘惑がまるで子守唄のように頭の中に去来する。それから数分もしなかったというのに、莢子はすっかり眠りに落ちてしまった。
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