第10話

 この御殿の主が、真正面に立っていた。昼の光のような明るさの中で、初めてはっきりと捉えたその姿。歴史の中へ迷い込んでしまったような不思議な気分に酔う。

 時代劇の登場人物に扮しているだとか、変装しているだとかには到底見えない。会うたび感じるが、余りにも着慣れた佇まいと衣の質感の良さとが、張りぼてではないことを物語っている。

 相手の目は莢子と同じ暗い茶に見えたが、瞳孔周りは赤色にも、橙色にも見える。目じりを下げて、優しそうに微笑んでいる彼。背後から流れてくる風に、髪や衣の端が穏やかに揺れている。日差し、日差しだろうか。その中で、莢子は彼という人物の全体をありありと目にした。

 暗がりで見た時は赤黒いと思ったが、昼明かりでの彼の髪は深みのある赤だった。やはり五歳か、十歳は年上かもしれない。肌の感じは若そうなのだが、落ち着きが見た目の年嵩としかさを増しているのかもしれない。

 背が高いことも、温和な顔付に反してガッチリとした肩幅があることも、人の上に立つには有利な体格だ。様になる立ち振る舞い、主人たる風格。

 それでも近寄り難く感じないのは、微笑んでいるからなのか、目尻が下がった優しい顔付の為なのか。

 初めて会った時よりも、格式ばったものに見える服装。莢子とお揃いの黒に近い紫の上下を着、その上から丸い筒襟の前掛けのようなものを重ねている。両袖がなく、その身頃は着物の寸法で言うところの肩山の幅しかない。

 細いその上掛うわがけは帯で留められており、袴の裾ほど垂れているが、それよりは短い。黒紫よりも一段明るい色味で、両端は金糸の縁取りがなされていた。

 彼の髪の間にも金の環の輝きが覗いている。頭に被せた輪のようだが、額部分はすっかり開いている。こめかみまでしかないその両端には、それぞれ大小二本の角のような飾りが付いている。こめかみ部分から立ち上がるそれは、まるで角のようだ。

 逆に、腰にまで届く様な金色の長く細い帯が、同じような位置から顔の左右に下がっていた。

 角のある、その輪の為だろうか、龍の化身のような風貌にも見える。そういった彼をまるで引き立てるかのように、背後には驚く様な巨大建造物が鎮座していた。

 予想も出来ない大空間が広がっていた。変哲のない部屋戸を引いただけだと思ったが、野外に来たのかもしれない。莢子の意識は男を越えて、その背後を上へと登っていく。同時に、どこまでも奥へと渡っていく。

 天に向かうような長い階段。そそり立つ壁のようなものがあった。辿るように見上げて行けば、何十メートルも上空、この大空間の最端に、その終着点が見えた。

 同時に、ここが屋外ではなく室内であったことも理解できた。天井もあるし、周囲には壁もあったからだ。昼かと思ったが、残念なことに日差しではなく、照明の明るさだったらしい。

「主君がお待ちでございます。」

 一向に前に出ない莢子に痺れを切らしたか、大女おおめが前に出て促した。その声に引かれて、莢子の体は老婆が進む方へと動いていく。それはもうこれまでの道中の成果ともいえるべき条件反射だ。それでも体とは裏腹に、心はここにあらずと言った様子で、顔は上空から左へと向いていた。

 室内なのに、木や草が生えている。にも拘らず、何とも室内らしかったのは、床が変わらず畳敷きだったからだろう。恐るべき労力、その規模、一面ときている。樹木の根の隆起に沿って避けながら、丁寧にイ草が張られているのが伺えた。

 視線を向けるにも限りを感じて、彼女の顔は進行方向へと戻る。当然のことだと言えるかもしれないが、いきなり相手の視線とぶつかった。ずっと見られていたのだろう、その真っ直ぐさに、莢子は思わず怯んでしまった。

「良く、似合っている。」

 着物のことを言われているのだと気付き、世辞と知りつつも嬉しくなるのは仕方がない。上等で着たことのない美しい衣装なのだ。与えられたものではあるが、纏っているだけで素敵な自分に成れたようで、彼女の心は高揚していた。

「さあ、行こうか。」

 老婆は既に背後に控え、おもてを下げていた。莢子は男と対面しており、差し出された右手を何も考えずに取ってしまった。

 彼はクルリと身を返すと、彼女の腰を左手で取った。二人三脚のように連れ出された莢子は、土壇場に来てハタと気付く。行く所と言えば、何処だろう、と。

 目の前には大階段。この流れ、最上段の果てにある、何処かしかないのでは…。終着点では絹布がひらひらとはためいている。

 幅四メートルはありそうな大階段は、木階登廊きざはしとうろうだ。木階登廊といえば、莢子の世界では神社の本殿入口に設けられた階段を指すのだが、御殿では特にこの大階段のことを指している。

 これだけの規模にも拘らず総漆塗りで、一つの傷もない様子で光りを返しているのだから圧巻だ。両側には手摺があり、帳台の足と同じように、ここにも金の蒔絵が施されている。

 確かに、一般住宅の基準で言えば幅四メートルは広いに違いない。だが、もっと広い幅の階段を持つ施設なら幾らでもある。莢子にとっての問題は、その段数だった。

 百でも、二百でもなさそうだ。優に三百段以上はあるだろう。縦と横との対比に差があり過ぎて、一般住宅では考えられない幅があるからとて何だと言うのか。有り余るほどの高さの前には狭く感じられるくらいだ。屋内にあるからこそ、余計に高く見えるのだろうか。

 両側に手摺が設けられていることはせめてもの救いだったが、滑りの良さそうな階段、万一上段で足でも滑らせたらどうしよう。ひっくり返って滑り落ちたら、どこで止まってくれるというのか。

 予想できる危険と、何より体力的観点からも遠慮したい莢子は、一段目の手前で身を引こうとした。これにアタックするには、気合がいる。突然過ぎて、心の準備が全く出来ていない。しかも足には足袋を履いているっ。

 だからこそ彼女は確かに引いた。引いたはずだったのだが、男に取られてしまった腰の為だろうか、微塵もその効果がなかった。男は何の抵抗にも遭っていないかのように、二人で段を上がってしまった。

 それでも莢子は前進することを拒んでいた。重心を背後に傾けることはおろか、足については一歩も進ませてはいなかった。だというのに、男と一つとなって、大階段を速やかに上がってしまう。

 意志とは真逆の事態に彼女は硬直するばかりで、その間にも広がる地面との差に、混乱で一杯になってしまった。

 エ…、エスカ、レーター……。そうだ、エスカレーター、だ。

 幾分冷静さを取り戻した莢子は状況把握の為に、目線の高さだけに固定された視線の先にある階段を注視してみた。エスカレーターならば、きっと自発的に上に流れているはずだ。けれど、進んでいるのは自分達だけでしかないようだった。

 ゴクリと喉が鳴る。彼女は再び硬直して、それ以上は下にも右にも左にも視線を向けられなかった。

 ただ、どんどんと昇っていく終点だけを見詰め、背後に増しているだろう高低差に恐れも増していく。身の置き所が確かでない浮遊感にも似た状況、僅かでも動いたら落ちるのではないかと肝ばかり冷えた。

 緊張から浅い息を繰り返し、少しでも早く終点に着くことを願ったが、その先に待っているものがこの状況よりも悪ければ、話は別だ。けれど、引き結ばれた口は抵抗する為にだってこうともしなかった。

 窮地に瀕している彼女とは裏腹に、屋形やかたの主はこれとないほどの多幸感に浴している最中だった。

 己の内から放たれる高揚感を体現するように、大階段を昇っていく。腕の中に夢の人を抱いている現実がまだ信じられない。彼女とは対照的に、彼はこの道が終わらなければいいのにと思っていた。だから莢子が体を強張らせていることも、その緊張も読み取ることが出来なかった。

 それぞれの想いが強過ぎて、一言も話さないまま終点が近付いて来る。階段は風雅の間と呼ばれたこの大空間の真ん中を貫くように、端から端まで目一杯を使いながら、五十メートルほど上空へと繋がっている。その先には「天空の」と呼ばれる細長い道があり、その入口が大階段の終わりだった。

 早く到着してくれることをひたすら願っていた莢子は、徐々に近づいて来る新たな入口に釘付けで、その中に体が飛び込む瞬間を待ちわびていた。そこにはお馴染みの帳が暖簾のれんのように掛かっていた。

 特に彼女が注目したのは、その絹布が吹き流されていることだった。今まで潜ってきた出入り口と同じで、幕は左右に分かれている。それが奥から吹き込んでいるのだろう風に押されて、通路の両側で閃いている。

 帷は出入り口を塞ぐだとか、隠すだとかいう役目を放棄したように常になびいており、奥を見せてしまっている。吹き込む風は途切れることがないのだろう。それでも繰り返される強弱の波に乗って、時折絹布は中頃から翻りそうになりながら、勢い良く泳ぐ魚のひれのようにはためいている。通路側が裏側のようで、布が舞う度に表側に描かれた美しい絵が覗いていた。

 大階段の恐怖で忘れ去っていたが、風雅の間の引き戸が開かれた際に、風が吹き出して来たことを莢子は思い出した。彼女にしてみれば自動的に動いている状況だったので、風を受けているのだと気に留めていなかったのだが、室内から流れてきた風の源はここにあったらしい。

 風に押された帷の間から見える向こう側は真っ暗だ。通路が明るい分余計に見えない。風が起こるくらいだから、今度こそ本当に屋外なのだろう。だが、やはりまだ夜らしい。莢子は、それほど泣き寝入りしていた訳ではなかったようだ、と思った。

「きゃっ。」

 莢子が思わず小さな悲鳴を上げてしまったのは、音もなく後ろから側女達が前に競り出して来たからだった。思わぬことに命の危機を感じ、尚更男にしがみ付いてしまった。

 何時の間に、いや何時から後ろにいたのだろう。ここの人達には足音も気配もない。

 彼女の過敏な反応に、隣の彼が微笑んでいる。側女らは主人を追い越すために走っていた。

 それが人にはあり得ない身のこなしで、摺り足なのに莢子の全速力よりも格段に速い動きは、漫画に出てくる忍者を彷彿とさせる。短距離選手がダッシュするように、体の全身を使った動きでないことが一番の驚きだ。

 両手は腰の辺りで組まれており、階段の傾斜のためか幾分前のめりなものの、背筋は真っ直ぐ。慎ましい所作を崩さぬまま、閃き続けている幕を事も無げに手に取ると、流れるように半身を返した。主人の為に道を空けると、彼女らの動きはピタッと止んだ。

(お、おお~~。)

莢子は内心称賛の声を上げた。

 思わぬ感動に包まれながら、恐怖の時間が終わりを告げる。訳も分からない空中移動はここまでに違いない。

 吹き込む風に夜の匂いが混じっている。屋外に出られるという予感は、閉じ込められてしまった籠の中の鳥のような気分を慰めてくれる。後数段、後一段と数えれば、天空の路が彼女の次なる世界になった。

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