第11話

 潜った幕の向こう側、昼のような明かりの中から、急に夜の野外に飛び出した為、莢子は一瞬目が眩み、身を固くした。奈落に放り出されたような気がしたからだ。

 それでも体は前方に移動し続けている。闇の奥、仄かな灯りが周囲を取り囲むように、並んでいるのが見えた。

 しっかりと男にしがみ付いて、瞬間的なその恐怖をやり過ごすと、直ぐに目が慣れてきた。真っ直ぐな通路が前方へと伸びている。奥に並んでいる灯り以外に、電灯のようなものはないらしい。だから余計に、この一本道の先で滲んでいる輝きが、希望のように美しく、温かく莢子の目には映った。

 ようやく気持ちが落ち着いてきた。周囲をより観察できるようになって来た。今進んでいる道の両側には欄干がある。暗くてそれ程良く見えないが、床は質の良い板張りのようだ。細長い板を一枚にしたような合板ではなくて、太い幹を縦斬りにして、そのまま寝かせたようなダイナミックさがある。もしかすると一本だけでこの道幅が出来上がっているのだとしたら、余程大きな樹だと推測できる。

 床を観察していた流れで、自然と彼女の視線は己の足元へと近付いていく。そこから放たれている明かりに彼女の意識が引かれたと言っても良かった。今まで疑問だった移動方法、不動のエスカレータが終わっても、今度は水平型エスカレーターなのか、未だに自動的に前進している。その原因が判るであろう明かりを目にした瞬間、長らく硬直していたはずの彼女の口元は、簡単に解けてしまった。

「うわぁっ。」

 突然、ここ一番の勢いで体を押し付けてきた莢子に、男も動揺した。

「燃えるっ。」

と、言いながら足元に向かって手を扇ぐ彼女がいても、乗り上がる勢いでしがみ付いてくる状況に男の思考がついていかない。彼の方こそ硬直してしまい、彼女の腰に回した腕が役にも立たず、当初の位置のまま空手となってもピクリとも動かせなかった。

「これ、これ、危ないっ。」

 何度か服を引っ張られて漸く男は我に返った。騒ぐ彼女の視線の先を見れば、青い炎が燃えている。

「それは」

と、言いかけた男の言葉が聞こえていないのか、莢子は一人で騒いでいる。

「あ、あつっ、あつっ。」

 男は愛しい人がしがみついてくれているこの状況が惜しくて、炎の正体を明かすことが真っ先に躊躇われた。が、可哀そうでもあったので、やはり落ち着かせてあげることにした。

「それは鬼火だ。鬼火車。害はない。大丈夫だ。熱くはないから、大丈夫だ。」

解き聞かせるような言葉は、混乱している莢子の頭にも染みる。

「あつ……く、ない……。」

「そうだ。熱くはない。」

「燃え、ない。」

「ああ。燃えていないだろう。」

と、優しく諭される。

 騒いでいる間も燃え移らない、熱くもない現実を直視して、莢子は「うん」と頷くしかなかった。

きざはしの時からこれに乗っていた。あなたに傷一つ付けないから、安心して。」

「……は、はい。」

 急に一人で騒いでいたことが恥ずかしくなってきた。莢子は下を向いて赤くなる顔を隠しながら、気まずい様子で男から離れた。

 だが、男の手は相変わらず彼女の腰の位置にあったから、元に収まっただけだった。それでも、彼女の重みが体から去ってしまうことを寂しく感じた。

(鬼火だって…。)

 有り得ない行程で連れて来られた世界なだけあって、誰も彼もが、どれもこれもが妖しいのは当然だ。鬼火と言うことは、この男は鬼なのだろうか。ここは鬼の世界であって、この人は鬼の王様なのだろうか。鬼ヶ島というのは、本当はこの世界のことを言っていたのだろうか。

 民話級の世界観をつらつらと考えている内に冷静になれた莢子は、ふと我に返った。焦点も合わず無意識に下がり気味だった視線を上げると、移動している細長い通路の突き当りを確認する。

 左右に伸びる橋のような道とTの字で連結している。どちらも縁取りのように欄干が設けられており、その上に一定間隔で木製の灯篭が設置されている。今進んでいる一本道にも明かりがあったなら、大階段から出た途端にゾッとすることもなかったかもしれない。

 和紙越しに輝くその柔らかな明かりは、何とも懐かしい気分がする。どうやら欄干は朱塗りのようだ。灯篭もまた同じ色味をしていた。

「あなたが見たいと言ってくれたものが、この先にあるのだ。」

 莢子がついつい引かれて男の顔を見上げてしまったのは、その声が嬉しげだったからだ。会う度に優しそうに微笑んではいたけれど、楽しそうなのは初めてだ。いや、初めから楽しそうだったかもしれない。

 そう思い返している内に、急に現実がぶり返ってきた彼女は前に向き直った。空想的な現象に心を奪われている場合ではない。作戦中だということを忘れてはならない。気を引き締めた莢子は、今し方告げられた男の言葉について考えた。

(私が見たいと言ったのは、御殿の中のことなのに、それがこの先にある、のかな……。

 模型、だったり…。いやいや、勘違いして御殿の全貌を見せてくれようとしているのかも。)

 他に考えられるとすれば、今まで居た所が御殿の中ではなかったという説だ。離れ的なこの建物を出て、本宅に向かっているのだとしたらどうだろう。どちらにしても見識は広がるに違いない。

 同じ時、仄かな明かりに照らされながら、「実に、ここまで来た」と、男は万感の思いに満ちていた。

 今日という日が迎えられることだけを夢に見、この五年余りの月日を邁進してきた。それが今、こうして現実となっている。

 思えば、まずは力を付けようと、我武者羅に走るしかなかった一年目。満足のいく形で娶ろうと、言い伝えを聞きかじっていただけの知識を確認すべく、先代の仕来りを調べ出し、それを踏襲するならばと焦った二年目。

 余りに短い猶予しかなかったので、焦燥感に駆られ続けた三年目からだったが、それから早数年、着実に築き上げることを怠ることはなかった。果たして彼女はこれを受け入れてくれるだろうか。「充分」の境目が分からなくて、それだけが常に心配だった。

 品の良い灯りが、闇の中に道を浮かび上がらせている。突き当りへと連れられて行く莢子は、周囲の空気、また風の音から再び緊張が高まっていくのを感じていた。

 いや、初めからだ。外に出た瞬間、空漠感にも似たぽっかりとした浮遊感に襲われた。それは単に、急な明暗の差による錯覚からだけではなかったのだと、意識が張り詰めていくのを感じている。

 ここは、やっぱり…。

 考えたくはないが、何かが変だ。灯りで浮かび上がる通路。床と、欄干、では支柱は…。左右に伸びる橋。その上にも下にも、何もない。闇に紛れて見えないのか。

 迫ってくるT字の交差点。それを過ぎても尚直進すれば、左右に伸びる外側の欄干にぶつかるだけだ。それは腰の辺りまでしか高さがないので、否応なしに入る力と、益々強張っていく身体。莢子は無意識かのように安全を求めて、もうずっと男の服にしがみ付いたままだった。

「さあ、こちらに。」

 彼にはそれが唯嬉しくて、不安は期待と交じり合い、目的地に着くと頬を緩ませて言った。

「ご覧。これがあなたに見せると言った、私の屋形だ。」

 既に彼女は息を呑んでいた。だが、恐怖からではなかった。

 眼下に広がる絶景、幻想的な光景。闇の中を端々に広がっていく御殿の灯り。モノクロの世界に輝き浮かぶ、夢の箱庭。想像だにしていなかった風景が、視界一杯に飛び込んでいた。

 莢子が感じ取っていた通り、立っている場所はかなりの高所だった。それはまるで緩やかな尾根を描く山頂から、下界を見下ろしたような鳩尾の空く感覚。それでいて箱庭を作った製作者が、ミニチュアの町を俯瞰から眺めているような絶対感。ここはまさに、主が己の城を支配し、眺望するためにある場所と言えるだろう。

「うっ………………。」

 突然出された唸り声が、男を酷くドキリとさせた。ゆっくりと視線を移し、彼女の表情を盗み見る。これほど背筋が寒くなったことはあっただろうか。

「わぁ~~~っ。」

彼女の呑んでいた息は、感嘆となって一気に漏れ出た。

 余りの感動に、足元の覚束おぼつかなさも、高所による緊張も一気に薄れてしまった。男の服をぎゅっと握っていた手も緩んでいる。それどころか前のめりになっていく彼女の体を、男は急に金縛りが解けたような様子で、慌てて引き留めたくらいだった。

 初めて目にした異界の居住空間は、時をさかのぼったようでいて、どこにもないような建築様式だった。和風なようでいて、独自の文化が醸し出す妙な雰囲気に心が高鳴る。

 虜になった莢子の横顔が、灯篭の灯りに照らし出されている。男は彼女の目の輝きに、心底からの安堵と喜びを感じながら、愛おし気に見詰めた。

「どうだろう、気に入ってもらえただろうか。」

 敢えて肯定してもらいたくて口に出したのだが、途端、解けたはずの緊張がぶり返った。彼女の表情を見る限り、否定されるとは思えないけれど。

 受け入れてくれたことを笑顔で告げてくれれば、この五年は間違っていなかったと自分を慰めることが出来るだろう。けれど、彼女の視線は眼下の絶景から離れることはない。その間、男は息を呑んで待っていたが、彼女が茫然とした様子でコクンと頷いてくれたのは、それから更に暫くの後だった。

 その衝撃よ。男の体は胸の奥から湧き出る、暖かな歓喜に呑まれてしまった。成果を認められることが、これほど嬉しいだなんて。

 一方、この肯定が彼女にとっての引き金となったのだろうか。急に油の回りが良くなった機械のように、勢い良く口を開いた。

「すっ、…………ごいですっっ。凄く綺麗っ。ビックリしましたっ。高さにも、景色にもっ。夜に浮かぶおとぎの国みたいっ。本当に素敵っ。すごいっ、ビックリッ。」

 子供のような感想しか出て来なくても、夢中になっているからこそと思えば男の喜びは増すだけだ。彼の体一杯に詰まっていた歓喜が、遂に頭の天辺からプシューと噴出する。

 それと同時に緩んでいく表情筋。莢子は気が取られていて知ることはなかったが、彼は嬉しそうにくしゃっと笑って、「そうか」と言った。

 まさか自分が寝かされていた部屋が、これ程の高所にあったなどと彼女が想像できたはずがない。眼下に流れ広がる瓦屋根、整然とした美しい街並み。御殿は実に左右対称の山のような形をしていた。

 実のところ、三百六十度に裾を伸ばすこの御殿は、中心の八角形を基調としている。また、この屋形の館の主や官職持ちの詰める中央部分は、階が下がる毎に一回りずつ、外側に区画が増し加わっていくという規則性を持っている。一方、中央部以外では一段当たりの外周に広がる割合が、下に行くほど倍掛けのように増えていく。

 このようにして輪を描き足すように外へ外へと建物が増え広がっていく姿が、棚田のような美しさを、また、ゆったりと裾に向かって伸びていく山のような外観を形作っていた。

 これらの規則性から言えば、今莢子の目には、段々に下りて行く瓦屋根のみが映っていることになる。その中に木々の頭や野原が見えている部分があるとすれば、それこそ屋外に当たる区画か、庭のような区画ということになるだろう。

 ところが、瓦屋根もなく、単に仕切られた庭でもない区画が、そこかしこに幾つも点在しているのを彼女は発見していた。驚いたことに、それらは目を凝らせば凝らすほど、どうしても室内であるとしか思えない。

 確かに屋外の広場や公園的な部分も沢山見えている。だが、は屋根が取り払われている為に、内部が剝き出しになっているように見えるのだ。室内だからこそ調度品があり、四辺が壁で囲われており、内装もされている。やはりどのようにかして明かりを得ているのだろう、室内は昼のように明るい。山裾に行けば行くほど、そうした部屋の割合が増えていくように彼女には感じられた。

 まるでミニチュアセットのようではないか、鳥瞰図のようではないか、生活が外部に晒されているなどと。一つの都市のような巨大な街は、確かに人を乗せて生きていた。

 見れば見るほど不思議な光景だ。敷地内は整然と区画分けされており、規則性を持っている。中央部以外は一段下がる毎に倍掛けしたかのように面積が伸びていくので、上位階の屋根で視界が遮られることが少なくなっていく。お陰で、一つの層内の細部も、下に下りるほど良く観察できた。

 そうして見れば、互いの建物、或いは区画を連結しているのは、道と言うよりも、今莢子達が立っている場所のような橋だと分かった。しかも、ここよりももっと頑丈な造りらしい。橋の両脇は欄干ではなく、まるで築地塀のような壁となっていたからだ。

 眼下に広がる瓦屋根の軒先はどこも反り返っており、その先端に灯篭が吊り下がっている。屋根は普通、最頂部となるむねがあり、そこから下に向かって低くなっていく造りをしている。

 ところがここの屋根は軒先以外、まるで陸屋根かのようだった。瓦はお互いに重なり合うというよりも、さね加工の入った床材のように、平たく敷き詰められて見えた。

 ひとしきり見渡して満足した莢子は、ふと己に使命があったことを思い出した。急に夢から覚めた様な気になって、取り繕うかのように尋ねた。

「そ、それで、御殿って、どの辺りまでなんですか。」

 きっと今立っている部分から数段くらいのものなのだろう。だからと言って、どこも同じような造りで統一されている為、はっきりとした境目が分からない。まずは自分が攻略すべき領域だけでも区別しておきたいと、彼女は考えていた。

 莢子は自分が前提から間違っていることに気付いていなかった。彼女が煙に連れられて来た時に気を失っていなければ、地上からの全体像を目に出来ていたならば、この都のような街が山肌だけに築かれたものではないことが分かったかもしれない。山のような姿をした街の内部までもが、全て建物で埋め尽くされている、言い換えれば、建物によってこの山が築かれているとは思ってもいなかった。

 だから、相手からの答えがこの度も予想を越えており、彼女の推測を蹴散らすかのようだったとしても、真意までは理解できていなかった。

「ここにある構築物、端から端まで、全てだ。」

「ふ。」

思わず、失笑してしまった。

 莢子の引きつった頬は、高所による緊張からか、馬鹿げたような科白の為か。

(五十里って、確か言ってたけど、五十キロって、これくらいなのかしら……。うん。反対側にもありそうだものね……。)

 単位の変換が間違ったままでも、たとえ正しく変換できていたとしても、莢子は気が遠くなる思いがしただろう。

 まさか見渡す限りが御殿だったとは…。この中から煙との待ち合わせ場所を探し当てなければならないのだろうか。たった三日しかないのに、誰かにズバリと聞く以外、到底無理でしかない約束をしてしまった。彼女の顔は蒼くなっていく。

 因みにこの世界では、一里は約五百メートルだ。一里は莢子の考える一キロではなかったし、男の御殿も五十キロの半分にも満たなかったが、常識外れの広大な住まいに圧倒され、彼女の頭が真っ白になるのは変わらない。

 眼下に広がる光景は細部まで精巧に入り組んでおり、一つの街とすらも言えず、最早一つの都市である。この規模の敷地なら、何処かのお金持ちも所有しているだろう。だが、非常識だと思ったのは、この全ての構築物が「御殿」、つまり個人の邸宅だったという点に他ならない。

「領地」だと紹介されたのなら、「感心」で終わっていたことだろう。けれど眼下に広がっているのは確かに、「家」と表現した方がしっくりくるのかもしれない、長屋で敷き詰められたような姿だからだ。

 せめて城下町と言ってくれれば、まだ納得もし易かった。この家はきっと、衛星からでも黙視出来るに違いない、などとユーモアを差し挟まなければ、莢子はやっていられない。

 全てが緻密に整備され、管理されている。そう、やはり場所があるからと言って、個々人が好き好きに家を建て、それらが所狭しと連なっている雑然とした風景ではないのだ。ある種、平安京のような区分けが、都全体になされている、そのような景観だ。

 この秩序正しさが、確かに一人の個人的な所有物を、各所、各人に使用させた結果なのだと理解させる。

 末端に至るまでの完璧な統一感。また、それが莢子の住んでいる世界の家の形ではなかったからこそ、橋で繋がっている一区画一つ一つを、その中で壁に仕切られた一つ一つの空間を、確かにであるのだと納得させた。

 玉の輿も、玉の輿……。彼女は溢れる悲壮感に、心で泣いた。どうやったらこの偉い人の求婚を断れるのだろうか。

「……どうだろう。足りなかったかな。」

 不意にそのようなことを聞かれて、莢子はまたも我に返った。見れば、何故か男は心配そうな顔をしている。彼女があまりにも熱心に見続けるので、却って不安が湧いてきたに違いない。

 …え。訳が分からない。何が足りないって。莢子はブンブン首を振る。「あり、あり過ぎじゃないですか」と、舌も回らずに返した。

 すると、どうだろう。

「……そうか。」

男が至極、ほっとしたように漏らした。

 その、とても不思議な感想。まるで成果が誉められて安心したような、先程とはまた少し違った子供のような顔。今度は確かに莢子の耳に入った、「そうか」、その一言。

 けれど、莢子には彼の言葉を通して、別の人が見えた。

 同じ言葉を、彼も言っていた。目の前の人と同様に、隠し切れない嬉しげな、それでいて泣きそうな顔で。

 彼女はもう一度、自分の使命に立ち返る。

「じゃ、じゃあ家なら、それぞれの場所には、やっぱり部屋の名前がありますか。」

それで合っているのかは分からなかったが、住まいと言うからには各部分に名前があると踏んで、果敢にも尋ねることにした。風雅の間を紹介されたくらいだ、他にもあるに違いない。

「ああ、勿論だ。」

 即答された言葉は、望んだものだ。待ち焦がれた瞬間がやって来た。彼女はどうしても「ゴゼンリョウ、ケイ」が、どこであるのかを把握しておかねばならなかった。

 彼は指をさして説明を始めてくれた。

 それによれば、今二人がいる場所―――と言うよりも、階層と言った方がいいだろうか―――この天望橋だけの領域にも階層名が付けられているらしく、「至天閣」と言うそうだった。見ての通り、御殿の中で最も高所に位置しているらしい。

 一方、風雅の間を含んだ、莢子が寝かされていた階層のことは「天領閣」と呼ぶらしい。至天閣と同様に一等地な為、極僅かな者しか入れないという。

 天領閣の下の階層からは、数階層が一括りにされた「領域名」というものが付いているらしく、「天空領や、天下てんげ領などがある」と教えてくれた。

 これを聞いた瞬間、莢子の耳はハッと立った。語尾に「リョウ」の字が付いている。

(リョウだってっ。何々リョウだってっ。出たっ。近いっ。)

 けれど待望の「ゴゼンリョウ」の名は聞かれず、次の説明に行ってしまった。

 天下領から上の階層は御殿の中核で「御領」と総称し、それより下の階層は全て「領外」と呼ぶのだそうだ。

 この御陵と呼ばれる区画は一つの尖塔のように御殿の中心にそびえ立っている。そしてその頂上に位置する天領閣の上辺に、天望橋が天空の路により連結されている。天望橋は建物の基調と同じ八角になっているので、遠方から眺めると尖塔に輪っかが嵌まっているように見えるのだ。この輪を「天輪」と呼んだ。

「領外も場所に応じて、一の丸、二の丸などとあるのだが、それは生活する中で追々知ればよいだろう。」

 言葉の雰囲気的に、急に終わりの気配がしてきた。莢子の心はざわつき、焦った。

(ま、待って。「ゴゼンリョウ」って、「ゴリョウ」のことなの。「ケイ」って、その中にあるの。)

 落ちそうで落ちないコイン落としを見せられているようだ。もう一枚追加とばかりに、引き延ばしにかかる。

「それで、次は中に戻って、それらの階層を見て回るんですよね。地図とかありますか。ここって迷路みたいだったから、照らし合わせて回れたら、頭に入り易いかなって。」

幾つかの思惑を隠して誘ってみたのだが、

「あなたが望むなら、幾らでも連れて行ってあげるつもりだ。だが地図の必要はない。私もいるし、側女達もいるからな、迷うことはないよ。」

と、後半はにこやかに却下されてしまった。

 前半を受け入れてもらえただけでも、また一歩前進だ。そのことに希望を得て、再度出発の催促をしてみたのだが、返事はまたも芳しくなかった。

「残念だろうが、今は無理だ。その前にしておきたいことがある。」

「え、でも、民の前に行くって、確か…。」

 彼女の頭には、その為に支度したんじゃなかったのかしら、という疑問が浮かんでいる。ところが相手はちぐはぐにも、それを肯定した。

「ああ、その通りだ。だが、民と言っても、今回は家人けにんのみになる。あなたを披露し、忠誠を捧げさせる為だ。婚媾の儀を終えたら、御殿で暮らす領外の民にも披露する。」

 言葉の端々に見える突飛さに息は詰まったが、行動範囲が広がると思えば、背に腹は代えられない。絶句したのを好いことに、彼女はそのまま都合の悪いことを聞き流してしまうことにした。大衆が集まる場所まで行けるなら、何か拾えるかもしれないのだし。

 それよりも、今はまだ他にも確認しなければならないことがある。話の段落でそれに気付き、意識して息を吸い込んだ。そして、如何にも今思い浮かびました、という体で切り出した。

「ところで、今は何時ですか。時計とかって、どこかにありますか。それとも、星の動きで計ってる、とか…。」

 そうなのだ。時間の区切り、それは場所の把握と同じ位に重要なこと。

 猶予は三日。それが時間にして後どれ位残されているのか、正確なところがこちらに来てから全く分からない。それを知る為にも今の時間を把握しておく必要があったし、そもそも基準となる計りを得ておかなければならなかった。

 とは言え、星を見つけても、それで時が計れる自信は全くない。それでも彼女は己の言葉に釣られたように空を仰いでみた。

 屋外に出て来た時から、空に星があるようには見えなかった。だが、仰いで良く見たら、一つくらい見つかるかもしれない。何せこの時代感だ、天体時計や日時計ならあるかもしれない。見つけておくに越したことはない。

 ところが仰向いた彼女の耳に、またも意外な答えが返ってきて、その心は打ち砕かれてしまう。相手の言葉ははっきりしていた。

「いいや。我々は時を空気中の湿度や気温の変化で計っている。ここには日が無いからな。人の世とは違って、あなたに時を知るのは難しかろう。」

 ヒが、ない。不思議なことを耳にした。理解できなかった彼女は、それを聞き流してしまった。

 湿度に、気温。上らなければならない山が、どんどん高くなっていく。アタックするには余りにも手ぶら過ぎた。煙の彼と交わした約束は果たせないで終わるかもしれない。心は挫かれる一方だ。

 ところがそこへ、意外にも希望が差し込んできた。

「けれど、婚儀の日は特別だ。あなたにもその時が来たと明らかに分かるから、安心すると良い。」

 勢い良く視線を向けて、その詳細が語られるのを期待する。彼女のこの反応をどう解釈したかは分からないが、相手は口元に弧を描いた後、続けた。

「月が差すのだ。」

 ツキガサス。聞き慣れない言葉に思え、直ぐには理解出来ないでいると、更に言葉は続けられていく。

「空を貫いて、月の光が差し込むのだ。年に一度のものではないが、特別な機会だからな。その日を選んだのだ。」

 話の内容を想像し切れなかったが、期日がはっきりと知れるという情報は有難い。それだけが現時点で彼女のバックパックに収められた、唯一の登山道具だった。

 完ぺきではないが幾つかの知識を手に入れて、莢子はほんの少しだけ前向きになれた。

(三日の内だから、多分明日から数えるのよね。最低でも太陽が三回昇ったら、絶対にその日には待ち合わせ場所に着いていなくちゃ。三日目の何時から式なのかは分からないけど…。)

重要な情報を聞き流してしまった彼女は、己の思い違いに気付いていない。

「では、皆の前に出るとしよう。」

 彼に促されて、その場を後にする。眼下に広がる木箱のどれかに、あの人がいるのかしら。そう思いながら、再び移動を始めた男の服を、握り直した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る