第14話
(え、ここが、ゴゼン領。)
思わぬ到来に下がっていた顔が上がる。
ここに、境がある。そして、確か「グウ」より更に二階下だと言っていたような気がする。領域的な区分ではこの中なのだろうが、階層的に言えば、この二つ下に彼がいる、そういうことなのだろうか。
その気持ちが湧けば、どうあっても後二つを下りてしまいたいと欲が湧く。けれど咄嗟のこと、莢子には良い案が思いつかなかった。
連れられるままに五の条を中心の方へと進んでしまう。どの階であってもこの位置にある廊下は、この名で呼ばれるのは前述通りだ。
けれど、この条には途中で枝分かれしている道が何本かあった。変則的に差し込まれるその短い廊下のことを「渡り」と言う。
先頭の側女を追って暫く進めば、道の先に見えてくるのはこの階層の中央だ。そこには風雅の間のような部屋がないようだった。天空領と同じく、空間自体の規模も小さく、二分の一程の面積に見える。だが、そこには壁がなかった。
まるで受付のような机が、八角になるように並んでいる。人気は一切ない。受付内部の空間にも業務用と見える机や低い棚などが垣間見えたが、どれも整理整頓されており、全ての机の上には備品が一つも置かれていないように見えた。
また、その空間の中心に近い場所には、朱色の欄干のようなものがチラリと見えた。机類が白木の色味をしていたので、一箇所だけに許されたようなその鮮やかさは莢子の目を特に引く。だからと言って全体像が見えるわけでもなく、部屋の中に設けられた欄干に一体何の用途があるのか、皆目検討もつかなかった。
誰もいない受付机までもう少しという所で、先頭を行く側女は右に折れ、渡りに入った。その先には、命令を受けて一足先に向かったあの側女が待っていた。とは言うものの、余り見分けが付かないので、莢子には確かではなかった。
彼女の姿が見えると、待っていた側女は莢子から向かって左壁の中央に下がる、幕の一方を持ち上げた。そのまま裏に隠れていた引き戸の一方も引く。すると、莢子の後ろに付き従っていた側女が前に出て、先の彼女と同じようにして、もう片方の戸も開けた。つまり、ここには控女が居ないということだ。
先導役の側女が言った。
「姫様、どうぞこちらへ。一の
莢子には耳慣れぬ言葉だったが、どうやら目的地に着いたと見て間違いない。勧められるまま中に足を踏み入れて、驚いた。何と言うことだ。
(ここは、草原……。)
彼女は狐につままれた気分になった。
広っぱの一面に見えるのは、確かに草だ。単子葉類の丈の短い草が密生している。部屋の外周にはススキが美しく並んでいる。しかも秋ではないのに、白い穂が美しくしな垂れていた。
鼻腔を刺激するそれら植物の良い香り。そんな馬鹿な、とは思ったが、この爽やかな草原の中に、確かに公衆トイレを彷彿とさせる衝立が、個室を作って並んでいた。
それらは木で出来ており、上は人の背丈までしかなく、下は膝下が見えるほど空いている。それがズラリと続いているものが、数列分設置されていた。
もう見慣れたような部屋の規格だが、ここは実に七十畳ほどあった。厠と言う割には、足元に生える草地の総面積の方が、トイレのものよりも広そうである。
「姫様は、こちらをお使いになられてください。」
ひたすら呆気に取られつつも、草を踏みしめ案内された一つの箱の前に立つ。見れば片開きの戸になっていた。
「お召し物を解かせていただきます。」
突然そのように言い出したので吃驚した。
「だ、大丈夫っ。自分でしますっ。」
莢子は抵抗する。
けれどこの度は相手もそれは呑めないようで、しばし言い合いが続いたが、結局は側女の方が折れてくれた。
「では、私共は外で控えておりますので。」
姫に言われた通りにしようと踵を返し、しぶしぶ離れる。しかも莢子の要求通り、この草原部屋の外にまで行ってくれるようだった。
ホッと息をつきながら暫くそれを見送っていた彼女だったが、我に返ったようにトイレの一室に向き直った。
戸を中へ押し開けると、正面に見えたのは、台の上に乗った壺の様なものが一つ。
…………ま、待って。彼女は焦りを覚えて壺を覗き込んだ。
何と、草が入っている。周りに生えているのと同じ、トゲトゲの草だ。
急いで周りを見渡したが、紙らしきものもない。台の下を覗いたが、どう見ても排泄される仕組みもない。
これも文化の違いか…と、思いは達せど心が決まらない。莢子は自分を疑って、他の個室も覗いてみることにした。
勿論同じ仕様である。思い切ってそちらの壺の中も覗いてみた。草に隠れて見えないだけなのだろうか、使用感がまるでない。臭いも全くしない。莢子は己の姿を顧みて、それ以上は踏み込まずに外に出た。
使い方が分からない。結局、用も足さず彼女は厠から出ることにした。
その気配を察して、入口で待機していた側女が幕を開けた。
「お済みになられましたか。」
丁寧に聞かれると、逆に気落ちしてしまう。莢子はおずおずと返す。
「あ、あの、教えてもらっても、いいですか。」
側女は察して即答する。
「配慮が至らず、お許しください。恐れながら、使用方法を説明させていただきます。」
そう言ってから頭を下げつつ、莢子の脇を通り過ぎ、先導し始めた。
的確に言えば彼女が求めているのは使い方ではなかったが、疑問について教えてくれるのだから受けて損はない。ところがトイレという場所全般について一から説明し始めたので、側女を止めて莢子は聞きたいことについてのみ尋ねた。
「あの、そうじゃなくて、その、壺みたいなものなんですけど、やっぱりそれにするんですよね。」
と、台の上を指さす。
壺は個室の外から衝立の下を軽く覗いても見えない高さにあったが、壺の上にしゃがむのだろうにしては台が高過ぎる。おまけに乗り上がる幅が十分にない。
側女は答えた。
「左様でございます。
ヒバコが何か知らないが、やはり壺を跨がなければいけない、ということか…。
「あの、じゃあ、した後は、どうしたらいいんですか。」
「姫様がされることは何もございません。このままお捨て置きください。」
最も知りたかったのは、その後のことである。
「やっぱり、誰かが捨てに行くんですか。」
「捨ては致しませんが、
意味が良く分からない。が、莢子が求めていたトイレとは完全に違うということは理解できた。
つまり、おまるを部屋に運んでもらうのと余り変わらない。彼女は正念場とばかりに食い下がった。
「そうじゃないんです。ごめんなさい、ここまで連れて来てもらったけど、私、自分で流したいんです。そういうトイレに行きたいんですっ。」
何という訴えだろう。まさかこのようなことを真面目に熱望する日が来るとは思わなかった。自分で流したいって、何。
側女もまた、初めて返答に長く詰まってしまったようだった。けれど莢子はその間の四秒も経たぬ内に、言葉を追加した。
「文化の違いで分からないかもしれないんですけど、どこかに自分で流せる所はないでしょうか。水で流すんです。それに、紙だって必要なんです。」
言葉にすると切羽詰まって来た。この事態が解消されなければ、ここには数日といられない。
だが、今の言葉で思い至った部分があったらしく、側女はようやく答え始めた。
「こちらの不手際をどうかお許しください。姫様は
恐れながら、御領内に川屋はございませんが、水が流れる所は幾つもございます。ですが、ここから一番近い所で申しますと釜場でございますれば、益々姫様のお立ち入りになられる場所ではないかと存じます。
多少のお時間を頂けますれば、相応しい場所をご用意することも可能でございます。ですがお急ぎとあらば、簡易ではございますが、
「窯場……。」
焼き物でもする所だろうか。不確かさが声に出たが、それを察して側女が答えた。
「左様でございます。窯場と申しましても、勿論、主君用の
主君用っ。全く安心ではない。どんどん訳が分からなくなってきた。水があれば良いというものではない。
「早まらないでくださいっ。ご主人様用の場所でだなんて、出来るはずがありませんっ。」
我がまま姫にも程がある。
莢子は泣きたくなってきた。まるで誰かに縋り付くように、独り言のように、考えを纏めるかのように漏らした。
「他に、他にどこかないのぉ~っ。汚れた水を流すような所っ。そうっ、洗濯した水を流す所でもいいかもしれないっ。でも、例えば泥だらけになって、それを流す所なんかがあれば、一番いいんじゃないかしらっ。」
これを耳にした側女は思案し、これもまた乗り気ではなかったが、その結果を提示した。
「左様でございますか。御領内ではそのように酷く泥で汚れるようなことはございませんので、窯場以外で汚れた水を流すとなりますと、やはり仰います通り、洗い場でございましょうか。されど、姫様をお迎えするには、こちらも相応しくない場所でございますれば…。」
その言葉を遮って、先を言わせない莢子。
「そこでお願いしますっ。というか、そこもまさか、お皿を洗う場所とかじゃないですよねっ。そうじゃないなら、ぜひ連れて行ってくださいっ。お願いしますっ。」
藁をも掴む思いだ。
いずれにしても沢山の人に迷惑をかけそうだったが、背に腹は代えられない。どうにかその一角に、隅っこの隠れた場所に、自分専用のトイレが欲しい。出来れば滞在している間中、ずっと。
そのようにせがんでみたところ、やはり先のご主人様の言葉は重かったらしく、どのような我がままでもまかり通るようだった。
「どうか姫様、それ以上はお止めください。下々に対して勿体ないお言葉の数々、恐れる余り消え入りそうでございます。元はと申せば、こちらの不手際でございます。何卒お許しください。」
側女は莢子に深々と頭を下げると、このように続けた。
「姫様のお望みは、我らが望みでございます。御言葉通りにさせていただけることこそが、我らに与えられる喜びと心得ましてございます。」
何という見上げた忠誠心か。ただの我儘がこのように美化するとは驚きだ。それがトイレについてだということだけが、この感動に水を差している。
莢子は身に余り過ぎる忠誠心を向けられて、他人事のように感服した。彼女が夢見心地でいる間も、働き者の側女は主人である莢子が急を要する事態であると認識し、指示を仰ごうときびきび尋ねてきた。
「では姫様、如何様に取り計らせていただきましょうか。」
聞かれて莢子は気を取り戻し、自分なりに解釈したことで返答に挑戦する。
「え、と…、さっき見た厠みたいに、小さな部屋になっていて、あの壺でもいいんですけど、中に草はいりません。
で、出来ればその部屋の中に、水が流せる場所があると助かります。でも、周りに誰もいないなら、流す場所は少し離れてても大丈夫です。後、紙も欲しいです。それを捨てる袋とかもあると助かります。」
互いの認識の違いから、彼女の説明もまた理解が難しかっただろうに、側女は「畏まりましてございます」と答え、再び別の側女に指示を出した。
「急ぎ二十二の
姫様が御渡りになられる所は、何人たりとも近付けてはなりません。勤めている最中であろうと構いません、出払わせなさい。」
とても理路整然としている。莢子は己の頭の中も整頓でき、お陰で別のことにハッと気付けた。
「あ、絶対に、その水路の上の方とかは止めてくださいっ。もう、捨てる水が直ぐに見えなくなっちゃうような、下の方で良いのでっ。」
今度は水路だと言う。それがどのような構造で、どのような規模のものかも想像できないが、彼女達の思考を顧みれば、上手の方に用意されかねない。
側女は少しだけ頭を下げてそれに応えると、
「姫様の御言葉通りに。可能な限り川下に設けなさい。」
と、指示を付け足した。川下、という言葉が引っ掛かる。庭のような所に、川があるのだろうか。
これを受けると、側女の一人は再び速やかにその場から離れて行く。無事に用が足せたら、必ずお礼を言おう。莢子は申し訳なさから決意した。
「では、姫様、参りましょう。」
また一人抜けた三人の一行は、再び四の条に出ると階段へと引き戻る。だが上には登らず、更に下に向かうようだった。
莢子の目が輝いた。先程から我儘が思わぬ成果を生み出している。
約束の境はここから二つ下だと聞いた。ダイと言うのがどこかは勿論分からないが、もし二つ以上下がるのなら、通過できることになる。
期待しながら、先を行く側女の動向を見守った。慣れて来たもので、階段は初めより怖くはない。後三段、後二段。残りの段数を数えあげる。あと一段っ。よし、次の階段に行こうっ。
けれど、側女は体をクルリと回すことはなかった。いや、回した。だが階段を外れて、その向こう側に回ったのだ。つまり時計回りに尚下には向かわず、今度は階の中心から離れて、着いた階の四の条の奥へと、外側の方へと向かって進んだのである。
先程の側女の指示によれば、つまり、ここがダイということになる……。そして境は、ダイの一つ下。
次の階へと続く昇降口の一番上で立ち止まり、折れて続く階段の下を覗き見てしまう。あと一つ、後、一つなのに。境がそこに見えているのに。
「姫様。こちらでございます。」
ハッと短く息を吸った。首を回すように階段の手摺越しに見れば、先頭を行く側女が振り返って待っている。そして莢子の後ろにいた側女の方は主人の背後、二段上で下り切ることも出来ず立ち止まっていた。
「あの、この下が、例の境なんですよね。」
気持ちのまま、思い切って尋ねてみる。
少し離れた位置にいた先頭の側女が、速やかに引き戻ってきた。しかし正面には立たないで、目を伏せながら脇から答えた。
「左様でございます。」
直後、湧き立つ心とは裏腹に、強烈な忠告が鋭く飛んだ。
「姫様、どうか私の言葉を御聞きください。
異端の者に興味をお持ちになられるのは、毒蜂の巣を覗かれるのと同じでございます。隠されているからこそ開けてみたいと思われる御気持ちはお察しいたします。
ですが、これだけは如何に姫様の御望みであろうとなりません。どうぞ私の命をお取りください。」
畏まって微動だにしない彼女。
命懸けの説得に、莢子は驚愕した。先の忠誠心を見た後で、それでも呑んではもらえないことがあったとは。それが、まさか下民に関することだなんて。
しかし、それこそが彼女の本当の願いなのだ。とは言え、己の望みを叶えるか、彼女の命をもらいうけるか。そのように重い選択をしたい訳ではなかった。
同時に、境に下りるとはそれほど無謀なことなのかという重みも感じる。分厚い壁が立ちはだかってしまった。自分は本当にこの階段を下りられる時が来るのだろうか。
莢子は引かれる思いを、今は断ち切ることにした。
「そんなこと、するはずがありません。命を大事にしてください。」
そんな月並みな言葉。
「勿体無い御言葉、胸に刻ませていただきます。」
「案内、お願いします。」
彼女の方から促すと、もう下を顧みることなく前へ進むしかなかった。
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