第7話

 誰かが頭を撫でてくれている。その優しい手つき。

 お母さん……。まさかね……。

 意識が引き戻されて、まだ寝ていたいかのように身を横に返した。暫く経った後、また頭を撫でられたので、今度はうっすらと目を開けた。覚醒し切らない視界の先に畳が見えてくる。

 あれ……、和室で、眠ってたっけ……。

 再び身じろぎをすれば、すぐ傍から、それは上から言葉が降ってきた。

「目が、覚めたかい。」

 見知らぬ男性の声に布団の中で動きを止める。素早く現実に引き戻されていく思考。ぐるぐるとめぐった後、煙の中で気を失ったことに辿り着いた。

「あっ。」

 ガバリと身を上げて、同時に声も上げたけれど、呼び掛けたかった相手の名前が出て来ない。そういえば聞いたことがなかったと、今更ながらに気が付いた。

「安心しなさい。ここは安全だ。」

それは聞き初めの声。

 ぎょっとして振り向けば、見も知らぬ男性が直ぐそこに。

「危ない目に遭ったそうだね。警戒はしていたが、済まないことをした。」

 甘く垂れた目元は、静かに微笑んでいるからか。暗く見える色の髪は、僅かな灯りに赤っぽい色味を滲ませている。その暖色の色味が相まって、優しい雰囲気を増長させている。凛として孤高の威厳を纏ったようなとは種類が違うものの、目の前の男性もまた、人の上に立ち慣れたような落ち着きがあった。

 この人物を確かに認めて、それから思い出したように辺りを探り出す。薄暗い空間。周囲は四角く仕切られており、一つの囲いを成しているのが分かった。

 この空間を仕切っているのは大きな幕で、平安時代を描いた絵で見たことのある几帳に似ていた。

 幕自体は切れ目のない一つの布で出来ているのではなかった。かたひらと呼ばれる布を、左右で縫い合わせて出来ている。周囲が薄暗かったので莢子には余り色味がないものに見えたが、実際は桜の花の様な色合いに染められた、絹布けんぷのようなものだった。この場合、一辺四枚から、長い辺では八枚の帷が合わさって一辺の面を形成している。

 初めはその帷一枚毎に、一羽の鳥が描かれているのだと思った。が、どうも違うらしい。一辺の布面全体は、あたかも一枚のキャンバスだったようで、そこには羽ばたく小鳥が躍動的に描かれている。

 画法はまるでアニメーション。左から右に向かって一羽のうぐいすの動きが、コマ切れに描き留められている。

 基本鶯しか描かれていなかったが、舞う花弁や、枝垂れ桜だろう枝が不意に姿を覗かせる帷もある。小鳥はそこに止まってみるが、直ぐに羽ばたいていく、そのような場面を描き出していた。

 こうした帷の上部からは、細い帯を二つ折りにして出来た、雫型の飾りが垂れ下がっている。布地より幾分も濃い桃色で、幕全体を引き締め、優雅さを加えるだけでなく、一層の春めきも盛り立てている。実に麗しい。

 教科書にちょっと絵が載っていたくらいの記憶しかなかった莢子は、実物が見られたことで鈍い思考の中でも感動していた。

 だが実のところ、この幕は几帳ではなく御帳台みちょうだいと呼ばれるだったし、内側に絵が描かれているのも、帷の大きさや造りも、所々彼女の世界のものとは仕様が違っていた。

 だから、莢子が美しい几帳で仕切られていると思っていたこの空間、布は頭上にも張られていた。

 その特徴は透けていることだろう。莢子の世界の御帳なら、天井部分には明障子あかりしょうじが乗っている。だが、こちらは布であり、しかし同じように外部からの光が取り込めるようになっていた。

 この天井の四角い幕は継ぎのない一枚布で、枝垂れ桜の枝が降る雨のように何本も描かれている。中心から四辺へと枝が飛び出す構図になっており、まるで桜を下から見上げた時のように感じられる。あたかも自分に向かって降り注いでくるように莢子は錯覚した。

 この美しい御帳は総黒塗りの上質な木の枠組によって出来ている。太くしっかりとした柱が一定間隔で前後左右の四辺を取り囲んでおり、角にはL字形の、辺の間には方形の土居つちいがそれぞれ足元を支えている。また、更に強度を上げるため、四隅は三本の柱によって角が作られていた。

 これら柱同士を繋いでいるのは、上部にある鴨居と呼ばれる横木である。鴨居がロの字に組まれることにより、四辺の柱同士をも一つの方形として組み上げている。また、明障子代わりである天井には井の字型に桟が組んであるのだが、井の字の中に出来る方形がとても広い形であって、それが三重になっていた。

 どこに灯りがあるのだろう。天井を覆う薄膜を通して注ぐ光により中は仄明るい。逆に言えば仄暗い。窓のない御帳で外が見えないため、状況が良く分からない。だがきっと、まだ朝にはなっていないのだろう。この静けさ、まだ夜に違いない。気を失っていたので、彼女にはどれだけ時間が経っているかは分からなかった。

 それにしてもこの御帳台、六畳ある莢子の部屋の二倍と言ったところだろうか。その中に布団が一組しか敷かれていないのだが、一人が寝るにしては寂しいくらいの広さだ。この状況でもう一度寝ろと言われても落ち着かないに違ない。

 雰囲気に合わせた調度品も何もなく、あるのは真ん中にポツリと布団だけ。実に味気ない。斗帳の素晴らしい絵がなければ、隔離されていると感じたことだろう。

 とは言え、寝かされている布団は暖かくて軽く、丈夫そうで、清潔だ。質が良いことが直ぐに分かる。化学繊維で出来ているようで、そのどれとも違うような滑らかな肌触り。シルクではないのかもしれないが、同じように如何にも高級そうである。

 手元から、ふと視線を上げたその時だ。空間の片隅に置物かと思うような老女の姿を発見した。

 他にも人が居たことでドキリ。全く気配を感じなかった。着物が黒いから余計に紛れている。少々身は飛び上がったが、悲鳴を上げずに済んで良かったと莢子は胸を撫で下ろした。

 目を閉じて正座する、その古めかしい姿。本当に平安時代に迷い込んだのかと、錯覚が起きるほどだ。

 いいや、老婆だけではない。部屋もそうだし、目の前の男性もしっかり時代錯誤な外見ではないだろうか。これがコスプレに思えないのは、高級感と着慣れた感があるからだ。煙の彼といい、まるでこの世界は時代が止まってしまっているようだ。

「気に入ってもらえただろうか。」

 彼に視線を戻してじっくりと見ていた割に、はたと思考が途切れれば、途端にふためく莢子。その様子に相手は楽しそうに笑う。彼女は身を縮めながら答えた。

「は、はい。あの、どれもお高そうです。」

 予想外の切り返しに我慢が出来ないといった体で、男が声を立てて笑い出した。何故だか大変機嫌が良さそうで、結構である。

 莢子は顔を赤くして相手の気が済むまで恥じ入っていると、部屋の隅から咳払いがした。すると彼はぴたりと笑いを止めて、わざとらしく喉の調子を整えた。

「お前はもう下がってくれていいよ。彼女も起きたことだし、心配ないだろう。」

どうやら老婆は看護要員だったらしい。けれど、相手は厳格なだけだった。

「そういう訳には参りませぬ。既に成就されたと仰れど、婚儀前でございます。男女が一つの室に籠るなど、破廉恥でございます。」

「敵わないな。」

 怪異な世界に連れて来られたと思ったが、彼らの遣り取りは人のそれとは寸分も違わない。それどころか現代では滅んでしまったような倫理観が飛び交う会話に、莢子は安心さえしてしまう。

 自分の町で人攫いに遭ったとしたら、真っ先に身の危険に見舞われていたのではないだろうか。自分を攫った人がこういった人達で、正直助かったと思えてしまう。

 しかも老婆の言葉から見るに、煙の彼が言っていた花婿とかいう例の相手、もしやこの男性なのではないだろうか。すると、ここが目的地の御殿、ということになる。…うん。言葉に違わぬ高級さだ。

 彼女はふと気づく。

 そういえば、イ草のいい匂いがする。ずっときな臭さの中連れて来られていた。煙の彼の匂いは、息がし辛い燃えた匂いというよりも、落ち葉きのすすけた匂いが遠くからしているような、どこか懐かし気なものだった。

「あの…。」

 おずおずと言葉を差し挟めば、相手はにこやかに微笑み返してくれる。その笑顔に当てられて、莢子は尋ね辛くなったものの、視線を外してから言葉を続けた。

「私を、ここに連れて来てくれた人は、どこにいますか。」

 男は穏やかに返した。

「ああ、あれなら、あなたが気にすることはない。外民げみんなのだから。第一、あなたを危険に晒したと聞く。罰されても仕方がない。」

 罰っ…。ゲミン…。煙の彼を、ゲミンだと言ったのか。聞いたことのない言葉だけれど、人の分類を指しているらしい。ゲミン。何かの総称だろうか。役柄、身分、まさか漢字は、「下民」なのではあるまいか。

 男性の言った意味とは多少の違いはあったものの、身分が低いという莢子の認識は合っている。

「どうしてっ。」

勝手な憶測からのショックに、彼女は非難の声を上げてしまった。

 あれ程誠実で、親切にしてくれた人が蔑まれるような身分とは。高貴な佇まいを纏った、あの人が。信じられない。

 それでも相手の先の口調は、至極何でもないことを扱うかのようだった。それが一層、彼女に違和感を与えている。

「罰だなんてっ。あれ、あれはっ…。」

どの出来事を指しているのか混乱する莢子は直ぐに辿り着けなかった。が、あの時のマジックショーのことに違いないと合点がいくと、煙を弁護し始めた。

「あれは、私、私がっ…。」

何をしたと言うのだろう。とにかく分からなかったが、自分に責任があったのだとアピールしたい。

 すると、言葉に出来ない彼女の思いを勝手に解釈してくれた相手が、慈愛に満ちた眼差しで、莢子の都合が良いように繋いでくれた。

「蓮珠の池を歩きたいとあなたが望んだとは言え、責任は果たさねばならない。あれは責務を全うできなかったのだ。」

子供を諭すように彼女を説き伏せる。けれど引き下がってはいられない。

「彼に会わせてくださいっ。どこに行けば会えますかっ。」

 相手に詰め寄ろうとしたその時だ。静かであるにも拘らず、雷のように厳しい声を浴びせられてしまった。

「お控えくださいっ。女子おなごが殿方に声を上げるなど、はしたのうございます。まして主君に向かって無礼でありましょう。」

 冷や水を浴びせられたように莢子の胸が空く。だが、その怯えを忘れさせるような威厳のある声が遮った。

「お前こそわきまえよ。この方は私に対して何事でもして良いのだ。この方と同じ位置に座している私こそ、恐れ多いことであるのだと知れ。」

大きな声ではなかったのに、こちらもまた胸を貫く様な声だった。

 主人からの思ってもみない言葉に、老婆は全てを悟ったような気持がした。主人が執着してきた天日国あまつくにの娘。人の娘などと、余りにもし難く思っていたが、それだけの存在ではなかったということなのだ。

 この一族は築き上げる住まいの大きさで、その実力が示される。ところが老女の主人は住まいと言うよりも、都を築き上げてしまった。そしてそれを保持している。その力は一族の中でも及ぶ者の無い程の絶大さだ。

 その主人が、年若い小娘にこれ程のへりくだりを見せた。昔にあやかっただけの婚礼、主人の唯一の我情。それこそも、箔付の為だけだと思っていた。だからこそ、老婆は理解は出来ずとも、今まで何かを進言することもなかった。

 確かに、千年ほど前には人と婚姻を結ぶのが一時流行っていたと聞いたことがある。だが、今ではそれもすっかり廃れ、噂にも上らなくなって久しい。

 主人がこの逸話を持ち出してきた時には、随分古風なことを望まれると周囲は驚いたものだ。たかだか人間の娘をわざわざ姫と呼んでいるのも、相手に実力があるからではない。この世界の唯一の覇王にあやかり、縁起担ぎをしたいが為との認識しかなかった。勿論、主人がこの娘の為に払ってきた努力を、誰も知らぬわけではなかったが。

 それでもやはり、たかが人の国の者、主人のお戯れ、それだけの存在なのだと老婆は高を括ることを止めなかった。仕女つかえめの分際でおこがましくも、人如きに何故ここまでと、疑問を抱かなかったわけではない。

 本妻ではないだろうにしても、主人の隣に並び立つ地位に据えることすら彼女には正直認められるものではなく、準備が進む度に苛立ちを強くしてきた。出来ることなら、失敗に終われば良いのにとさえ思っていた。一度の使いで役目を果たしてしまったあの憎らしい外民が、腹立たしくて仕方がない。

 娘の為に礼儀をもって迎えたのではない。この屋敷の女主人になる娘とはいえ、只の人間、お飾りに過ぎない。それでも礼を欠かなかったのは、偏に主人への忠義、それだけだった。

 しかし、主人のこの言葉を聞いて見識が改まった。見た目からでは分からない、対面していても分からないが、小娘は主人にとっての深い縁、元より只者ではなかったのだ。

 老婆は直ぐ様認識を改め、平伏した。その意識の置換は見事。偏に主人を心から敬服している表れだろう。

「これまでの自らを省み、消え入りそうでございます。如何なる御処分でもお与えください。何卒この無知をお許しくださいますように。」

 主人は寛大にも言った。

い。お前が浅はかだったのは、私の過失だ。」

「何を申されますっ。」

相手は顔を伏せたまま恐れ入ったが、主人は続ける。

「だが、思うところがあってのこと。それ故、今の言葉は内密にし、上手く取り計らえ。」

「肝に銘じ、畏まりましてございます。」

 主人は家人けにんの忠実さに鷹揚おうように頷いて見せると、この件は終わったとばかりに莢子の方へ顔を向けた。その表情は既に主人のそれから、一介の男性へと変わっているようだ。

「見苦しいところを見せてしまった。許しておくれ。」

 先程述べた尊敬の念はどうしたのだろう。男は莢子に対して、上でも下でもないような話し方をする。だがそれは逆に、彼のひたむきな気持ちの表れだった。

「いえ、そんな。私の方こそ、偉い人に向かって、ごめんなさい。」

 叱られる子供のように身を小さくする彼女に、相手は多少の焦りを見せてなだめた。

「待て。先にも言ったが、私などあなたの足元にも及ばぬ身。光栄にもつがえるからには、せめてお互いに姿勢だけは対等でありたい。それ故、こうして無礼にもあなたを一人の女性として、恐れながら扱おうとしているのだ。だからどうか、あなたも私を一人の男として扱ってほしい。」

「……は、……はぁ。」

何時の間に高貴な身分になっていたのだろう。莢子は我が身を省みて不安を覚えた。

 人違いしてるんじゃないかしら。

 それが明るみになった時、最悪殺されるんじゃないかと想像すれば、彼の提案は到底受け入れられないような気になってくる。処刑人の先鋒は、そこの老婆に違いない。彼女の目が恐る恐る老婆に向いて、直ぐに外れた。

 莢子は逃げ道を確保すべく、先の質問に返ることにした。

「あの……、私を送ってくれた人は、どこに……。」

 そこから離れない彼女に、相手は不思議な思いを抱いて尋ね返す。

「どうしてあの者を気にするのだ。あなたには今後も関係の無い者だ。」

 関係が無い。それは困る。

「つ、連れて来てくれたお礼とか、無事なのかも確かめたいし。第一罰だなんてっ。」

嘘ではないが、取って付けたような理由を挙げたし、罰だけは本当に勘弁してもらいたい。

 けれど相手は素直にも、これに感心して言った。

「ああ、あなたはやはり心根が優しく、美しい女性であるな。」

彼は愛おしむ様に微笑んだ。

 え……。一体、自分の何を知っているというのだろう。莢子は人違い説を支持せずには、それに応じて身の危険を感じずにはいられない。

「分かった。処分は免れぬが、何か褒美を取らせておこう。あの身が無事なのは既に報告が上がっている。心配せずともよい。」

褒美と言っても、一日の休暇か、何か美味しい物の一つでも与えるだけに過ぎない。

「え、あの、そうじゃなく…。」

「不服か。」

純粋な疑問に、首をちょっと傾げる相手。

 間違ってはいない。煙の身が一応安全なのは分かった。だが、身分の壁から来る考え方の差を乗り越えられない。この状況に苦戦する。

 罰は与えないで欲しいし、何より会いたいと言っているのを分かって欲しい。ここははっきりと伝えなければ話が進まないと見た。彼女は思い切って打ち明けることにした。

「あのっ…、あの人に、会いたいんですっ。今すぐにっ。」

 ところが恋慕の様な彼女の熱意も何のその。相手はそれでも合点がいかないように、やや眉を潜めるに留まった。が、根が優しいのだろう、粘り強く確かめてくれる。

「直接会わねば済まない事情でも、あるのか。」

 待ってましたとばかりに、莢子は首を激しく上下した。

「そうですっ」、罰を受けない姿を確認し、それから助けてもらわないとっ。

 本心は伏せて相槌を打てば、彼はフッと笑って、問題は解決したとばかりに自信ありげな返答をした。

「私がいるではないか。あなたの全てを解決してあげよう。」

 じゃあ、元の場所に帰してください。口先まで出かかったが、莢子はこらえるために布団の上にうつ伏した。

 すんなり叶えられるものなら、ここまで連れて来られるものかと、常識的な自制が掛かる。

「まだ疲れているようだな。今一度休むといい。」

 壁が厚過ぎて高過ぎて、彼女には踏破出来ないような絶望感。やけっぱちな気分になって、視線だけをチロリと上げる。相手をすがめながらも尋ねてみることにした。とりあえず、今の状況だけは確認しておかないと。

「……じゃあ、お聞きしますけど、私って、何で連れて来られたんでしょうか。いえ、あの、コンコ、コンなんとかのモン、って……。」

一度聞いただけの耳慣れない言葉。合っているのかも分からないから、通じるかも分からない。

 だが、思えばこれさえ現れなかったなら、このようなことになっていなかったのではなかろうか。契約がどうとか、成立とかなんとか言っていたし。

 途端、相手は何故か喜色を顔に浮かべてみせた。

「それは、正式な契約の証だ。」

 やっぱりそうだったのか…。

「契約って、…コンなんとか、の。」

推測しながら尋ねる。男はうんと頷いた。

婚媾こんこうの約だ。原初の正式な仕来りに則り、この度契約が結ばれて嬉しく思う。」

 その慈しみ深い眼差し。初対面の自分に向けられる意味が分からなくて、そのまま見詰め返してしまう。けれど、ハッとした。

 ちょっと待って、だから目の前の、この男の人って……。

「やっぱり、花婿って、あなた、ですか……。」

 破顔一笑。ああ、大人の人だが、少年のような良い笑顔だ。ああ、一番初めに、元々欲していなかった謎の答えが分かってしまった。

 起き立ては何時も頭が呆けていけない。老婆の態度から、この男性がこの御殿の主だと丸分かりだったじゃないか。目覚めた時、ずっと目の前にいるこの男性ひとが、花婿らしいと思っていたじゃないか。だけど…。

「ま、ま、まま、まって、まってっ。」

 コンコウって、結婚みたいなことを指していたのだと、合点がいく。つまり、婚約しちゃったってことだ。え、もしかして、既に結婚しているとかまで、有り得るのかしら。

 相手は見ず知らずの上に、どうも五歳以上、もしかすると十歳以上年上だ。第一相手の年齢を気にしてしまうのは、こちらが学生の身分だからだ。そのような人生設計を思い描いたことがなかった。いや、この際年齢や立場など関係ない。根本から青天の霹靂ではないか。

「な、なな、なんで、なんであなたが来ないで、人を寄越したんですかっ。」

 誰かを仲介させるから、ややこしいことになったのではないのか。出会ったのが煙のあの人ではなく、元からこの人だったなら、ここまで来ることなく問題は解決し、今頃家に居たかもしれない。

「何故って…、それが仕来りだったからだ。会えるものなら、私が迎えに行きたかった。そうだろう。」

 同意を求められても困る。垂れた目元だから、気落ちすると余計に痛ましい。

 ええい、相手は大の大人だ。こちらが罪悪感を抱く必要はない。

「さっきから、その仕来りって、つまり…。」

 混乱している莢子を置き去りにするような、嬉し気な微笑みを再び浮かべる。彼女が全く理解していないとは露知らず、男は自分の探し得た方式が、彼女の知っている、人の世で周知されているそれと同じかどうか、確認したいと思った。

 それに加え、前提としてこちらの世界の習いを紹介しておく必要もあるだろうと、彼は答えた。

「婚媾の紋自体は、私たちの間で誰もが行う、求婚の証だ。けれど、私が行った婚媾の約は、勿論それとは全く違う。相手があなただったからこそ、正式な手順で迎えたかった。

 とは言え、当時は口伝の知識しかなく、此方こちらには記録自体も少なかった。残念ながら、探し得た限りで行うしかなかったのが正直なところだ。それであなたを混乱させたかもしれない。不十分だったことは詫びる。」

 その通りだっ。不十分過ぎたに違いないっ。大体中途半端だったかもしれないと分かっていながら、完遂しようとしないで欲しかったっ。

 莢子の内なる荒ぶりに気付かないので、男の話は続いていく。

「その手順はあなたも身を以て知っての通りだ。番いたい相手に婚媾の紋を刻む。これだけでは想いを寄せていますと伝えるだけで、話は進まない。紋様も相手が拒めば一定の期間の後消えてしまう。だが、あなたは拒まないでいてくれた。」

 拒むも何も、知らなかったっ。莢子の内なる指摘は続いていく。

「紋を刻まれた相手は互いの間に謎を掛けることが出来る。その者が己にふさわしいかをふるいに掛ける面もあるのだが、謎を渡すことで互いの関係を深めて行けるという面もある。つまり、紋を刻まれた者が謎を掛けるということは、相手を知りたい、または、お互いの仲を深めたいという意志の表れともなるのだ。ここまではいいだろうか。」

 彼は自分の理解が合っているかを莢子に尋ねている。何故なら、この仕来りこそ、からだ。ところが彼女にしてみれば、歴史を遡っても耳にしたこともない突飛なルール。だから今の説明が理解できたかどうかの確認としか思っていなかった。

 それで莢子の顔は思いっきり今の心境を反映していた。

 疑問符で頭の中は一杯だ。煙が盛んに「謎を、謎を」と求めていたが、互いの関係を初める為の一歩だったのだと漸く分かった。その相手は煙ではなく、目の前の男性だったのだが…。

「求婚の証をあなたに残してから、このようにも時間を掛けてしまったのは、あなたを迎えるに相応しくなるためだった。待たせなければ混乱させることも少なかったと済まなく思う。」

 いや、そうじゃない。問題はそこではなくて…。待って、相手を知りたい、仲を深めたいとの意思の表れ…。謎を出したのは、私…。出しちゃったのは、私っ。この関係を始めてしまったのは、この私っ。

 彼女は理解していなかった。そして煙はそれすらも上手く操っていた。この契約を締結するのに本当に必要なのは、条件を相手に提示してもらうことだ。そして煙はそれらを明るみに出すことなく、莢子を連れ出すためにだばかっていたのだ。

 彼女は知らぬ内に乗せられていた。それで極単純な質問が条件として成り立ってしまった。あまつさえ、それに対する煙の答えに彼女がある意味納得してしまったことで、この契約が締結したなりに、完了してしまったのだ。つまり、結婚の申し出を受け入れてしまったということになる。

 莢子の愕然とした気持ちも知らず、男は求婚した後についての説明を続ける。

「それからは互いに顔を合わせてはいけない。両者の間は仲介人が取り持ち、掛けられた謎はそれを通してほどいていく。正しく解ければ、あるいは相手が納得すれば、この契約は果たされる。つまり、婚姻に合意したということになる。いいかな。」

 男は尚も自分の理解が正しいか、莢子に尋ねた。だが、彼女はこの度もまた、別の意味で捉えていた。あずかり知らなかったとはいえ、合意したことを反故にするつもりじゃないだろうなと、圧を掛けられたのだと思っていた。

 待ってっ。莢子は内心叫んだ。それが声になっていなかったので、男の話は続いて行く。

「本来ならば私の許にあなたが出した謎が上がってくるはずだったのだが、婚媾の紋が定まったということは、契約者同士ではなく、仲介人がそれを解いてしまっても問題はなかった、ということなのだな。」

 男は文献になかった情報を知り、未知の領分に光が差した時の研究者のような満足感を覚えていた。老婆に言うように更に続ける。

「謎解きの楽しみは失ったが、仕事が早い点は評価できる。皆は不服だったろうが、あの者を選んだのには、更なる訳があるのだ。」

「我が君の御慧眼に間違いはございません。これからも心を尽くし仕えることをお許しください。」

「思う通りにしなさい」と、許した男は莢子に続けた。

「それで、一体どのような謎を掛けたのだ。」

 ところが、当の彼女は立て続けに明かされる疑問のオンパレードにパンクし、思考が停止してしまった。男からは疑問に対する答えをもらっているはずなのに、混迷していくだけなのは何故だろう。

 咀嚼して飲み込むことも儘ならず、相手の言葉を理解する力も失せている。呆けたように瞬きだけを繰り返す莢子に、男は彼女の中で話が落着してしまったのだろうと思い、再度は尋ねなかった。

「今日からここがあなたの住まいとなる。末永く、宜しく頼む。私の花嫁、あなたを大切にする。」

本当は抱き締めたかったが、老婆がうるさいので我慢した。

 双方残念なことに、男にとって最も大切な最後の部分は、莢子の耳には届いていなかった。その一つ前の言葉が彼女の思考を留めてしまい、脳内を占めてしまったからである。

 すえ、永く…、末永く、ここが、住まい……、末永く……。

「ちょっ、と、待ってっ。私、ここに住むのっ。ずっとっ……。」

 幼子が無邪気な質問をするように、いや、再び回線が繋がったように、ようやく発声した。

 両者の温度差は激しい。男は彼女の何もかもが嬉しいようで、相手の言葉を借りてニコニコと答えた。

「ああ。ずっと、一緒だ。」

「……。」

切れていた油が上手く全身に回り始めてきたようだ。

「ま、ま、ま、待って、待って、落ち着いて。ううん。落ち着こう。そう。そうじゃなくて。」

潤滑油が回ったからと言って、直ぐに快適な起動を求めてはいけない。

 相手が突然訳の分からないことをしゃべり出したものだから、男の絶えなかった微笑みもようやく絶えた。莢子は左右を見回して、意味のない行動を執り始めるほど混乱していた。

「えっと、だから、……うん、夏休みだからって部活もあるし、私のお家はあっちだし、……そりゃあ、帰るよね。」

明後日の方に笑顔で頷き、この考えを自己肯定する。

 立ち上がった莢子は、さりとて辺りを見渡したが、出入り口が分からない。ただ、どれも布が下がっているだけなので、取り敢えずどこでも良いだろうと誰もいない左の方へ向かい出した。

「恐れながら、姫様は御乱心かと存じます。ご無礼お許しください。」

老婆は言って、莢子に向かって手を伸ばした。

 すると、どうしたことだろう。突然、彼女の体が何かに縛られたように拘束された。両手は体に沿って固まり、両足さえ左右一纏ひとまとめにくっついて、まるで磁石のよう。それだから倒れると慌てたのに、予想に反して体は背後へと吹っ飛んだ。

 どこか布団ではないところにボスッと落ちたが、痛くはない。頭上から声がする。

大女おおめ、危ないではないか。」

「どのような処罰も覚悟しております。僭越ながら、姫様をあのままになされば、御身に危険が及ぶと、愚考いたしてございます。」

 だからと言って、主人を着地点として飛ばしたわけではない。途中で軌道を変えたのは彼自身だ。

「お前は罰しない。解いてあげなさい。」

「畏まりました。」

 急に体が楽になれば、知らない力に勝手にされる身の上が酷く悲しくなってきた。ポロリと涙が零れれば、堰を切ったように泣けてくる。

「お、母さん…、お父、さんっ…。う、う、おかあさぁ~んっ。」

「ま、待て、泣くな。泣かないでくれ。」

 莢子を腕の中に預かっている男は、彼女の涙を堰き止めるかのように頬に手を当てた。それを嫌、嫌と首を振って拒もうとする彼女。

献言けんげんさせていただきますれば、人の花嫁にはよくある発作と聞き及んだことがございます。ここは暫くお一人にして差し上げるのが宜しいかと存じます。きっと御心も落ち着かれましょう。」

波風を立てないように静かに意見したのは、勿論老婆だ。

 余程主人の腹心なのだろう。そういうものなのかと、男は納得して、少し安心してしまった。第一、彼は契約が果たされた時点で、莢子が心からこの婚姻を受け入れてくれたものと思っている。自分を含めた全てをだ。

 元々この仕来りは、人の方から提示されたものだと記されていた。だから、男の中では大前提として、人の世界では良く知られている習いであり、莢子は当然納得の上で合意したのだとすら思っていた。

 まさか半ば騙されたように来ているとは思ってもおらず、泣き出した原因は両親かと推測しているくらいだった。

 彼はそっと莢子を布団に下ろし、声を掛けた。

「では、後でまた来るよ。この件についてはその時に話そう。」

返事もしないで泣き崩れる彼女に、気遣わし気な視線を送りながらも、彼はそれで出て行く。

 すると、「わたくしは外で控えております故、どうぞご随意にお声掛けください」と、老女も出ていってしまった。

 何ということだろう。ヒステリックを起こしたら、あっさりと誰もいなくなってしまった。ああ、影絵の一つに感動して、我が身を売ってしまうとは。

 莢子は事の重大さを噛みしめながら、ひたすらさめざめと泣き続けるのだった。

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