第8話
……君、……君。
深い闇から意識が引き戻されていく。どうやら過度な精神負担が、再び意識を途切らせてしまったらしい。気付けば泣き濡れたまま、うつ伏せのような状態で、掛け布団の上に横になっていた。そう、莢子の世界と同じように、掛け布団があった。
ゆっくりと浮上する意識は、誰かの静かな呼び掛けにより手繰り寄せられていく。それは誰の声だったろう。
「起きても、声を立ててはいけないよ。」
耳元で囁かれたのは密かな声。
にわかに言葉がはっきりとした。それでもまだ起き立ての鈍い状態だったからこそ、莢子は何とも思わずに大人しく従うことが出来た。
うつ伏せに頭を預けたまま、コクリと頷く。相手が微笑んだことは、目を開ける前だったから知らなかった。
意識は目覚めているようだったが、周囲は闇の中ということもあり、体は麻酔を打ったようにまだ動かない。せめて、瞼くらいは。
薄らと持ち上げてみたものの、体勢が悪いのか、それとも視界が悪いのか、相手の姿は見えない。それでも耳元で声がする。
「今日から二日の内に、御前領、境へおいで。」
声は繰り返す。
「御前領、境まで。そこで
ゴゼンリョウ、ケイ、……トキ、読み……。莢子はコクンと頷いた。それでも声は繰り返す。
「婚儀が始まってしまう前に、御前領、境で会おう。」
婚儀……。まだ鈍い頭に引っ掛かる言葉。
「約束を果たそう。そこに、君が欲する答えがある。」
答えっ。
莢子の神経が繋がった。彼女は電気が流れたようにガバリと身を起こした。すると、今までどこにいたのだろう、ふわりと正面に降り立った人物。あの、彼だ。
ひやり。
声を上げそうになった彼女を先取って、彼がその唇に触れた。
野暮ったい熱が引いて行くような、冷たい指先の感触に囚われる彼女。効き目はあったようである。
彼は首を横に振ると、差し出したその手をゆっくりと外した。
二人は暗闇の中見詰め合う。彼女には聞きたいことが一杯あった。なのに、止められた為だろうか、今は聞くことが出来なかった。
口を開くのは彼だけだ。
「一人にして済まなかった。」
どうやって話しているのだろう。どこから声を出しているのか、正面にいるのに何処にも漏れない耳元で囁き声がする。
とは言え、彼女にも分かっていた。彼がまた去ってしまうのだと。でなければ、今のような約束をさせる筈がない。
「泣いたのか。」
言われて自らの頬に手を当ててみれば、一連の動作のように髪へと手が行った。それは彼女の癖で、横に結った髪を撫で下ろす仕草だ。
あら、何時の間に、何時から髪を解いていたのかしら。何時もの感触がなく、そこに髪の束はなかった。
垂れた髪のひと房を手に取りながら、辺りを見遣る。ゴムはどこに……。両手首も確認したが、無いようだ。
「整えてあげようか。」
それは尋ねたのではなく、意志を現すニュアンスだ。
再び白い手が顔に伸ばされる。彼としては涙で頬に張り付いたままになっている髪の毛を、
一方、自分のことなのにまだ寝ぼけているのか、無頓着な彼女はどれも理解しないように、ひたすら相手を見返していた。
彼の手がまた触れる、その時であった。
「もう、落ち着いたかい。」
外から掛けられた声に驚いて振り返る。離れて行くのは燃えた臭い。
目覚めた臭覚に気付いて、咄嗟に彼がいたはずの方へと向き直る。その姿は、既に無かった。
「顔が見たい。いいかな。」
外にいた人物を思い出し、莢子は外に向かって答えた。
「あ…、はい。」
気持ちが和いでいるので、素直に答えられた。
すると、どうだろ。部屋の中が仄かに照らされ始めたではないか。そうそう、眠ってしまう前は、確かにこれくらい明るかった。
莢子は気が引かれて、どこに明かりがあるのだろうかと、あちらこちらに首を回す。けれど間接照明のような目に優しいその光源は見つけられない。
「入るよ。」
一言もらったが、これへの返事は必要としていないらしい。誰かが几帳のような幕を開け、相手は入って来た。
「どうだい、気分は。」
男は穏やかに声を掛けながら傍に腰を下ろす。莢子は頷くだけで答えたが、彼は安心したように微笑んだ。
「あなたに言われたことを、考えていた。」
すっかり寝込んでしまった彼女には、切り出されたことが何の話だったか覚えがなかった。けれど相手は真摯に解決策を模索してくれていたらしい。
「確かに私と結ばれたからと言って、何も此の国にあなたを閉じ込めたきりにしておくこともない。あなたの言う通りだ。だからどうだろう。人の風習に則って、そちらの御両親に婚媾の挨拶に伺うというのは。」
「へっ。」
思わず間抜けな声を上げてしまった。
「折に触れ、そうして顔見せに伺うのも良い。そうだな、年に二、三回もあれば、あなたも寂しくはないだろうか。」
待て待て待てっ。けれど、相手は待ったなしだ。
「婚儀は三日目だから、今日でも、明日でもいい。式を済ませたという報告がしたいのなら、勿論三日後の方が良いだろう。とにかく、あなたの思うようにしてくれて構わない。」
「ま、まままま……。」
眠る前の動揺がぶり返ってきた。口が上手く動かない。
「で、でででで」では、破談でお願いします。
奇怪な言動にも彼は寛容だ。優しい目元を保ったまま、彼女の言葉を待っている。ま、まままま。
「ま、待ってっ。」
ようやく言えたっ。彼女は急くように問い質した。
「結婚まで、三日ってっ。」
「そうなのだ。契約は果たされたというのに、儀式を待たせるなど済まない。」
いやいや、そうではない。むしろどれだけでも待たせてほしい。彼女は首を横に振ったが、彼の前向きさには舌を巻く。
動揺の一方で彼女は悟った。道理であの人が固く約束させたわけだ、と。「二日の内に、必ず」とは、猶予が二日しかないと分かっていたからなのだ。それを過ぎれば、結婚してしまう。
莢子は少し勘違いをしていた。婚約関係になってしまっているとは何となく理解しているだろうが、結婚さえしなければ逃げられるのではと思っている。だが、実際のところはもっと重い。
婚媾の約が完遂されてしまった時点で、両者は既に契約者以外とは永遠に結び合わないと宣言していることになる。つまりこの人以外とは結婚しません、私は必ず結婚します、反故にする訳がありませんと言っているのと同じだということだ。そうとも知らず、彼女の思考は続いて行く。
そうだ、確かに、結婚する前までには…とか、あの人が言っていた。事前に教えられていたことを、今になって驚くなんて。だが言い訳させてほしい。あの時は寝ぼけていた。
…ん。ここで、彼女に一つの疑問が新たに湧いた。何故、結婚してしまう前にトキヨミとやらに会わねばならないのだろうか、と。
もしかして、結婚せずに済むような方法でもあるのだろうか。つまり、あの人は本当にそういう意味で「守る」と言ってくれたのだろうか。だから式の前に、そういうことだったのか。
莢子は全てを勘違いをしていた。彼女の中では、この事件に巻き込まれた起点が散歩に出た夕方だったので、気を失っていた時間を含めても、そしてまだ周囲が灯りを頼らなければならないほど暗かったので、今日すらも開けていないと思っていた。つまり夜が明けてからが一日目の始まりで、三日目に結婚だから、二日丸まる猶予があると思っていた。
だが、この世界と莢子の世界とでは活動時間が真逆だ。だから、ここでの彼女の第一日目は既に始まっているだけではなく、人間に照らし合わせると、昼も半ばを過ぎていた。つまり、丸一日使える実質的な猶予は、明日だけだと言っても良かった。
けれど、昼夜が逆転してるからこそ、その猶予期間の中で御殿の者には休眠時間帯が二度あることとなっても、莢子にとっては活動時間帯、つまり昼が二度あることになる。つまり、勘違いはしていたが、それでも彼女にとっての日中が二度あるのだという認識はあながち間違ってはいなかった。
莢子は尋ねた。
「あの、ちなみに、離婚制度とかって……。」
「うむ。婚儀後の独り身か。確かに種族によっては、子の為に夫を喰らってしまうところもあると聞く。その場合は
誰もそれほど際立ったことは求めていなかった…。一体どこの何の話をしているのだろう。莢子は顔を引きつらせたが、相手は何時でもにこやかに教えてくれる。
「安心するといい。そのような習慣は私達にはない。仲良く、何時までも共に居られる。」
あってたまるか、当然だと肯定しかけて、最後の言葉に「当然だ」だけを当てはめられては困ると思えば、勢いを欠いてしまう。
「……そう、です、か。」
こうなれば一刻も無駄にせず、「ゴゼンリョウ、ケイのトキ読み(多分、漢字は解読みだろう)」とやらに行かなければならない。彼女は自制して話の方向を変えてみた。
「そうだ。私、まだこの御殿がどういった所か見たことがないんですけど、見学してきてもいいですか。」
煙の彼が告げた場所が御殿の中なのか外なのかは分からないが、屋敷内を見回っていれば外についても情報が得られるかもしれない。外を知っていれば、逃げる時に役に立つ。
そういった思惑があるとも知らずに、彼は声を明るくして答えた。
「そうであったな。あなたには、是非私の住まいを見てもらいたい。」
相手がとても乗り気だったのに勇気を得て、彼女は更に押してみた。
「じゃあ、今から行ってきてもいいですか。」
すると相手は声を立てて朗らかに笑い、けれど要求に対してはそれを制した。
「そう慌てないでくれ。それなりに
「え、したく。」
このまま飛び出していきたい気持ちのあった彼女は、虚を突かれてしまった。
そうした莢子を愛でながら、彼は声を収めると、じっと見詰めてきた。黙っていても、その嬉しげな雰囲気。何がこのようにも彼を満足させているというのだろうか。
莢子の居たたまれない気持を無視しながら、彼はひとしきり見詰めると、おもむろに二人の間を詰めてきた。
警戒して彼女は僅かに後じさる。その怯えさえも相手は無視して、片手を床に突きながら、もう片手を伸ばしてきた。
莢子は警戒して、顔を逸らしながら固く目を瞑る。それでも、その手は留まらずに伸びて、莢子の目元にそっと触れた。あの彼とは違い、ひやりとはしなかった。けれど、温かくもなかった。
「髪が、乱れている。」
相手は涙でひっついた髪を、気遣いながら外してくれる。そのお陰で彼女は知った。先程、煙の彼が消える間際、同じように手を伸ばしてきたのは、この為だったのか、と。
「身支度をせねばな。民の前に出るのだから。」
始終穏やかな相手の笑顔とは裏腹に、莢子はたまげた。
「民っ。」
御殿とは聞いていた。地位の高さは感じていた。召使がいることからも、そりゃあ何人かは抱えている人がいるのだろうとは踏んでいた。だが、民とはっ。国持だとまでは、とても思わなかった。
お屋敷内を探検する位の軽い気持ちでいた彼女は愕然とした。何だか可笑しなことになって来た。
「あの、ちなみに、この御殿の、広さって……。」
恐る恐る尋ねれば、莢子の髪を撫でていた男の手がピタリと止む。彼は何故か僅かに躊躇った後、言った。
「五十里は、まだ無い。だが、心を込めて造った。」
真っ直ぐに見詰めてくる目には、誠実さと熱意がある。ふと表情を柔らかくした男は、再び莢子の髪を整え始めた。その手は至極丁寧で、ゆっくりとしている。当の彼女は思考に呑まれ、為されるがままとなっていた。
(え……、五十……。一里、って、えっと……。)
どこか決心したように力強く答えてもらったものの、それを受ける本人に理解力がなければ心が乱れるだけだ。せっせと記憶の中を探り続ける彼女の頬を、不意に彼の指が掬った。それに意識を引かれて焦点を合わせれば、先程とは種類の違う強い視線とぶつかった。
身じろぎして、逃れたい。相手の眼差しに緊張が高まって、顔が紅潮してくるのが分かる。何せ、相手は何故か初めから、すごく大切なものを見詰めるような目をしていたからだ。莢子は耐え切れずに、視線を下げた。
彼が口を開きかけた、その時である。
「おほん。」
素直に驚いた。ビクリと身を跳ねてチラリと覗けば、何時からそこにいたのか、あのお固い老婆が座していた。
「全く、お前は融通が利かないんだから。」
彼女から身を離し、元の位置に座り直す。
「我が君の、先の恥辱に耐えられるお姿を存じ上げればこそ、わたくしも今までさし控えておりましたが、既にお報いになられたかと存じます。」
莢子にとっては意味の分からない会話だ。先の恥辱、とは……。
「黙れ。」
詳しくは語らせまいとするかのように、男性はどこか拗ねたように老女の口を制した。けれど、相手は命を懸けて進言する。
「差し出たことを申し上げました。喜んで服罪いたします。されどお恐れながら、これ以上はいけませぬ。」
頭を垂れるも、凛然とした彼女。
正直、その存在は助かった。莢子はホッと胸を撫で下ろした。
男は不満を溜息で吐き出した。それでも老女の言葉を聞き入れるつもりは、初めからあったようだった。
「では望み通り命じよう。この方の支度は
仕え女の頂点、管理職である彼女に、たとえ女主人の支度とは言え、使用人のような仕事をさせるのは、確かに罰と言えよう。だが、与えられたものの寛容さに老婆は忠義心を熱くした。平伏して礼を執る。
「謹んでお受けいたします。」
彼は立ち上がると、「後で会おう」と残して、あっさりと出て行った。
その幕が閉じられると、老女は身を起こして莢子を促した。無機質な眼差しながらも燃えていること。
「それでは姫様、お支度に取り掛からせていただきます。」
婚儀が終われば、呼び方も奥様に変わることだろう。大女と呼ばれた老女がパンと手を叩くと、室内が一瞬にして昼のように明るくなった。
初めて目にした本来の色味に莢子の目が驚いた。天蓋は、息を呑むほど美しかった。改めて上下左右見てしまう。
その幕の向こうから、出るわ、出るわ。次々に似た様な女人が現れては、衣紋掛けに掛けたままの
一体何時から外に居たのか。人の気配など微塵もしなかったし、物音すらしなかったというのに不思議でならない。なのに、今はそれら衣擦れの音や、道具が立てる音がしている。莢子は呆然とこの成り行きを見守った。
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