第9話

 荷物を運ぶ時には何人もいたのに、今は老婆を含めて三人しかいない。お役御免となった者からだろう、気付けば順に消えていた。すっかり支度が整えば、「お美しゅうございます」と、老婆が世辞を言った。

 服を剥かれて下着となり、替えさせられたからと言って、恥ずかしがっている暇も無かった。当初は下着さえも剥ぎ取られてしまうかと焦ったが、どうにか死守でき、その慣れた着心地が消えなかったことに心底安心する。

 ピットインしたスポーツカーの気分を味わい、目まぐるしさに茫然としている内に、支度は終わっていた。

 そのようにして身に纏わされた着物は、だが想像していたものとは随分違った。綿の重みでは無かったからだ。まるで、ここにある布団と同じ生地のようにツルリと軽く、着心地が大変良い。やはり何処か文化が違うようで、平安時代の様かと思っていたが、何処か異国風だった。

 小袖に似ている、細い筒袖のこちらの世界の下着。その上から黒紫こくしの袴を履き、うちぎを四枚、更に上から小袿こうちぎを羽織っている。いずれもラッパ型の裾広がりの袖だ。十二単のように紐で止めなくても、上に重ねる衣ほど小さい作りになっていくので、羽織るだけで自然と重ねの色が楽しめるようになっている。

 また、特に下着の次に羽織るうちぎだけは、手が隠れるほど袖が長く、広い布が使われている。それによって大きなひだが寄り、手元に華やかな印象を与えていた。

 袴の長さはくるぶしが隠れる程度しかない。今身に着けているものの中で一番暗い色をしている。そこに鮮やかさを出すための差し色として、腰に桃色の長い飾り帯が結んであった。

 また、上に羽織る着物は基本的に紫系統の色で統一されていたものの、中から外に向かうほど明るさを帯びた色味になっていく。この重ね着の中にも桃色が差し挟まれており、莢子の年頃にも合った可愛らしさが添えられていた。

 勿論、髪も結ってある。丁寧に油を付けて下から結い上げた髪で、幾つかの塊に分かれている。頭頂部には団子のような纏まりがあり、前面には太陽の光を表したような金の飾りが付けられている。また、そこには長いかんざしも挿してあり、その両端から垂れる幾筋の長い鎖が肩から前に流れていた。

 すっかり用意の整った莢子は、遂に幕の向こう側に待つ、未知なる景色に足を踏み入れる時が来た。

 と言っても、どのような景色が待っているのかは、だいたい想像がついている。何せ誰も彼もが時代劇のような人なのだ。きっと、テレビなどでよく見る江戸時代のお屋敷とか、平安時代のお屋敷とか、そういったものだろう。しかし、実際に寝殿造りのようかもしれない屋敷を目に出来るのは、正直楽しみだった。

 白髪の老女が先導者だったが、莢子に仕えていた側女そばめの二人が先頭を行く。どうやら天蓋を割って道を開けてくれるらしい。

 よくよく見れば、彼女達の衣も老女よろしく格が高そうだ。まあ、お金持ちの家なので、誰もが質の良い衣を着ているのかもしれなかったが。

 動揺している時はどこからでも出られると思っていたが、出入り口は決まっていたらしい。無暗に開けようとしなくて良かったと、莢子は恥じ入る思いがした。

 美しい絵が施されているとばりは、莢子の世界基準から言うとサイズが規格外だ。一枚が幅一間、高さ二間もある大きなかたひらを何枚か並べ、綴じてある。それが、出入り口となる一辺だけは作りが少し違っていた。

 この囲いは基本、短辺に四枚、長辺に六枚の帷で構成されている。それが、出入り口となる長辺では、一間の幅を持つ帷が左右の端に二枚ずつの計四枚と、半間の帷がその間に四枚挟まっての一組となっている。

 また綴じ方で言えば、一間二枚と半間一枚とが一つに綴じられて左右に下がり、残りとなる半間の帷二枚分だけが、暖簾のように綴じられることもなく真ん中に下がっていた。

 しかも、莢子は気付いていなかったが、出入り口となる帷にだけは、うぐいす色の折り返された風帯ふうたい、つまり垂れ飾りが下がってはいなかった。

 さて、彼女は少しでも早く向こう側を見たいところだったが、先導者たる老女の背中が壁となっている。これからすることを、はしたないと怒られそうだったが、幸いお目付け役は前にいる。彼女は思うままに首を伸ばして前方を覗き見たが、明かされた未知なる風景に単純に驚いてしまった。

(あ、また幕だ。)

 寝ていた場所を囲っていたものよりも、二倍の大きさがありそうな几帳らしきもの。最早そうとは呼び辛いサイズ感、壁代かべしろかもしれない。それでも帷を吊るし支える鴨居や柱が見えたので、やはり作りは同じようである。全体の大きさだけでなく、色味も寝所とは違い、こちらは山吹色をしていた。

「御足元にお気をつけください。一段下がっております故。」

 どうりで視界が下にも広がっているように感じたわけだ。出入り口の手前で半身を返した老婆に声を掛けられていなければ、莢子はしっかりと踏み外していただろう。

 混乱して逃げようとした時に拘束されたのは、こういった意味もあったのかもしれない。彼女は貴婦人のように、わざわざ老女に手を取られて、その一段を下りた。

 そうか、今まで特に注目していなかったが、寝ていた場所は男雛や女雛が座る、親王台しんのうだいのようなものだったらしい。これを浜床はまゆかと言ったが、高さは三十センチほどで、一段しかない。だからだろうか、この台を囲むように高欄などは設けられていなかった。

 つまり、絹布けんぷで作られたこの箱型の寝所は、几帳でも天蓋でもなく、帳台ちょうだいだったのだ。

 莢子の世界では、それを覆う帳は浜床の外側に垂れている。だがこちらでは浜床の上、その端ぎりぎりに垂れていた。混乱していた時の彼女に、この境目が分からなくとも当然のことだった。

 それを一段下りた途端、老女がまた前に出てしまったので、莢子もまた首を伸ばして前方を覗き見ることになった。だが外に出てしまえば、前ばかりでなく右も左も、観察する所は沢山ある。床材はここでも畳だった。

 二人が進んだことで背後となった一つ目の境、つまり帳台では、側女達がその帳を下ろしている。それを終えると莢子達の両脇から速やかに、それぞれが老女の前にさえ出て行った。主人達の歩みを決して妨げないように道を開ける為だ。

 彼女達が横を過ぎたことで何気なく振り返ってみた莢子は、目が奪われて歩を止めてしまった。帳台の外側には、枝垂れ桜が一面に咲き乱れていたからである。

 帳台の天井にめられている明障子が、帽子のように被さっている。帷上部から、床にも届く風帯が二つ重ねで、垂れ下がっているのが見える。

 帷一枚につき、それぞれ二本ずつ下がって見えるのは、内側で一本の帯を二つに折り返しているからだ。雫型の飾りの反対側が見られて、莢子は成る程と納得した。

 おのぼりさんのように不躾に確認していく彼女は天井を見上げて、またも驚かされてしまった。先程いた空間と全く同じ造りだったからである。つまり、こちらでも天井を含めた全方向に、絹布けんぷが張り巡らされているということだ。

 初めに居た囲いが、この外側の囲いの中に納まっているらしい。それ故、二番目の天井の方が、一番目のものよりも当然高くなっている。

 帳台は十二畳あったが、莢子としては十畳以上だと大雑把にしか見ていなかった。寝るだけなのに無駄に広いなと、感じていたが、家具がなかったから余計にそう思ったのかもしれない。

 初見、彼女の目には同じくらいの空間がこちら側にもあるように映った。それは次の出入り口までの距離が、寝所の枕側の端から出入り口側の端まで、つまり短辺と同じ長さに見えたからだった。何も置かれていないところも同じである。寝所には布団が敷かれていた分、こちらほど殺風景ではないはずだった。

 だが実のところ、今いる空間は帳台の枕側の端と、こちらの空間の同じ側の端を合わせるようにして、上から丸丸覆うように設置されていた。つまり出入り口側の長さは少なくとも帳台の二倍の長さがあり、すると面積も最低二倍はあるということになる。

 だが、帳台の短辺と、そこから次の出入り口までとの長さが、同じ位の長さだったため、莢子の目にはどちらも同じ大きさの部屋に映ったのだ。

 しかも上方に二倍はありそうな空間だったから、あたかも吹き抜けのリビングに来たようで、目を瞠るような開放感があった。

 呆気に取られている内に二つ目の境に近付いた。前方にある絹布が先を行った側女らによって、再び開かれていく。

 少しも待っていられない莢子は、老女の背中越しにまた顔を覗かせた。ところがこの度も期待は裏切られ、次の空間の突き当りにも、今までと同様の仕切りしか待っていないように見えた。

 同じ展開の繰り返しに唖然とする。まさか、行けども行けども幕ばかりなのでは…。

「こちらにも段差がございますれば、お手を。」

 束の間呆けていた莢子は我に返った。老婆が再び半身を返して待っており、今や壁もなく視界は開けている。それでも結果は変わらない。眼前に広がっているのは上等な和室…というだけだった。

 この境目にも段差があったらしい。と言うことは、浜床の上に浜床が乗っているということになる。であれば、これもまたやはり浜床とは言わず、ただの段差に過ぎないのかもしれない。莢子は自力で下りられますと思ったが、相手が怖いので素直に従っておいた。

 ひたひたと彼女だけが足音を立てながら、二番目の囲いも越えていく。次の空間も同じだけの奥行きがある。ただ、幅については境を越える度に徐々に広がってきているらしい。きょろきょろと左右を見遣れば、莢子はもっとはっきりとした違いを内装に見た。

 壁の装飾が違っている。そう、壁だ。絹布が張られていないわけではない。室全体に帷が垂れていたのに変わりはなかったし、前方にはそれまでと同様、横一面に帳が下がっていた。ただ、左右については、張り方が今までとははっきり異なっていた。

 どうやら帷一枚一枚の間に、各々一枚分の間隔が開けられているようだ。そこに木製の壁、あるいは仕切りかもしれない板が見えている。初めての壁だ。

 大きな違いは他にもあった。前方を含めた周囲の帷どれもが、天井の縁から垂れてはいないことである。和室で例えるなら、鴨居の部分から垂れている。だから、長押なげしや欄間に当たる部分の壁もまた、布の上端から見ることが出来た。

 確かな空間の区切りを目にし、莢子の期待は高まっていく。視線はそのまま上を目指した。途端、またも呆気に取られて足を止めてしまったのは、幕が一切張られていない、板張りの天井さえも目に出来たからだった。

 だが、それだけではない。全くの予想外、ありえない距離感があった。

 ここに来て初めて、天井らしい天井を見た。それまでの二室は、布で形成された箱型の空間だった。にも拘らず、初めに寝かされていた寝所ですら、自宅とそう変わりがない天井高があった。だから、その二倍の高さがあるように見えた二つ目の室では、一階から吹き抜けを通して、二階の天井を見上げているような解放感を覚えた。

 ところが、三つ目のこの室は更にその二倍、つまり四階分はありそうな程、天井が高く見えたのだ。

 その規格外の豪邸感からやや立ち直って後ろを振り返れば、莢子は今まで渡ってきた空間の全容をようやく理解することができた。

 二番目の空間が、一目瞭然だ。大きな布で囲うことにより生み出された別空間が見える。非日常的な大きさが異様にしか見えない。

 今いるこの三番目の空間こそが、板で造られた正真正銘の部屋だったのだ。その中に大小二つの四角いテントのようなものが、入れ子となって重ねられていたということが漸く分かった。

 自分がいた場所の構造が解明できただけで、莢子は多少の安心感と満足感を覚えた。

 向き直った莢子は、自分を待っている老女に気付いた。怒られるのではと焦って、小走りで後ろに付く。身を縮めてお小言を待っていたが、幸い何も言われることなく、大女おおめは再び前進した。

 さて、三番目の空間、詰まる所、総じてようやく一番目となることが判明した部屋を通過しようという頃。またもや先に出ていた側女らが、これで三回目となる出入り口の帳を左右へと割った。

 どうやら、部屋だと確信したばかりのこの空間もまた、完全にはそう呼べなかったらしい。前方一面に掛けられた布の裏には戸がなかったからである。つまり、今までずっと続き間を渡って来たに過ぎず、前方の空間とは布で仕切られていたに過ぎなかったわけだ。

 この時莢子は気付かなかったが、前方の布の上には板部分が見えていた。つまり長押なげしの上の部分に板が張られていたのである。だから右から左の端にまで至る長い帳ではあったものの、高い天井に至るまで布が張られていたわけではなかった。とは言え、床から長押までの距離も、莢子の世界の住宅基準ほど低くはなかったが。

 段差はもうないのだろう、境を越えても老婆は脇に寄ることもなく進み続けていく。彼女に続いて次の間に入った莢子は、お馴染みの格好で前方を覗き見た。

 おおっと、大広間だ。これまで過ぎてきた三つの空間を一つにしたくらいの奥行がある。

 左右を見て、天井を見上げる。どうやら高さは倍掛けされていないらしい。そのことにちょっと安心する。それでも、この広間をより開放的にならしめていたのは、直線距離のみならず、この天井高との相乗効果のせいだと莢子は思った。

 ここはどこも畳張りで、新しいイ草の良い匂いがする。この大広間はまるで青い平原のようだ。ガランとはしていたものの、思わずあちらこちらと視線を向けて、莢子は何度もこの広さを堪能すべく眺め回してしまった。

 正方形をしたこの空間は、一つ前の室と同じで、やはり左右にだけは一面に壁があるらしい。寝室が含まれていたその室と、二つ目のこの室は続き間だ。つまり、似たような規模の空間を想像するに、校舎の一階から四階までを吹き抜けにして、三つ分強の教室を一つに合わせたくらいの大きさが適当だろうか。

 こちらも例に漏れず広いだけで、調度品は何もない。部屋を移動するだけだと思っていたが、莢子の予想に反し、結構歩かなければならないらしい。却って良い運動かもしれないと、少しでも前向きに考えながら、連れて行かれるままに足を進ませた。

 再び前方を遮る絹布らしき帳、それはつまり壁代かべしろだったのだが、その帳に近付いた時、何時もの如く側女達によって一足先にそれは分けられた。莢子はその度に、はしたなくも老女の体から顔を覗かせて、その先を確認せずにはいられない。

 はっと呑んだ息の音が、老婆に聞こえただろうか。莢子の目には、壁代の裏側に隠されていた、引き戸らしき板が映っていた。

 勿論、どこか別の空間への入り口のようだと予感させる。三つの空間を作っていた続き間さえ終わり、ようやくから出られることを意味してはいないだろか。

 新しい何かを目に出来る期待に、彼女が顔を綻ばせた、その時だ。スッと、戸口らしき板が独りでに左右へと分けられた。まるで自動ドアを目にしたようで、和室とのギャップに驚いてしまった。

 しかも、その先に開かれていく新しいはずの空間は、大分期待外れで終わってしまった。

 畳敷きの、お馴染みの和室が見える。一転、奥行きまでの狭さが却って予想外だと思ったのは、それまでが同じ幅か、あるいは倍掛けになることが当然となっていたからだ。お陰で突き当りが良く分かる。

 出入り口と対面する形で、別の出入り口らしき板が見える。壁代は掛けられていない。

 何かが変わって来ているが、まだ何も変わっていない。幾分の不安と期待が、ない交ぜになる莢子の視界を奥に引くのは、新しく登場した二人の女性。

 控女ひかえめと呼ばれる彼女らの上衣うわぎひとえだ。二人は一組になって、莢子が眺めていた突き当りの戸口らしきものに向かうと、床に膝を突いて取っ手に指を掛けた。

 老婆が前進するので、莢子も無意識かのように付いて行く。彼女は周囲を探ることをめなかった。

 今までに比べ狭いとは思ったが、間違いだったようだ。横に広い。そう、これは廊下のようである。左右に続く、もっと別の空間が垣間見えている。これまでの部屋と良い、御殿と呼ぶにも規格外の全容を予感させるかのようだ。

 廊下の壁には一定間隔のみに帷が垂れている。それは布幅三十センチ程度しかなく、また各々の間隔も二間分程と広がっている。引いた戸の邪魔にならないようにだろう、壁と戸が重なる部分にも帷は下げられていなかった。

 正面の板は、出入り口で正解だった。莢子の見当違いだったのは、控女によって開かれた引き戸の裏側に、お馴染みの帳が垂れていたことだった。

 今までとは反対に取り付けられている。特に重要ではないが、それが何を意味しているのか彼女にはまだ分からない。その意識は既に捕らえられており、この意味を理解するには至らないだろう。

 戸口の裏に隠されていた帳が手前に膨れ、左右に割れ、裾が流れてきた。空気が動く、風が吹いて来る。今までとは明らかに違う。匂いがする。これは、花の香りだ。

 側女は翻った絹布だろうが何だろうが、上品に扱い入り口を開ける。老婆は既に脇に避けていた。遮るものは何もない。次の空間が飛び込んで来る。

「風雅の間でございます。」

 それまでの空間に名前はなかったのだろうか、一度も説明しなかったのに、ここに来て告げられた室名。

 果たして、その言葉は莢子の頭に残っただろうか。彼女は今、目の前の光景に圧倒されてしまっている。どこか夢見心地で一歩一歩進んで行ったが、それも数歩で止まってしまった。老婆が先導しないから、というのもあったし、許可が欲しいと思えるほど、壮大なものを目にしたからでもあった。

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